源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第三章 六条の貴婦人の物語

霧深き朝帰り ~その2


【現代語訳】2

 霧のたいそう深い朝、ひどくせかされなさって、眠そうな様子で、溜息をつきながらお出になるのを、侍女の中将の君が、御格子を一間上げて、お見送りなさいませという心遣いらしく御几帳を引き開けたので、お顔を上げて外の方へ目をお向けになる。

 前栽の花が色とりどりに咲き乱れているのを、通り過ぎにくそうにためらっていらっしゃる姿は、本当に二人といない。渡廊の方へいらっしゃるので、中将の君がお供申し上げる。紫苑色で季節に適った薄絹の裳、それをくっきりと結んだ腰つきは、しなやかで優美である。

 振り返りなさって、隅の間の高欄に、少しの間、お座らせになった。たしなみのある改まった態度、黒髪のかかり具合など、見事なものだ、と御覧になる。

「 咲く花にうつるてふ名はつつめども折らで過ぎうきけさの朝顔

(咲いている花に心を移したという風評は憚られますが、やはり手折らずには素通りしがたい今朝の朝顔の花です)

そなたをどうしよう」と言って、手を捉えなさると、まことに馴れたふうに素早く、

「 朝霧のはれまも待たぬけしきにて花に心をとめぬとぞ見る

(朝霧が晴れて朝顔の花が見えるようになる間も待たないでお帰りになるご様子なので、花に心をお止めでないとお見受けします)」

と、主人のことにしてお返事申し上げる。

 かわいらしく、洒落た身なりでこの場にあつらえた童が、指貫の裾を露っぽく濡らし、花の中に入り混じって、朝顔を手折って差し上げるところなど、絵に描きたいほどである。

 特別の関係がなくちょっと拝見する人でさえ、心を止め申さない者はない。物の情趣を解さない下賤の者でも、花の下ではやはり休息したいと思うのだろうか、このお美しさを拝する人々は、それぞれ身分に応じて、自分のかわいいと思う娘をご奉公に差し上げたいと願い、あるいは、恥ずかしくないと思う姉妹などを持っている人は、下仕えであっても、やはり、このお方の側にお仕えさせたいと、思わない者はいなかった。

 まして、この中将の君のように何かの折のお言葉を聞き、優しいお姿を拝する人で、少し物の情趣を解せるような人は、どうしていい加減にお思い申し上げよう。いつも、おくつろぎでなく、お忍びでいらっしゃるのを、物足りないことと思うようである。

 


《この物語の中でもっともはげしい個性を見せると言ってよい、六条御息所と呼ばれる人の登場です。

前の節で「ものごとをあまりにも深くお思い詰めなさるご性格(原文・いとものをあまりなるまでおぼししめたる御心ざま)」と書かれていましたが、一方でその趣味教養はすばらしく、ここに描かれるその暮らしぶりは、あたかも大きな芝居の舞台のように、粋を懲らしたものです。

後朝の別れを惜しんで思いを込めて見送る貴婦人、庭に咲き乱れる花々、帰る源氏を送って後を行く趣味のよい衣裳の侍女、その端正な物腰、そしてそれらを包む深い朝霧。その中で源氏が中将の君に型どおりに戯れの恋の歌を詠み掛け、侍女はそれをさらりといなして、主人に代わって飽き足りない思いを伝える歌を返します。

庭には、咲き乱れる秋の草花、その中で花を摘むかわいらしい一人の小姓が、朝顔の人枝を源氏に差し出します。

こうした侍女や童の振る舞いや屋敷のたたずまいの全てが、そのまま女主人の一分の隙もない人柄そのものを物語ります。

『評釈』は、歌に詠まれた朝顔は、先の夕顔との対照であり、ここと夕顔の屋敷との違いを、つまり高貴と下々の違いを示すものなのだと、言葉を尽くして語っています。》


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霧深き朝帰り~その1


【現代語訳】1

 秋にもなった。誰のせいでもなく、自ら求めて物思いに心を尽くされることどもがあって、大殿邸には途絶えがちなので、大殿方はたいそう恨めしく思い申し上げていらっしゃった。

 六条辺りの御方に対しても、難しいご様子だったのを靡かせ申し上げてから後は、うって変わって、通り一遍なお扱いのようであるのはお気の毒である。それにしても、他人でいたころのご執心のように、無理無体なことがないのも、はた目にはどうしたことかと見える。

 この方は、ものごとをあまりにも深くお思い詰めなさるご性格なので、年齢も釣り合わず、人が漏れ聞いたらますます辛いと、このような君のお越しにならない夜な夜なの寝覚めを、悩みお悲しみになることがあれこれと多いのである。


《「秋にもなった」と転調します。そうでなくても思うことの多い源氏ですが、秋ともなればなおさらで、まさに「心づくしの秋はきにけり」といった趣です。

「自ら求めて物思いに心を尽くされることども」があって大殿邸に行かないとありますから、この「ことども」は、夕顔や空蝉のことでは少し軽すぎるように思われます。

ここは、私たちにはまだ馴染みが薄いのですが、『評釈』の言うように、帚木の巻で源氏にとって最も心に掛かっているらしく語られた、藤壺女御とのことを言っているのだと考えるしか無さそうです。

人恋しい季節、思いは母の面影を宿す藤壺ということなのでしょうか。「六条辺りの御方」も次の節に見るようになかなかすばらしい方なのですが、幼くして亡くした「母」と比べられては、つらいものがあります。

季節の移ろいは、また心の移ろいでもあり、彼女にとってもまた、「心づくしの秋」であるわけです。》

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