【現代語訳】

 伊予介は、神無月の朔日ころに下る。女房方が下って行くだろうということで、餞別を格別に気を配っておさせになる。また空蝉に対しても内々になさって、細工がよく美しい格好の櫛や扇をたくさん用意して、幣帛などを特別に大げさにして、あの小袿もお返しになる。

「 逢ふまでの形見ばかりと見しほどにひたすら袖の朽ちにけるかな

(再び逢う時までのせめてもの形見の品にと思って持っていましたが、すっかり涙で朽ちるまでになってしまいました)」

 こまごまとした事柄があるが、煩しいので書かない。

 お使いの者は帰ったけれど、小君を使いにして、小袿のお礼だけは申し上げさせた。

「 蝉の羽もたちかへてける夏衣かへすを見てもねは泣かれけり

(蝉の羽の衣替えの終わった後の夏衣は、返してもらっても自然と泣かれるばかりです)」

「思えば不思議に人並みはずれた意志の強さで、振り切って行ってしまったなあ」と思い続けていらっしゃる。今日はちょうど立冬の日であったが、いかにもそれと、さっと時雨れて、空の様子もまことに物寂しい。一日中物思いに過されて、

「 過ぎにしもけふ別るるも二道にゆくかた知らぬ秋の暮れかな

(亡くなった人も今日別れて行く人もそれぞれの道をどこかに去っていき、私もどこへ行くのか知れない秋の暮れだなあ)」

 やはり、このような秘密の恋は辛いものだと、お分かりになったであろう。

 

このようなごたごたしたことは、努めてお隠しになっていらしたのもお気の毒なので、みんな省いておいたのに、「どうして、帝の御子であるからといって、それを知っている人までが、欠点がなく何かと褒めてばかりいるのか」と、作り話のように受け取る方がいらっしゃったのでお話ししたのだ。あまりにも慎みのないおしゃべりの罪は、免れがたいことだけれど。

 

《夕顔は亡くなり、空蝉は名残の小袿とともに僻遠の地に去っていきました。ついでにいえば軒端の荻も人の妻となりました。

立冬の日、源氏は一人になって、時雨れる空を眺めながら、人それぞれに「どこへ行くのか知れない」人生の旅の行く末を思って、物思いに耽ります。「それぞれ」には、もちろん彼自身も入っているに違いありません。こうしてふと歌を口にしても、それに返す者とて身近にいないのでした。

最後の語り手の言葉は、帚木の巻の冒頭と照応して、空蝉の巻を挟むこの三巻が、作者の意図としてひとまとまりのものであることを示している、とされます。

そして、その冒頭にあった源氏の「非難されなさる取り沙汰」というのは、ちょっと聞くとまったくけしからぬことと思われそうだが、ここまでお話した「このようなごたごたしたこと」なので、こうして細かくお聞きいただけば、それが決して非難されるようなものではなく、すばらしいお付き合いで、また交野の少将には笑われそうなくらい(帚木・冒頭)生真面目なお付き合いだったということがお分かり頂けたでしょう、それにしても少しお話しすぎたかも知れません、と、語り手は、語っているわけです。

さて、こうして帚木の巻に始まった、源氏十七歳の、青春の彷徨の物語が、その幕を閉じます。

もちろんこの後も源氏の女性問題は絶えることがありませんが、ここまでの話が、彼にとってどれほど痛切なものであったにしても、あくまでも若き日のエピソードであるのに対して、これからのそれは大人のもので、それぞれが彼の人生を直接的に左右する「事件」となって行くのです。》


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