【現代語訳】2
小君が、あちらに行ったところ、姉君が待ち構えていて、厳しくお叱りになる。
「とんでもないことであったのに、何とか逃げるだけは逃げましたが、他人の思惑は避けようもないことなので、ほんとうに困ったこと。まことにこのように幼い浅はかさを、あの方もまた一方でどうお思いになっていらっしゃろうか」
と言って、お叱りになる。どちらからも叱られて辛く思うが、あの源氏の君の手すさび書きを取り出した。叱りはしたものの、手に取って御覧になる。あの脱ぎ捨てた小袿を、どうされただろう、「伊勢をの海人」のように汗臭くはなかったろうか、と思うのも気が気でなく、いろいろと思い乱れている。
西の君も、何とはなく恥ずかしい気持ちがしてお帰りになった。他に知っている人もいない事なので、一人物思いに耽っていた。小君が行き来するにつけても、胸ばかりが締めつけられるが、お手紙もない。あまりのことだと気づくすべもなくて、陽気な性格ながら、何となく悲しい思いをしているようである。
薄情にした人も、そのように冷静に構えてはいるが、通り一遍とも思えないご様子を、結婚する前のわが身であったらと思うと、昔に返れるものではないが、堪えることができないので、この懐紙の片端の方に、
「 うつせみの羽に置く露の木隠れて偲び忍びに濡るるそでかな
(空蝉の羽に置く露が木に隠れて見えないように、わたしもひそかに、涙で袖を濡らしております)」
《この巻での源氏の軒端の荻に対する振る舞いについて、たとえば『源氏物語草子』(舟橋聖一)が、「早く言えば、…彼の行動は、全然、同情の餘知がない。モラルもへちまもない。ことごとく、怪しからん背德の行為である。戀愛の美しさも、性の神聖も、感じられない。否、彼の行動は、許すことの出來ない頽廃として強く否定されなければならないだろう」と書いています。もっともこの筆者自身の見解は、そうではあるが、「人間の長い一生は、間違いだらけ」であり、これもその一つで、それを責めることは出来ない、といった口ぶりで、やや曖昧に流しています。
しかしこの物語の作者は、源氏の振る舞いを「背徳」だなどとは全く思っていないように見えます。もちろん空蝉に対する振る舞いについても同様です。そして驚いたことに、それは対象となった二人の女性自身も、同様だということです。
現代、もしこういうことが行われれば、そこに合意がなかった場合、女性の側は何は措いてもまず、許し難い侮辱を受けたと感じるのでしょうか。
しかし言うまでもなく、源氏は現代の道徳の中で行動しているのではなく、平安時代中期の行動規範の中で生きています。
つまり、この物語は『草子』のように曖昧に読むのではなく、今日私たちが常識としているキリスト教流純潔尊重思想や西欧個人主義を一旦忘れて、「呼ばひ(夜這い)」が標準的求婚であった日本古代からの伝統的感性を承認しながら読まなくてはならないもののように思われます。
二人の女性は、源氏からあのような振る舞いを被ったことに対して、憤りや嘆きの一切を感じてはいないのです。彼女たちは、むしろもう一度同じことが起こらないのではないかということを嘆いています。それほど源氏は魅力的であったのです。