源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第五章 空蝉の物語(2)

紀伊守邸の女たちと和歌の贈答~その2

【現代語訳】2

 あのもう一方は、蔵人少将を婿にしたと、お聞きになる。「おかしなことだ。どう思っているだろう」と、少将の気持ちも同情し、また、あの女の様子も知りたくて、小君を使いにして、「死ぬほど思っている気持ちは、お分かりでしょうか」と言っておやりになる。

「 ほのかにも軒端の荻をむすばずは露のかことをなににかけまし

(一夜の逢瀬なりとも軒端の荻を結ぶ契りをしなかったら、逢えなくなった恨み言を何かにかこつけて言ったりしましょうか、あの時の逢瀬が忘れられません)」

 丈高い荻に結び付けて、「こっそりと」とおっしゃったが、「間違って、少将が見つけて、わたしだったと分かったら、まあ許してくれよう」と思う高慢なお気持ちは、困ったものである。

 少将のいない時に見せると、恨めしいと思うが、このように思い出してくださったのも、やはり嬉しくて、お返事を、早く詠めたことだけを取り柄として渡す。

「 ほのめかす風につけても下荻のなかばは霜にむすぼほれつる

(ほのめかされるお手紙を見るにつけても下荻のような、身分の賤しいわたしは、嬉しいながらも半ばは思い萎れています)」

 筆跡は、下手なのを分からないようにしゃれて書いている様子は、品がない。灯火で見た顔を、自然と思い出されなさる。

「気を許さず対座していたあの人は、今でも思い捨てることのできない様子をしていたな。何の嗜みもありそうでなく、はしゃいで得意でいたことよ」とお思い出しになると、憎めなくなる。相変わらず、「こりずまにまたもなき名は立ちぬべし(性懲りも無く、また浮き名が立ってしまいそうだ)」の歌のごとき好色心のようである。

  

《空蝉の便りから軒端の荻(ここの歌からこの名があるのですが)を思い出します。

「『まあ許してくれよう』と思う高慢なお気持ち」は、全く困ったものですが、読者としてはこのくらい言われると笑うしかないでしょう。実際、相手の少将にしてみれば、もうすんだことでもあるし(多分そうでなくても)、泣き寝入りするしかないでしょう。

それに、この物語がこれほど世に受け入れられた時代の男性が、現在競合しているわけでもない男女関係に、源氏が心配するほど拘泥するとは思われません。

ここはむしろ、源氏が自分のしたことをみずから大したことのように思っているという、全く若者のうぬぼれ、独りよがりを笑えばいいのではないでしょうか。

軒端の荻は、空蝉と碁を打っていた時の、まだ世を知らないで「何の嗜みもありそうでなく、はしゃいで得意でいた(原文・何の心ばせありげもなく、さうどき誇りたりし)」姿として思い出されて、源氏は純真で才気のかった処女性への懐かしさを感じます。

ことさらめいた筆跡も、そういう人にありがちなもので、総じて、空蝉とは対照的な、未熟な女性の魅力といったものをうまく描き出しています。

それにしても、夕顔の事件を経ながら、早くもこのようにちょっかいを出そうという心のあり方には、現代から見るといささか違和感があります。これからもそうですが、彼は経験によって何かを身につけていくということがない人のようです。

彼の栄達も、また人間性の深まりも、彼が何か努力して手にするのではなく、全て彼の周囲に起こってくることに対する、その時々の彼の自然な反応の結果として、手にすることになるものなのです。彼は、努力、研鑽、経験、錬磨などということには縁遠い人で、そういう意味では野性的、あるいは植物的だと言ってもいいでしょう。》

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紀伊守邸の女たちと和歌の贈答~その1

【現代語訳】1
 あの伊予介の家の小君は参上する折はあるが、特別に以前のような伝言も下さらないので、嫌な女だとお見限りになられたのをつらいと思っていた折柄、このようにご病気でいらっしゃるのを聞いて、空蝉はやはり悲しい気がするのであった。遠くの国へ下ることになって、さすがに心細い気がするので、お忘れになってしまったかと、試しに、

「承りまして、案じておりますが、口に出してはとても、

  問はぬをもなどかと問はでほどふるにいかばかりかは思ひ乱るる

(お見舞いできませんことをなぜかとお尋ね下さらずに月日が経ましたが、わたしもどんなにか思い悩んでいます)

『益田(生きている甲斐がない)』とは本当のことで」と申し上げた。

久しぶりにうれしいので、この女へも愛情はお忘れにならない。

「生きている甲斐がないとは、誰が言いたい言葉でしょうか。

  空蝉の世はうきものと知りにしをまた言の葉にかかる命よ

(あなたとのはかない仲は嫌なものと知ってしまったのに、またもあなたの言の葉に期待を掛けて生きていこうと思います)

頼りないことよ」

と、お手も震えるので乱れ書きなさっているのは、いっそう美しい感じである。いまだにあの脱ぎ衣をお忘れにならないのを、気の毒にもまた心ときめいても思うのであった。

 このように状のあるやりとりはするけれども、お側にとは思いもせず、とは言え、つまらぬ女だと思い切られてしまいたくはない、と思うのであった。



《ふたたび空蝉です。源氏にすれば手痛い仕打ちを受けて、あれ以来彼女とは関わっておらず、ずっと夕顔に執心で、ほぼ忘れていたようです。

一方空蝉は、空蝉の巻の最後の歌(彼女自身の歌ではないようですが)にあったように、「忍び忍びに濡るる袖かな」といった思いだったのでしょう、夫に従って伊予に下る日が近づく頃、源氏の不調を知って、それを頼りに見舞いの手紙を送ります。

『評釈』はそういう空蝉を「とつおいつして決定しえない性格である」と言いますが、そうではないでしょう。

彼女は、すでに伊予介の妻として生きることを決意して、もはや決して源氏に靡くことはありませんが、しかし源氏の愛を受けたことを自分の誉れと思って強く慕い、源氏からつまらぬ者と思われたくないという一点を守ろうと思っています。明確で堅固な一線を画して、そこを隔てて源氏と可能な限りのお付き合いをしたいと考えている、という点で、ある意味では合理主義者と言ってもいい、独特の個性を持った女性であるように思います。

『空蝉の夢』(原田敦子著・『人物論』所収)は、「源氏の前から身を引こうとする空蝉の自己抑制の姿勢は」、もし伊予の介に嫁ぐ前に源氏に会っていたら、あるいは別の人生があったかも知れないという、彼女の「ありうべかりし夢」を「現実によって裏切ることなく守り続け、永遠に源氏を思慕するための所為」だったのだと、言います。

こういう女性は、男の側として自分の意のままに靡くというようなことを期待したりさえしなければ、この頃の源氏のような心には、案外その憂さを紛らしてくれる、気軽で親密な異性の友人たり得たのかも知れません。》

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