【現代語訳】3
お入りになると、灯を遺骸から背けて、右近は屏風を隔てて臥していた。どんなに侘しく思っているだろう、と御覧になる。気味悪さも感じられず、とてもかわいらしい様子をして、まだ少しも変わった所がない。手を握って、
「わたしに、もう一度、声だけでもお聞かせ下さい。どのような前世からの因縁があったのだろうか、少しの間に、心の限りを尽くして愛しいと思ったのに、残して逝って、途方に暮れさせなさるのは、あまりのこと」と、声も惜しまず、いつまでもお泣きになる。
大徳たちも、誰とは知らないで訝りながら、皆、涙を落としたのだった。
右近に、「さあ、二条院へ」とおっしゃるが、
「長年、幼うございました時から、片時もお離れ申さず、馴れ親しみ申し上げてきた方に、急にお別れ申して、どこに帰ったらよいのでございましょう。どのようにおなりになったと、皆に申せましょう。悲しいことはさておいて、皆にとやかく言われますのが、辛くて」と言って、泣き崩れて、
「煙と一緒になって、後をお慕い申し上げたく思います」と言う。
「もっともだが、世の中はそのようなものだ。別れというもので、悲しくないものはない。先立つのも残されるのも、同じく寿命で定まったものなのだ。気を取り直して、私を頼れ」と、お慰めになりながらも、
「このように言う我が身こそが、生きながらえられそうにない気がする」とおっしゃるのも、頼りない話である。
惟光が、「夜が明けてしまいましょう。早くお帰りあそばしますように」と申し上げるので、幾度もお振り返りなさって、胸をひしと締め付けられた思いでお出になる。
《源氏は部屋に入って、昨日と代わらないままの夕顔と最後の対面をします。その悲しみの痛切さは、彼を誰とも知らない僧達にも解って、僧でありながらもらい泣きをします。
源氏は右近に二条院に入ることを勧めます(それはつまり彼女へも身分を明かしたということでもあります)が、彼女はむしろこのまま主人の煙と一緒になって後を追いたいと嘆きます。
ここで『評釈』は、この右近の言葉遣いから、彼女は夕顔の乳母子だったことが解ると言います。確かに「馴れ親しみ申し上げてきた(原文・馴れきこえつる)」というのは、例えば「お仕えしてきた」というのとは違うことを言っているように思われますし、そう考えれば右近の悲しみはいっそう深いものとなります。そしてそのことは後の第七段【現代語訳】3節で右近の口から語られます。
源氏はなお彼女に、自分を頼れと言うのですが、その右近を説く言葉は、昨夜の物の怪に襲われた時の狼狽ぶりからは想像もつかない、訳知りの様子です。しかしまた、その言葉の下から、「自分も生きられそうにない」と本音の悲しみも正直に語ります。