源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第二章 空蝉の物語(1)

空蝉の夫、伊予国から上京~その2

【現代語訳】2

 伊予介はまっさきに源氏の所に急いで参上した。船路のせいで、少し黒く日焼けしている旅姿は、とてもぶこつで感じが悪い。けれども、生まれも相当な血筋で、容貌などは年をとっているが小綺麗で、普通の人とは違って、ゆかしい風格があって、といった様子だった。

 任国の話などをお話しするので、「伊予の湯の湯桁はいくつあるか」と、尋ねたくお思いになるが、ばつが悪く正視できなくて、お心の中に思い出されることもさまざまである。

「実直な年配者を、このように思うのも、いかにも格好が悪く後ろ暗いことであるよ。いかにも、これが、尋常ならぬ不埒なことだった」と、左馬頭の忠告をお思い出しになって、気の毒なので、「冷淡な気持ちは憎いが、夫のためには、立派だ」とお考え直しになる。

娘を適当な人に縁づけて、北の方を連れて下るつもりだと、お聞きになると、あれやこれやと気持ちが落ち着かなくて、もう一度逢えないだろうかと、小君に相談なさるが、相手が同意したような場合でさえ、軽々とお忍びになるのは難しいのに、まして、この場合は自分には相応しくない関係と思って、今さら見苦しかろうと、思い絶っている。

 そうは言っても、空蝉は、すっかりお忘れになられることも、大変に残念で、つらいことにちがいないと思って、しかるべき折々のお返事など、親しく度々差し上げては、何気ない書きぶりに詠み込まれた返歌には、不思議とかわいらしげに、お目に止まるようなことを書き加えなどして、恋しく思わずにはいられない様子なので、源氏は、冷淡で癪な女と思うものの、忘れがたい人とお思いになっている。

 もう一人の方は、たとえ夫が決まったとしても、変わらず心を許しそうに見えたのを当てにして、いろいろとお聞きになるが、お心も動かないのであった。

 

《「まっさきに源氏の所に急いで参上した」のは、彼が源氏と縁故があるからなのでしょう。源氏によって今の職を得たのだでしょう。

その伊予介の突然の訪問を受けて、源氏はうろたえ、動揺しています。

伊予介の国の話を受けて、真っ先に「伊予の湯の湯桁はいくつあるか」と尋ねようとしたというのも滑稽です。もちろん介の娘が碁の計算をしているのをのぞき見した時のことを思い出しているのですが、ひと歳取った人ならなるべく二人の女性を忘れて話をしようとする所でしょう。それをあえてそのことを取り上げようとして、ひとり恥じ入っているというのは、いかにも子供っぽく滑稽で、独り相撲をとっています。

同時に、左馬頭の、人妻との恋はその夫の値打ちを落とすという忠告(帚木の巻第二章第二段【現代語訳】3節)を思い出しながら、こんな実直な男の妻と娘に手をつけたことを「不埒なこと(原文・なのめならぬかた)」と反省します。

この節は、源氏の思いが終始、まことに行きつ戻りつしています。

伊予介の印象からして、「ぶこつで感じが悪い」と感じながら、「ゆかしい風格」もあると思います。

任国の話など聞きながら、胸中、二人の女性を思い浮かべて、「ばつが悪く正視できなく」、また一方で介を「気の毒」に思い、空蝉を「立派だ」と思ったりします。

そして、伊予介が空蝉を伊予に連れて行く予定だと聞くと、あわてて小君にもう一度機会を作れないかと話す一方で、無理だろうと思いながら、またさらに「忘れがたい人とお思いになっている」といった案配で、いかにも人の好い年配者の前で若者が落ち着かなくしている様子が目に浮かびます。》

空蝉の夫、伊予国から上京~その1

【現代語訳】1

 ところで、あの蝉が残す抜け殻のように小袿だけを残して去った女のあきれるほど冷淡だったのを、世間一般の女性とは違っているとお思いになると、もし素直であったならば、気の毒な過ちをしたと思ってやめられようが、まことに悔しく、振られたままて終わってしまいそうなのが、気にならない時がない。それまではこのような並の女性までは、お心に掛からなかったのだが、先日の「雨夜の品定め」の後は、様々な階層があることを知って興味をお持ちになり、ますます残る隈なくご関心をお持ちになったようである。

 一途にお待ち申しているもう一人の女を、いじらしいとお思いにならないわけではないが、空蝉が何くわぬ顔で、継娘をくどく自分の言葉を聞いていたであろうことが恥ずかしいので、「まずは、この女の気持ちを見定めてから」とお思いになっているうちに、伊予介が上京してきた。


《惟光によって、目前の下層の者らしい夕顔の家の女性についての探索がなされる間、話は一度、源氏と読者の双方にとって懸案となっていた中層の空蝉のことに返ります。

それにしても、「素直であったならば、気の毒な過ちをしたと思ってやめられよう」とはずいぶん勝手な言いぐさですが、機微を突いていることは間違いありません。

その中で源氏は「空蝉が何くわぬ顔で、継娘をくどく自分の言葉(あなた逢いたさに度々方違えにかこつけて来ていたのだ、などと言ったこと)を聞いていたであろうことが恥ずかしい」と思うのですが、このように自分が心にもないことを言ったことに対して恥じ入るということは、彼にとってずいぶん稀なことのように思います。

この後も、これと同様に私たちから見ると厚顔無恥と思われるくどきとか言い訳を源氏は幾度もするのですが、それは作者からすれば相手の女のための言葉なのです。当の女の方はその言葉を信じて、あるいはその言葉に酔って、源氏に靡く自分を許すわけで、言わば女性にとっての免罪符であるわけです。

それを自分で恥じ入ったというのは、この場合彼の思いが母親の方にあったからなのでしょう。言うとおり確かに素直だった娘の方は後回しにされてしまいます。

ともあれ源氏の思いは、しばらく夕顔と空蝉とその娘の三人の上をたゆたいます。

そこに突然「(その内の二人の女の夫にして父である)伊予介が上京してきた」という事件が起こります。

私たちの身の回りでも本当にこのように、「とつおいつ」している時に限ってそれをかき回すように、新たに問題が生じてくることがよくあるものだと、思い起こさせます。

『評釈』が、「とつおいつする君の心を、そのまま写し来たった末に、一気呵成、『伊予の介のぼりぬ』と叙し去る。対照の法による文の勢いを味わっていただきたい」と言っています。》



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