源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第一章 夕顔の物語(1)

第二段 数日後、夕顔の宿の報告

【現代語訳】
 惟光が、数日して参上した。

「病人が、依然としてはっきりいたしませんので、いろいろと看病いたしておりまして」などと、ご挨拶申し上げて、お側によって申し上げる。

「仰せ言のございました後に、隣のことを知っております者を、呼んで尋ねさせましたが、はっきりとは申しません。『ごく内密に、五月のころから来ておいでの方があるようですが、どういう人かは、全くその家の内の人にさえ知らせません』と申します。
 時々、中垣から覗き見いたしますと、なるほど、若い女たちの透き影が見えます。褶のような物を、申しわけ程度にひっかけているので、仕える主人がいるようでございます。
 昨日、夕日がいっぱいに射し込んでいました時に、手紙を書こうとして座っていました女人の顔が、とてもようございました。憂えに沈んでいるような感じがして、側にいる女房たちも涙を隠して泣いている様子などが、はっきりと見えました」と申し上げる。源氏の君はにっこりなさって、「知りたいものだ」とお思いになった。

 惟光は、ご声望こそ重々しいはずのご身分であるが、お年も若いし、女性たちがお慕いしお褒め申し上げている様子などを考えると、あまりお堅いのも、風情がなくきっと物足りない気がするだろう、人が問題にしない身分の者でさえ、やはりしかるべき女性には、興味をそそられるものなのだから、と思っている。

「もしや、何か分かることもありましょうかと、ちょっとした機会を作って、恋文などを出してみました。書きなれている筆跡で、素早く返事など寄こしました。悪くはない若い女房たちがいるようでございます」と申し上げると、

「さらに近づけ。突き止めないでは、きっと物足りない気がしよう」とおっしゃる。

 あの、下層の最下層だと、人が見下した住まいであるが、その中にも、意外に結構なのを見つけたらばと、心惹かれてお思いになるのであった。

 

《惟光は、主人の気の多さにあきれながら、それでも忠実に源氏の求めに応じて情報収集をします。そして、人が問題にしない身分の者でさえ、やはりしかるべき女性には、興味をそそられるものなのだから、源氏ほどの人がちょっと好い女性であれば、心を動かさないのもよくない、と考えます。

ここの「さえ」は、普通には反対なのではないかという気がします。つまり、「源氏ほどの身分の人でさえ恋に心を奪われる、まして身分卑しい者は、…」。しかし、逆に「身分卑しい者でさえ、…、まして源氏ほどの高貴の人は…」と書かれています。

ここには、男女の愛情をよいものと考える考え方があります。恋愛はしばしば不道徳なものと見られますが、それは一夫一婦制においてであって、一夫多妻制においては、少なくとも男性の恋愛は自由であるわけです。まして「女性たちがお慕いしお褒め申し上げている様子などを考えると」、その女性たちにあまねく幸福を与えるのは男性の勤めとも言えます。かくして「色好み」は男子必須のマナーであることになります。そのマナーは、当時「人が問題にしない身分の者」でさえも持っていたものなので、まして源氏ほどの人はぜひとも持たなければならない、ということになります。

この夕顔の女への関心は、頭中将が「下層の女という身分になると、格別関心もありませんね」と言った(帚木の巻第一章第二段【現代語訳】3節)ことを思い出させます。これは空蝉のような受領階級よりも更に下の、名前だけの官職(揚名介・前々節)に就く者の縁者に過ぎないようです。

そうなると、中将たちさえも知らない、全く未知の世界で、優れた女性を見つけたのかも知れないのです。『集成』が「人気もないような陋屋に美女を見いだすという設定は、当時の物語に好んで取り上げられている」と言っています。》

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第一段 源氏、五条の大弐乳母を見舞う~その5

【現代語訳】5

 まだ見たことのないお姿であったが大変にはっきりとあの方と察しの付けられる御横顔を見逃さないで、さっそく詠みかけたのに、返歌を下さらないで時間が過ぎたので、少しきまりの悪い思いでいたところに、このようにわざわざというふうに返歌があったので、いい気になって、「何と申し上げよう」などと言い合っているようだが、身の程知らずなことだと思って、随身は帰ってしまった。

 御前駆の松明を弱く照らして、とてもひっそりとお出になる。夕顔の家の半蔀は既に下ろされていた。隙間から見える灯火の明りは、蛍よりもさらに微かで物淋しい。

 お目当ての所では、木立や前栽などが、世間一般の所とは違い、とてもゆったりと奥ゆかしく住んでいらっしゃる。気の置けるほど気品のあるご様子などが、他の人とは格別なので、先程の垣根の女などはお思い出されるはずもない。

 翌朝、少しお寝過ごしなさって、日が差し出るころにお帰りになる。朝帰りの姿は、なるほど世間の人がお褒め申し上げるようなのも、ごもっともなお美しさであった。

 今日もこの半蔀の前をお通り過ぎになる。今までにも通り過ぎなさった辺りであるが、わずかちょっとしたことでお気持ちを惹かれて、「どのような女が住んでいる家なのだろうか」と思っては、行き来につけてお目が止まるのであった

 

《「灯火の明りは、蛍よりもさらに微かで物淋しい」は、「夕されば蛍よりけに燃ゆれども光見ねばや人のつれなき」(『古今集』巻十二恋二)によるものです。

蛍の火よりも強く燃えていても人はつれないというのに、この家の灯りは蛍よりもかすかなのだから、源氏は当然「つれなく」立ち去っていくのだ、という気分が、作者の洒落としてあって、それが次の「先程の垣根の女などはお思い出されるはずもない」につながるように思われます。

そういう女と対照的に「お目当ての所」、つまり「六条辺り」の方はまったく「他の人とは格別」なのです。

しかし、作者の思いはそうであっても、源氏はそうではありません。左馬頭の話(帚木の巻)が心に残っているからでしょうか、朝帰りの途中に夕顔の家の前をふたたび通りかかって、昨夜の歌の贈答を思い出して、ふとその夕顔の家のことが気になります。そしてひとたび心に掛かったことは、回を重ねる毎に、その関心を強めていきます。》

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第一段 源氏、五条の大弐乳母を見舞う~その4

【現代語訳】4

 修法などを再び重ねて始めるべき事などをお命じあそばして、お立ちになろうとして、惟光に紙燭を持って来させて先程の扇を御覧になると、使い慣らした主人の移り香が、とても深く染み込んで慕わしくて、美しく書き流してある。

「 心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花

(当て推量に光君さまでしょうかと思います、白露の光を加えて美しい夕顔の花は)」

 無造作にさらりと書いてあるのも、上品に教養が見えるのでとても意外で、興味深くお感じになる。惟光に、

「この家の西にある家にはどんな者が住んでいるのか。尋ね聞いているか」とお尋ねになると、いつもの厄介なお癖とは思うが、そうは申し上げず、

「この五、六日この家におりますが、病人のことを心配して看護しております時で、隣のことは聞けないでおります」などと、無愛想に申し上げるので、

「気に入らないと思っているな。しかし、この扇について、尋ねてみるべき筋がありそうに思われるので、やはり、この界隈の事情を知っていそうな者を呼んで尋ねよ」とおっしゃるので、入って行って、この家の管理人の男を呼んで尋ねる。

「揚名介である人の家だそうでございました。男は地方に下向して、妻は若く風流を好み、その姉妹などが宮仕え人として行き来している、と申します。詳しいことは、下人にはよく分からないのでございましょうか」と申し上げる。

「それでは、その宮仕人のようだ。得意顔になれなれしく詠みかけてきたものよ」と、「きっと興覚めしそうな身分ではなかろうか」とお思いになるが、名指して詠みかけてきた気持ちが、憎からず見過ごしがたいのは、例によって、こういった方面には、重々しくないご性分なのであろう。御畳紙にすっかり筆跡を変えてお書きになって、

「 寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔

(もっと近寄って誰ともはっきり見たらどうでしょう、黄昏時にぼんやりと見えた花の夕顔を)」

 先程の御随身をお遣わしになる。

 

《惟光という従者が大きな存在感を持ってきます。隣の家の女性について調べよという源氏の求めに、「いつもの厄介なお癖」と思い、「無愛想に」返事して、源氏も「気に入らないと思っているな」と言ったりするなど、乳兄弟という間柄で、源氏に対してある程度遠慮のない態度を採ることの出来る、言わば気心の知れた腹心というところのようです。

さて、見舞いの帰りがけになって、先ほど夕顔の花に添えて渡された扇の歌が紹介されます。

そこでは、あなた様はあるいは光る源氏様ではないか、と察しが付けられているようです。先ほど惟光は「どなた様と見分け申し上げられる者もおりませぬ辺りですが」と言っていました(第一章第一段【現代語訳】3節)が、してみると、この家の主人はこのあたりに住む一般の人とは少し趣を異にして、そういう情報の入る、高貴とのつながりのある人らしいということになるでしょうか。

ところで、この歌について『評釈』が、「この歌の作り主は結局誰とも明記されていないが、夕顔の花咲く宿の女主人と見るべきだろう。ところが、この女あるじは、『源氏物語』の中でも無類のはにかみ屋であって、一目見た路上の人に、こんな歌を贈るべき人ではない。が、この歌がなくては、この巻の話は起こらないので、この一事は作者の無理、失策なのであろう」と言っているのは、なるほどと思わされます。

たしかにこの歌はいささかならずミーハー的で、一家の女主人たる人が通りすがりの男性に詠み掛けるのに相応しい歌とは思われません。が、今は措いて、少し後でもう一度触れることにします(この巻の第四章第一段【現代語訳】3節)。》


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第一段 源氏、五条の大弐乳母を見舞う~その3

【現代語訳】3

「鍵を置き忘れまして、大変にご迷惑をお掛けいたしました。どなた様と見分け申し上げられる者もおりませぬ辺りですが、ごみごみした大路にお立ちあそばして」とお詫び申し上げる。

 車を引き入れて、お下りになる。惟光の兄の阿闍梨や、娘婿の三河守、娘などが、寄り集まっているところに、このようにお越しあそばされたお礼を、この上ないことと恐縮して申し上げる。

 尼君も起き上がって、

「惜しくもない身の上ですが、出家しがたく存じておりましたのは、ただ、このようにお目にかかり、御覧に入れる姿が変わってしまうことになりますのを残念に存じて、ためらっておりましたのですが、出家して受戒を受けた効果があって生き返り、このようにお越しあそばされましたお姿を拝見しましたので、今は、阿弥陀様のご来迎も、心残りなく待つことができましょう」などと申し上げて、弱々しく泣く。

「いく日も、思わしくなくおられるのを、案じて心痛めていましたが、このように世を捨てた尼姿でいらっしゃると、まことに悲しく残念です。長生きをして、さらにわたしの位が高くなるのなども御覧下さい。そうしてから、九品浄土の最上位にも、差し障りなくお生まれ変わりなさい。この世に少しでも執着が残るのは、悪いことと聞いております」などと、涙ぐんでおっしゃる。

 不出来な子でさえも、乳母のようなかわいがるべき人は、あきれるくらいに完全無欠に思い込むものを、ましてこの方は、まことに光栄にも親しくお世話申し上げたわが身までも大切にもったいなく思われるようなので、わけもなく涙に濡れるのである。

 子供たちは、とてもみっともないと思って、「捨てたこの世に未練があるようで、ご自身から泣き顔をお目にかけていなさる」と言って、つつき合い目配せし合う。

 源氏の君は、とてもしみじみと感じられて、

「幼かったころに、かわいがってくれるはずの方々が亡くなってしまわれた後は、養育してくれる人々はたくさんいたようでしたが、親しく甘えられる人は、他にいなく思われました。成人して後は、きまりがあるので、朝に夕にというようにはお目にかかれず、思い通りにお訪ね申すことはできませんでしたが、やはり久しくお会いしていない時は、心細く思われますので、『さらぬ別れはなくもがな(避けられない別れなどはあってほしくないものだ)』と思われます」

と、懇ろにお話なさって、お拭いになった袖の匂いも、とても部屋一杯に薫り満ちているので、なるほど、ほんとうに考えてみれば、並々の人でないご運命であったと、尼君を非難がましく見ていた子供たちも、皆涙ぐんだ。

 

《尼君の見舞いお礼の言葉から始まります。『評釈』は「これだけのことを一文で言う。病人は、君が『惟光めさせ』た時から、感泣しつつも、お礼の言葉をねっていたのである」と言いますが、それは少し言いすぎでしょう。重病人が「ねっていた」のなら、まずはお礼の言葉から言い出すでしょうし、そうすればこんな長い一文にはならないでしょう。

これは、この作者の言葉だからこういう言い方になったと考えるのが一番現実的ですが、尼君の言葉として考えるなら、「ねっていた」のではなくて、逆に、感激と、尼姿を見せることへのためらいが渾然となって、彼女の意識の向かうところから語り始められた、ということのように思われます。

それに比べて源氏の二つの言葉は、それこそ十七歳の言葉とは思えないきちんとした、しかも若者らしい内容の、情愛の十分にこもった、立派な見舞いの言葉です。

言い終わって涙を拭うと、そのふわりとした動きとともに衣にたき込めた香の香りが部屋に拡がります。それはあたかも、源氏の乳母への情愛が漂い出すようです。

そのありがたい思いに自分達も包まれて、先ほどまでは泣いている母を非難顔だった子供たちも、感激の涙に暮れるのです。》

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第一段 源氏、五条の大弐乳母を見舞う~その2

【現代語訳】2

 切懸の板塀のようなところに、とても青々とした蔓草が気持ちよさそうに這いまつわっていて、白い花が、自分ひとり微笑んで咲いている。

「遠方人にもの申す(遠方の人にお尋ねする)」と独り言をおっしゃると、御随身がひざまずいて、

「あの白く咲いている花を、夕顔と申します。花の名は人並のようでいて、このような賤しい垣根に咲くのでございます」と申し上げる。

なるほどとても小さい家が多くて、むさ苦しそうな界隈で、この家もかの家も、見苦しくちょっと傾いて、頼りなさそうな軒の端などに這いまつわっているのを、

「気の毒な花の運命よ。一房手折ってまいれ」とおっしゃるので、この押し上げてある門から入って折る。
 さすがにしゃれた風情の遣戸口に、黄色い生絹の単重袴を、長く着こなした女童で、かわいらしげな子が出て来て、ちょっと招く。白い扇でたいそう香を薫きしめたのを、

「これに載せて差し上げなさいね。枝も風情なさそうな花ですもの」と言って渡してくれたので、門を開けて出て来た惟光朝臣に取り次がせて、差し上げさせる。

 

《「遠方人にもの申す」は『古今和歌集』の「うちわたす遠方人にもの申すわれ、そのそこに咲けるは何の花ぞも」(旋頭歌)の一部分を口にしたのですが、言うところは、あの白い花は何という花だろうか、という意味です。というよりも、話は逆で、「あの白い花はなんだろう」と思ったので、ついこの歌が口をついて出た、と言う方がいいでしょう。

これが独り言であるのは、源氏は「答える者があろうとは思いもかけなかったからだ」と『評釈』は言っています。源氏の気持としては、「『遠方人にもの申す』と言った案配だな」とひとりその風情を楽しんだ、といったところなのでしょう。

ところがさすがに源氏の随身だけあって、心得のある者がいて、夕顔という花であると説明します。きっと源氏は驚いたことでしょう。それに誘われて、一房折って来いと命じます。

他人の家であっても、貴族はこういうことを平気で行ったようで、『大鏡』第六・昔物語には、帝の命を受けて梅の木を探しに出た語り手(夏山重木)が、町のある家の庭の姿のいい梅の木を一本まるごと掘り起こして持って帰ったところ、あとで紀貫之の娘の家だったことが分かって、気まずい思いをした、という話があります。

ここは、それほど大袈裟な話ではありませんが、貰ってこい、ではなくて、「一房手折ってまいれ」であるのが、身分社会なのだなあと思わせます。》


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