源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

■巻三 空蝉

第三段 空蝉と軒端荻、碁を打つ ~その3

【現代語訳】3

 源氏は渡殿の戸口に寄り掛かっていらっしゃる。小君はとても恐れ多いと思って、

「珍しいお客がおりまして、近くにまいれません」

「このままで今夜も帰そうとするのか。まったくあきれて、ひどいではないか」とおっしゃると、

「いいえ決して。お客があちらに帰りましたら、きっと手立てを致しましょう」と申し上げる。

なんとかそのようにできそうな様子なのであろう。子供であるが、物事の事情や、人の気持ちを読み取れるくらい落ち着いているから、と、お思いになるのであった。

 碁を打ち終えたのであろうか、衣ずれの音がして、女房たちが別れて行くようである。

「若君はどこにいらっしゃるのでしょうか。この御格子は閉めましょう」と言って、物音を立てているのが聞こえる。

「静かになったようだ。入って、それでは、うまく工夫せよ」とおっしゃる。

 この子も、姉の気持ちは折れてくれそうになく堅物でいるので、話をつけるすべもなくて、人少なになった時にお入れ申し上げようと考えるのであった。

「紀伊守の妹も、ここにいるのか。わたしにのぞき見させよ」とおっしゃるが、

「どうしてそのようなことができましょうか。格子には几帳が添え立ててあります」と申し上げる。

 もっともだ、しかしそれでも、と興味深くお思いになるが、見てしまったとは言うまい、気の毒だ、とお思いになって、夜の更けて行くことの待ち遠しさをお話しになる。

 今度は、妻戸を叩いて入って行く。女房たちは皆静かに寝静まっていた。

「この障子の口に、私は寝ていよう。風よ吹き抜けてくれ」と言って、畳を広げて横になる。女房たちは、東廂に大勢寝ているのだろう。妻戸を開けた女童もそちらに入って寝てしまったので、しばらく空寝をして、灯火の明るい方に屏風を広げてうす暗くなったところに、静かにお入れ申し上げる。

 

《母と継娘の碁が終わってひとしきり女房たちの寝支度の動きがあり、小君と源氏は暗闇の簀子でその物音に耳をそばだてています。ときどき二人のひそひそ話があります。

その様子は、読むものからすれば、見よい姿ではなく、当人たちが大まじめであるだけ余計にかなり滑稽な気がしますが、この時代に普通のこととして、しばしばあったことなのでしょう。

考えてみれば、今日のように恋とか愛とかというものを限りなく美しくロマンチックなものとして捉えて、運命的な、あるいは劇的な出逢いから生まれる、美しいものだと考える方が、よほど非現実的なことなのでしょう。恋とか愛とかは、このように脇から見ればしばしばまことに無様な振る舞いであって、その無様さを通り抜けて初めて成就する可能性が生まれてくるもののようです。

さて、やがてざわめきが静まって、まず小君が奥に入って、寝たふりをしながら様子を窺い、頃をみはからって源氏を奧に導き入れます。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

第三段 空蝉と軒端荻、碁を打つ ~その2

【現代語訳】2

 なるほど親がこの上ないものとかわいがることだろうと、興味をもって御覧になる。心づかいに、もう少し落ち着いた感じを加えたいものだと、ふと思われる。才覚がないわけではないらしい。碁を打ち終えてだめを押すあたりは才気がありそうに見えて、てきぱきとはしゃぐと、奥の人はとても静かに落ち着いて、

「お待ちなさいよ。そこは持でしょう。このあたりの劫を先に数えましょう」などと言うが、

「いえいえ、今度は負けてしまいましたわ。隅の所はどうでしょう」と指を折って、「十、二十、三十、四十」などと数える様子は、伊予の湯桁もすらすらと数えられそうに見える。少し品がない。

 母の方は口をすっかり覆って、はっきりとも見せないが、目を凝らしていらっしゃると、自然と横顔が見える。目が少し腫れぼったい感じがして、鼻筋などもすっきり通ってなく老けた感じで、はなやかなところも見えない。言い立てて行くと悪いほうになる容貌だが、よく心配りをしていて、美しさで勝る傍らの人よりは嗜みがあろうと、目が引かれるような態度をしている。

 朗らかで愛嬌があって美しく見えるのだが、ますます開けっぴろげで気を許して、笑い声などを上げてはしゃいでいるので、はなやかさがあって、これはこれでそれなりにとても美しい人である。うすっぺらだとはお思いになるが、お堅くないお心にはこの女も捨てておけないのであった。

 ご存じの範囲の女性はくつろいでいる時がなく、取り繕って横顔を向けたよそゆきの態度ばかりを御覧になるだけだが、このように気を許した女の様子ののぞき見などは、まだなさったことがなかったので、気づかずにすっかり見られているのは気の毒だが、しばらく御覧になりたいとは思いながらも、小君が出て来そう気がするので、そっとお出になった。

 

《若い男性にとって、女性の私生活というのは言わば禁断の園で、その分大変に興味を引かれますが、実際に目にすることができるのは稀です。源氏は図らずもその幸運を得たわけです。

ここでは源氏の前で、対照的な二人の女性が描写されます。
 「なるほど(原文・うべこそ)」と書き始められていますが、これまで親たちのこの人に対する思は語られていません。時々出てくる書き方ですが、どうも落ち着かない気がします。
 ともあれ、この娘の方は「もう少し落ち着いた感じを加えたいものだ」と思われるほど明朗快活な人として描かれます。美人ですが、てきぱきと物事を事務的に処理する様子などは、「少し品がない」とも思われます。「伊予の湯桁」云々は、「伊予の道後温泉は湯槽の数の多いことで知られていた。…この娘の父は伊予の介として赴任中であるので、筆を弄したもの」(『集成』)ということですが、そういう言い方で、作者が彼女の品の無さを皮肉っているわけです。源氏が好意的に見ているのと違って、作者自身は必ずしも好意的ではないようです。

空蝉の方は、それに比べて、あまり美人ではないが、たしなみによって目を引く女性とされます。これまでは大変美しい人ということで話が進んできたはずですが、ここでは「言い立てて行くと悪いほうになる容貌」とあって、話が違います。若くてはなやかで「番茶も出花」の娘と並べた時は、年を取っていて、さすがにそういうことになるということなのでしょうか。

最後の「お出になった」が分かりにくいところです。この段の初めに、小君が源氏を「東の妻戸の側に、お立たせ申し上げ」た、とあって、そこから源氏は格子の中を覗いていた、ということは、彼は簀子(外縁)にいたことになると思われますが、そこから「お出になった」というのは、どこに出たのでしょうか。『評釈』、『集成』とも図を載せていますが、それぞれ異なっています。

また、次の節で「渡殿の戸口に寄り掛かっていらっしゃる」とありますから、やはり簀子にいたのでしょうが、庭を通る人があれば丸見えのはずで、大丈夫だったのだろうかと気になります。

このあたり総じて、それぞれの人のいる位置関係が、現代、分かりにくくなってしまっているようです。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

第三段 空蝉と軒端荻、碁を打つ~その1

【現代語訳】1

 灯が近くに点してある。母屋の中柱に寄り添って横向きになっている人が自分の思いを寄せている人かと、まっさきに目をお留めになると、濃い紫の綾の一重襲のようである。何であろうか、その上に着て、頭は小さく小柄な人で、見栄えのしない姿をしているのだ。顔などは、向かい合っている人などにも、特に見えないように気をつけている。手つきも痩せて細い感じで、ひどく袖の中に引き込めているようだ。

 もう一人は、東向きなので、すっかり見える。白い羅の単衣に、二藍の小袿のようなものを、しどけなく引っ掛けて、紅の袴の腰紐を結んでいる際まで胸を露わにして、嗜みのない恰好である。とても色白で美しく、まるまると太って、大柄の背の高い人で、頭の恰好や額の具合は、くっきりとしていて、目もと口もとが、とても愛嬌があり、はなやかな容貌である。髪はとてもふさふさとして、長くはないが、垂れ具合や、肩のところがすっきりとして、どこをとっても悪いところなく、美しい女だ、と見えた。

 

《のぞき見をしている源氏の視点からの叙述です。

空蝉の様子が語られますが、「頭は小さく小柄な人で、見栄えのしない姿をしている(原文・頭つきほそやかに、ものげなき姿ぞしたる)」というのは、どういうことなのでしょうか。

もともと彼女は親が宮仕えに出そうかと思ったくらいの人で、紀伊の守も「悪くはございませんでしょう」と言い、彼女自身もひそかに伊予守風情の妻になるはずではなかったと思っているのですから、それなりに美人であるはずなのですが、ここでの評価は高くありません。そして、後には不美人であったように書かれることになります。

ここは、あるいは作者の関心が、向き合っている女性の方との以下の出来事の方に向かっていて、彼女のイメージに何か変化が生じたのかも知れません。

今空蝉が向き合っているのは、「西のお方」と前節にありました。「西の対は主人の家族が住むのがふつうだから、紀伊守の妹と考えられる」と『評釈』が言います。空蝉から言えば先妻の娘ということになります。

継母の方はたしなみ深く「顔などは、向かい合っている人などにも、特に見えないように気をつけて」いますが、娘(後に源氏が送った歌によって「軒端の荻」と呼ばれます~夕顔の巻)の方はなかなかの美人のようですが「しどけな」い感じで、「腰紐を結んでいる際まで胸を露わにして」いるなど、至って無防備な様子です。

しかも「とても色白で美しく、まるまると太って、大柄の背の高い人で、頭の恰好や額の具合は、くっきりとしていて、目もと口もとが、とても愛嬌があり、はなやかな容貌」と若々しく大変派手造りで、どこまでも空蝉とは対照的で、それがこの娘に何か大変に現代的な印象を与えます。

母を早く亡くして父親に甘やかされて育った、わがまま娘と言ったところでしょうか。

前の空蝉の描き方は、その対照をねらったものなのでしょう。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

第二段 源氏、再度、紀伊守邸へ

【現代語訳】

 女も、大変に気がとがめているのだが、お手紙もまったくない。お懲りになったのだと思うにつけても、もしこのまま音沙汰なしでおやめになってしまったらやるせない。といって、強引に困ったお振る舞いが絶えないのも困ることになるだろう。適当なところで、こうしてきりをつけたい、と思うものの、平静ではなく、物思いがちである。

 源氏の君は、気にくわないとお思いになる一方で、このままではやめられないとお心にかかり、不面目なことだと思いあまられて、小君に、「とても辛く、情けなくも思われるので、無理に忘れようとするが、思いどおりにならず苦しいのだよ。適当な機会を見つけて、逢えるように手立てせよ」とおっしゃり続けなさるので、やっかいに思うが、このような事柄でも、お命じになって使ってくださることは、嬉しく思われるのであった。

 子供心に、どのような機会にと待ち続けていると、紀伊守が任国へ下ることがあるなどして、女たちがくつろいでいる夕闇頃の道がはっきりしないのに紛れて、自分の車で、お連れ申し上げる。

 この子も幼いので、どうだろうかとご心配になるが、そう悠長にも構えていらっしゃれなかったので、目立たない服装で、門などに鍵がかけられる前にと、急いでいらっしゃる。

 人目のない方から引き入れて、お降ろし申し上げる。子供なので、宿直人なども特別に気にも止めず愛想を言うこともなくて、安心である。

 東の妻戸の側に、お立たせ申し上げて、自分は南の隅の間から、格子を叩いて声を上げて入った。女房達は、「丸見えです」と言っているようだ。

「どうして、こう暑いのに、この格子を下ろしておられるの」と尋ねると、

「昼から、西の御方がお渡りあそばして、碁をお打ちあそばしていらっしゃいます」と言う。

 そうして向かい合っているのを見たい、と思って、静かに歩を進めて、簾の隙間にお入りになった。

 先程小君が入った格子はまだ閉めてなくて、隙間が見えるので、近寄って西の方を見通しなさると、こちら側の際に立ててある屏風は、端の方が畳まれていて、そのうえ、目隠しのはずの几帳なども、暑いからであろうか、帷子が上げて掛けてあって、とてもよく覗き見ることができる。

 

《空蝉の方も、さすがにこのままになってしまうのは未練もあって、右に左にと、さまざまな思いに囚われます。幾度考えても思いを断つしかないと思いながら、なおまた思いは帰っていきます。

源氏は三度目の訪問を考え、小君は名誉挽回の時を得て、張りきります。

好機が訪れて、源氏は「そう悠長にも構えていら」れないという気持ちで、小君の案内を不安に思いながら「急いで」出かけます。「悠長に…」は、彼の気持ちが急いでいたということでもあり、また紀伊守が帰ってくる前に、ということでもあるでしょう。

『評釈』が「警護の侍も連れずにいくとは、ずいぶん思い切った冒険だ。万一ろけんしたら、相当期間の謹慎を覚悟せねばならない」と言っていますが、それ以前に、源氏のような人が小君の車に同乗して出かけることにすでにちょっとした意外感があります。この日訪ねるのには必要な手立てですが、そういう粗末な車に乗るなど、彼にとっては生涯ただ一度の経験でしょう。空蝉に対する本気の思いと、必要に迫られてのこととは言え、子供っぽい好奇心もあったことでしょう。それがまた、女への思いをかき立てもします。

小君は、源氏の心配をよそに、なかなかの遣り手です。格子を叩いたのは、注意を自分に向けるためでしょう。また、彼はそこから格子を開けてもらって入ったのですが、その際、格子は開けたまま入ったのでしょう。女房から注意されますが、暑いからとそのままです。源氏に覗かせるためです。女房たちは、子供のしたことだし、まあ確かに暑いから、と思うのでしょう、格子は開いたまま、という源氏にとって、また読者にとって好都合な場面ができあがります。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

第一段 空蝉の物語

巻三 空 蝉 光る源氏十七歳夏の物語

第一段 空蝉の物語

第二段 源氏、再度、紀伊守邸へ

第三段 空蝉と軒端荻、碁を打つ

第四段 空蝉逃れ、源氏、軒端荻と契る

第五段 源氏、空蝉の脱ぎ捨てた衣を持って帰る

 

[第一段 空蝉の物語]

【現代語訳】

 お寝みになれないままには、「わたしは、このように人に憎まれたことはないのに、今晩、男女の仲を初めて辛いものだと知ったので、恥ずかしくて、生きて行けないような気持ちになってしまった」などとおっしゃると、小君は涙まで流して臥している。とてもかわいいとお思いになる。手触りから、ほっそりした小柄な体つきや、女の髪のたいして長くはなかった感じが似通っているのも、気のせいか愛しい。むやみにしつこく居場所を探し求めるのも、体裁悪いだろうし、本当に癪に障るとお思いに続けて夜を明かして、いつものようにあれこれとおっしゃることもなしに、夜の深いうちにお帰りになるので、この子は、たいそうお気の毒に思い、つまらないと思う。


《巻の名前は、巻末の歌に由来します。

話は「帚木」の巻の終わりから、そのまま続いています。源氏はしばらく小君を相手に愚痴るのですが、ここで『評釈』は、「ちやほやされつつけている源氏のことだから、今夜のいたではたまらない。頭の中将相手に冒険談を思わせぶりにやってのけられるつもりであったのに。小君は本気で聞いていて、同情して、涙までこぼす。困った子である。…源氏の言葉を、そのまま、いや、おひれをつけて、その姉君に語ることであろう。これも源氏は計算してあるのである」と書いています。

しかし、この理解は、少し偏っていないでしょうか。頭中将に自慢することも、小君がそのように空蝉に語ることを計算もしているでしょうが、今ここでそれを強調すると、まるで源氏はただの遊び人に過ぎなく思われます。

源氏という人を理解する上での一つの要点は、源氏の恋心は、その時その時には常に大まじめで、本気のものだということだと私は考えます(ただ、この後出てくる軒端の荻の場合だけは例外と言わなくてはならないでしょうが)。小君に対する「計算」も、不純なものと言えば言えなくはありませんが、恋心にはその成就のための計算や打算はつきものです。むしろそういう懸命な計算や打算こそがその恋心の深さ強さと純粋さを保証するとも言えます。

源氏がそういう人だからこそ、女性の作者にとって彼を理想的な男性像として書く意味があったのです。

源氏は、小君の体の手触りから空蝉を思い出して嘆いているのであり、ここの「いたで」は、源氏にとって見れば、決して火遊びに失敗した痛手ではなく、まさに失恋の痛手であろうと思われます。

源氏は、「いつものようにあれこれとおっしゃることもなしに(原文・例のやうにものたまひまつはさず)」、つまり次第に無口になって、小君に優しい言葉を掛けたり、頼み事をしたりすることもなく、まだ暗いうちに帰っていきます。後に残されて小君は、気の毒に思いながらも、見放されたようで、辛い思いになっています。

『評釈』は、小君の思いに対して「困った子である」と書き、ここの終わりについても「度しがたい子だ」と怒っていますが、彼が源氏にどれほど心を寄せているかを考えれば、よく分かる気持ちであると言えるでしょう。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

 

プロフィール

ikaru_uta

ブログ内記事検索
カテゴリー
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ