源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第七巻 紅葉賀

第三段 温明殿付近で密会中、頭中将に発見され脅される~その1



【現代語訳】1

 たいそう秘密にしているので、源氏の君は二人の仲をご存知ない。典侍はお見かけ申しては、まず恨み言を申すので、年の程もかわいそうなので、慰めてやろうとお思いになるが、その気になれない億劫さでたいそう日数が経ってしまったが、夕立があってその後の涼しい夕闇に紛れて、温明殿の辺りを歩き回っておられると、この典侍が琵琶をとても美しく弾いていた。御前などでも殿方の管弦のお遊びに加わりなどして、殊にこの人に勝る人もない名人なので、恨み言を言いたい気分で弾いていた折りとて、とてもしみじみと聞こえて来る。
「瓜作りになりやしなまし(他のお方に靡こうか)」と、声はとても美しく歌うのが、ちょっと当てつけがましく気に食わない。「鄂州にいたという昔の人(白楽天の詩にある人)も、このように興趣を引かれたのだろうか」と、耳を止めてお聞きになる。弾き止んで、とても深く思い乱れている様子である。

君が、「東屋(戸を開けて下さい)」を小声で歌ってお近づきになると、
「押し開いて来ませ」と、後を続けて歌うのも、普通の女とは違った気がする。
「 立ち濡るる人しもあらじ東屋にうたてもかかる雨そそきかな

(誰も訪れて来て濡れる人もいない東屋に、嫌な雨垂れが落ちて来ます)」と嘆くのを、

「自分一人が怨み言を負う筋ではないのに、嫌になるな。何をどうしてこんなにしつこいのだろう」と、お思いになる。
「 人づまはあなわずらはし東屋のまやのあまりも馴れじとぞ思ふ

(人妻はもう面倒です、あまり親しくなるまいと思います)」と言って、通り過ぎたいが、「あまり無愛想か」と思い直して、相手によることなので、少し軽薄な冗談などを言い交わして、これも珍しい経験だとお思いになる。

頭中将は、この君がたいそう真面目ぶっていて、いつも非難なさるのが癪なので、何食わぬ顔でこっそりお通いの所があちこちに多くあるらしいのを、「何とか発見してやろう」とばかり思い続けていたところ、おもしろい現場を見つけたという気分で、まこと嬉しい。「このような機会に、少し脅かし申して、お心をびっくりさせて、これに懲りたか、と言ってやろう」と思って、油断をおさせ申しあげる。


《源氏は、侍女が気の毒だから相手をしてやろうかとも思いながら(源氏は、末摘花の時にもあったように、しばしばこのように相手の女性をいたわり、思い遣って、サービス精神を発揮します、彼の根のまじめさを物語っています)、一方でそのかなり品のないことに疎ましい気持ちもあり、また音楽に「この人に勝る人もない名人」で、対話でも打てば響くといった対応ぶりなので、つい声を掛けてしまい、詠まれた歌には「どうしてこんなにしつこい」と思いながら、やはり「少し軽薄な冗談などを言い交わして」みたりなど、なんとも心定まらないままに、つかず離れず、しかしなんとなく近づいていく案配です。そのおずおずとした感じが至って滑稽に思われます。

 それを頭中将はどこかから見ていたということのようで、笑いをこらえながらでしょう、この現場を押さえてポイントを稼ごうとの思いでいます。

ところで「頭中将は、この君がたいそう真面目ぶっていて、いつも非難なさるのが癪なので」とありますが、源氏にそんな資格があるとは、読者には到底思われず、大変意外です。それにこれまでにそのことは読者に知らされたことはありませんでした。
 『評釈』は、こういう言い方で、書かれている以外に物語の周辺にさまざまなことがあっていることを示して、物語に幅を持たせていると言いますが、
それは現代の読者にとってはいささか好意的すぎる解釈で、むしろその唐突感に戸惑わされる方が大きく思われます。
 子供が紡いで聞かせる物語が往々にしてそういうことがあるように、この時代はまだ、そういう点ではかなりアバウトな意識だったのだと考える方が妥当なのではないでしょうか。

ともあれ、二人がそういう張り合った感じの男友達関係にあったということを認めて(それは末摘花の第三段あたりでも感じられたことですので)、ここからのドタバタを楽しむことにします。》




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第二段 源氏、源典侍と和歌を詠み交わす

【現代語訳】

 源典侍は、お上の御髪梳りに伺候したが、終わったので、お上は御袿係の者をお召しになってお出になりあそばした後に、他に人もなくてこの典侍がいつもより小綺麗にして、姿形、髪の具合が艶っぽくて、衣装や着こなしもとても派手に洒落て見えるのを、源氏は「何とも若づくりな」と苦々しく御覧になる一方で、「どんな気でいるのか」とやはり見過ごしがたくて、裳の裾を引っ張って注意をお引きになると、派手な絵の描いてある夏扇をかざして顔を隠して振り返ったまなざしは、精一杯の流し目をするが、まぶたがげっそり黒く落ち込んで、肉が削げて皺だらけである。
「似合わない派手な扇だな」と御覧になって、ご自分のお持ちのと取り替えて御覧になると、赤い紙で顔に照り返すような色合いで、木高い森の絵を金泥で塗りつぶしてある。その端の方に、筆跡はとても古めかしいが、なかなか上手に、「森の下草老いぬれば(馬も好まず刈る人もありません)」などと書き流してあるのを、「他に書くことも他にあろうに、とんだ趣向だ」と可笑しくて、
「『森こそ夏の(ほととぎすがたくさん集まる)』というではないか」と言っていろいろとおっしゃるのも、不釣り合いで人が見つけるかと気になるが、女はそうは思っていない。
「 君し来ば手なれの駒に刈り飼はむさかり過ぎたる下葉なりとも

(あなたがいらしたならばご愛馬に秣を刈ってやりましょう、盛りの過ぎた下草であっても)」

と詠み出す様子は、この上なく色気たっぷりである。

「 笹分けば人やとがめむいつとなく駒なつくめる森の木がくれ

(笹を分けて入って行ったら人が見咎めるでしょう、いつでも馬を馴れ近づけている森の木陰は)

 厄介なことだからね」と言って、お立ちになるのを、袖を取って、
「まだこんなつらい思いをしたことはございません。今になって身の恥に」と言って泣き出す様子は、大変おおげさである。
「そのうち、お便りを差し上げよう。いつも思いはしているのだが」と言って、振り切ってお出になるのを、懸命に取りすがって、「『橋柱』(思いながら、このまま切れてしまうおつもりですか)」と恨み言を言うのを、お上はお召し替えが済んで、御襖の隙間から覗き見あそばしたのだった。「似つかわしくない仲だな」とたいへんおかしく思し召されて、
「女に目も向けぬなどと、女房たちがいつも困っているようだが、それでも見過ごさなかったのだな」と言って、お笑いあそばすので、典侍はばつが悪い気がするが、恋しい人のためなら、濡衣をさえ着たがる類もいるそうだからか、大して弁解も申し上げない。
 女房たちも、「意外なことだわ」と、取り沙汰するらしいのを、頭中将が聞きつけて、「知らないことのないこの私が、あの女のことはまだ気がつかなかったことよ」と思うと、いくつになっても止まない好色心を見たく思って、いい仲になってしまったのであった。
 この君も、人よりは素晴らしいので、典侍は「あのつれない方の気晴らしに」と思ったが、本当に逢いたい人は、お一人であったとか。大変な選り好みだことよ。

 

《帝の話なるのかという読者の予期に反して、帝付きの老侍女の話のようです。その老侍女は、五十七、八歳だと、少し後の方(第三段2節)で書かれているのですが、源氏が「やはり見過ごしがたくて、裳の裾を引っ張って注意をお引きに」なったというのですから、ちょっと驚いてしまいます。ちなみに源氏は十九歳のはずです。

侍女は源氏の語りかけに応えながら「精一杯の流し目をするが、まぶたがげっそり黒く落ち込んで、肉が削げて皺だらけ」といったあり様で、源氏も声は掛けたものの、我ながら「不釣り合いで人が見つけるかと気になっ」て、いつものように「恥をかかせない程度に軽くあしらって」しまおうとします。

ところが、今回は老練で恥も忘れた侍女なので、いささか勝手が違ったようです。女が本気になってしつこく迫ってくるのをあしらいきれずに、とうとう逃げ出す羽目になりますが、女はその後ろ姿に向かって、恨み言を言いかけます。

その一部始終を帝が襖の隙間から眺めているなど、まるでテレビのバラエテイ番組の中のコントさながらです。

帝は、女房たちの噂するほど「好き心」が無いわけでもないようだと、お笑いになり、この事件が噂になって、頭中将が聞きつけ、それなら自分も、とその老侍女に言い寄って、あっさりといい仲になったというのですから、かなり思い切った展開です。

帝に冷やかさされた老女を「ばつが悪い気がするが、恋しい人のためなら、濡衣をさえ着たがる類もいるそうだからか、大して弁解も申し上げない」としたあたりは、この老侍女の厚顔にして一途という面目躍如といったところで、作者の人間造形はさすがという気がします。》



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第一段 源典侍の風評


【現代語訳】

 帝のお年はかなりお召しあそばされているが、このような方面は無関心ではいらっしゃられず、采女、女蔵人などの容貌や気立ての良い者を、格別にもてなしお目をおかけになっていたので、気の利いた女房の多い頃である。源氏がちょっとしたお声でもおかけになる時には、お心に沿わない者はめったにいないので、源氏は見慣れてしまったのであろうか、帝のお言葉のように不思議にも好色な振る舞いがないようだと、女房が試しに冗談を申し上げたりなどする折もあるが、恥をかかせない程度に軽くあしらって、本気になっては深入りされないのを、心底からもの足りながる女房もいる。
 年をたいそう取っている典侍で、人柄も重々しく、才気があり、高貴で、人から尊敬されてはいるものの、たいそう好色な性格で、その方面では腰の軽いのを、源氏は「こんなに年を取ってまで、どうしてそんなにふしだらなのか」と、興味深くお思いになったので、冗談を言いかけてお試しになると、不釣り合いなとも思わないのであった。あきれた、とはお思いになりながら、やはりこのような女もおもしろくて、お会いになったりもしたが、人が漏れ聞いても困るような年とった年齢なので、そっけなく振る舞っていらっしゃるのを、女はとてもつらいと思っていた。

 


《この前の節に帝の言葉が出てきて、それに続く帝の話です。

始めの一段落が、ひどく持って回った文章ですが、要するに、この頃宮廷は、帝の好みで美女揃いだったが、源氏はそういう女性たちをほとんど相手にしないでいたので、女性たちは物足りない気持でいた、ということです。
  この書き出しについては『評釈』がたいへん詳しい解説をしていますが、そこに言うとおり、読者にとっては、思いがけず帝の話になって来て、改まった調子で、別の物語が始まるかと思うような書き出しです。と言うより、以下の話をするために、ことさらに前節で帝を出したのではないかと思われさえします。

さて、ここによれば、源氏は宮廷では「不思議にも好色な振る舞いがないようだ」と思われていたようですが、物語を順に読んできている私たちは、源氏の実際の生活はそれどころではなくて、実は宮廷の外でさまざまな「好色な振る舞い」があっていたことを知っているわけです。「われわれ読者は、光る源氏に関して、もっと別のいろいろなことを知っている、と読者は得意になる。」と『評釈』は言います。

果たせるかな、源氏はここでも、登場してきた老女房とのことに関わって、「好色な振る舞い」の結果、ドタバタ劇を演じることになります。》

 

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第四段 源氏、紫の君に心を慰める~その3

【現代語訳】3
 このように、引き止められなさる時々も多くあるのを、自然と漏れ聞く人が、大殿にも申し上げたので、
「誰なのでしょう。とても失礼なことではありませんか」
「今まで誰それとも知れず、そのようにお側にくっついたまま遊んだりするような人は、上品な教養のある人ではありますまい」
「宮中辺りでちょっと見初めたような女を、ご大層にお扱いになって、人目に立つかと隠していられるのでしょう。分別のない幼稚な人だと聞きますから」などと、お仕えする女房たちも噂し合っていた。
 お上におかれても、「このような女の人がいる」と、お耳に入れあそばして、
「気の毒に、大臣がお嘆きということも、なるほどまだ若輩だったそなたを一生懸命にこれまでに仕立て上げた大臣の心づくしがどれほどか、それがわからぬ年頃でもあるまいに。どうして薄情な仕打ちをなさるのだろう」と仰せられるが、恐縮した様子で、お返事も申し上げられないので、「女君がお気に入らないようだ」と、かわいそうにお思いあそばす。
「その一方では、好色がましく振る舞って、ここに見える女房であれ、またここかしこの女房たちなどと、浅からぬ仲に見えることもないし、噂も聞かないようだが、どのような人目につかない所にあちこち隠れ歩いて、このように人に怨まれることをしているのだろう」と仰せられる。

 

《こうして大殿への訪れが途絶えがちになるので、葵の上の女房たちからは不満が漏れます。しかしその不満は、源氏に対してではなくて、対抗する形になる女性に向けられているというのが、おもしろいところです。

 そしてその非難が、二条院の姫が幼い少女だと思いもしないままに、相手を「お側にくっついたまま遊んだりするような人」とか「分別のない幼稚な人」と評しているのが、なんともおもしろいところです。

その話が帝の耳に入り、源氏に対して意見をします。言葉としてはかなり厳しいもののように思いますが、すぐに「『女君がお気に入らないようだ』と、かわいそうにお思いあそばす」と思ったというのは、かわいいと思っている故の甘さで、意見もやや腰折れの感があります。

と、ここまででこの巻の主要な話は終わりです。ということは、源氏にとってこの三人の女性との交渉がこのままの状態でしばらく続いたということになります。

そしてその背後で起こった、ばかばかしいエピソードが語られるのが、次の一章です。》


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第四段 源氏、紫の君に心を慰める~その2

【現代語訳】2

 大殿油を燈して絵などを御覧になっていると、お出かけになるとあったので、供人たちが咳払いし合図申して、
「雨が降って来そうでございます」などと言うので、姫君はいつものように心細くてふさいでいらっしゃる。絵を見ることも途中のままやめて、うつ伏していらっしゃるので、とても可憐で、お髪がとても見事にこぼれかかっているのを、かき撫でて、
「出かけている間は寂しくお思いか」とおっしゃると、こっくりなさる。

「私も、一日もお目にかからないでいるのは、とてもつらいが、幼くていらっしゃるうちは気安くお思い申して、まず、ひねくれて恨み言をいう人の機嫌を損ねまいと思って、それが厄介なので、暫くはこのように出かけもするのですよ。大人におなりになったと思ったら、他の所へは決して行きませんよ。人の嫉妬を受けまいなどと思うのも、長生きをして、思いのままに一緒にお暮らし申したいと思うからですよ」

などと、こまごまとご機嫌をお取り申されると、さすがに恥じらって、何ともお返事申し上げなされない。

そのままお膝に寄りかかって、眠っておしまになったので、とてもいじらしく思って、
「今夜は出かけないことにした」とおっしゃると、皆立ち上がって、御膳などをこちらに運ばせた。姫君を起こしてさし上げにさって、
「出かけないことになった」とお話し申し上げなさると、機嫌を直してお起きになった。

 ご一緒にお食事を召し上がる。ほんのちょっとお箸を付けになって、
「では、お寝みなさい」と不安げに思っていらっしゃるので、このような人を放ってはどんな道であっても出かけることはできない、と思われなさる。

 
《ここから呼び方がまた「姫君」にもどって、純真で素直な、幼い振る舞いになります。こうした少女は、しばしば大人の(と言っても、源氏もまだ十九歳なのですが)心を捉えて、魅惑します。

「絵を見ることも途中のままやめて…、とおっしゃると、こっくりなさる」などというあたりは、まったく目の前に見るようで、読むだけでいとおしいような気がします。

それでも源氏は、例の女性を口説く口上手で、いろいろとなだめすかそうとするのですが、姫君はそれを聞きながら、その膝の上であどけなく眠ってしまいうのです。こういう少女を措いて出かけることなどできないというのは、よく理解できます。

とうとう源氏も出かけるのをやめて、食事を運ばせることになりました。

ところでここの源氏の夜歩きの言い訳は、当時女房たちにとってどのくらいの普遍性を持っていたのでしょうか。今読むと、全くの子供だましの話としか思われないように思います。作者はこの源氏の言葉を、納得できるものとして書いているのでしょうか。私には、身勝手で虫のいい、見え透いた下手な言い訳として、源氏を、そして男一般を、笑っているように思われるのですが。》 


※ 昔、学生時代に見た仏映画『シベールの日曜日』が忘れられません。ピエール(三十一歳)とフランソワーズ(十二歳)という男女(?)が、それぞれの孤独の心をお互いに美しく癒やし合う悲劇ですが、心に空洞を持つ若い男性がこういう天使のような少女に、ほとんど恋愛に近い感情を抱くのは、よくあることなのではないでしょうか。

そして実は、自分でそれに気付いているか否かは別にして、若い男性で心に空洞を持たないという人は、めったにいないのではないでしょうか。源氏も、ピエールも、(そしておこがましくもあえて言えば半世紀前の若かりし往年の私も)そうでした。

このごろ、同種のことから生じると思われる犯罪が絶えません。もちろん現実のかの加害者の自制心の乏しさは厳しく断罪すべきですが、犯罪者の根源的意識は、決して一般人と別世界のものではありません。それは、金貸しの老婆をなたで撃ち殺したラスコーリニコフとか、平和な家庭に自足していたレナール夫人の心を乱し、果ては短銃で撃ったジュリアンとかという犯罪者が、世界的名作の主人公たり得ていることからも分かります。
 それにしても、あの映画のラストはあまりに悲劇的でした…。 


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