源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第二章 女性体験談

第二段 左馬頭の体験談(木枯らしの女の物語)~その3

【現代語訳】3

 この二つの例を考え合わせますと、若い時の考えでさえも、やはりそのように派手で目立つところのある振る舞いは、とても不安で信頼できなく思われました。これからは、いっそう強くそのように思われることでしょう。
 あなた方も、お気持ちのままに、手折るとこぼれ落ちてしまいそうな萩の露や、拾ったと思うと消えてしまう玉笹の上の霰などのような、しゃれていてか弱く風流なのばかりが、興味深くお思いでしょうが、今はそうであっても、七年余りのうちにお分かりになるでしょう。私めごとき卑賤の者の忠告として、色っぽくなよなよとした女性にはお気をつけなさいませ。
 間違いを起こして、相手となる男の愚かな評判までも立ててしまうものです」

と、忠告する。頭中将は例によってうなずく。源氏の君は少し微笑んで、そういうものだろうとはお思いのようである。

「どちらの話にしても、体裁の悪くみっともない体験談だね」
と言って、皆でどっと笑い興じられる。

 

《「色っぽくなよなよとした女性」よりは実際的な女性を選ぶべきだというのが、左馬頭の結論になったようです。

「七年余りのうちにお分かりになる」と言っていますから、彼はそのくらい年長だということですが、彼は誰に向かって話していたのでしょうか。彼の話を引き出したのは頭中将ですから、中将に向かってなのではないかと思われますが、諸注はこれを、「源氏より七歳ほど年長のようである」(『集成』)としています。長い話は中将に向かって話してきて、この最後のアドバイスは、やはり一座の中心であり、最も若い源氏に向き直って語りかけたのだと読むのが、情景に動きが感じられていいように思います。

「そういうものだろうとはお思いのようである(原文・さることとはおぼすべかめり)」という言い方が注意を引きます。「は」が入っているので、気を付けなくてはならないようだとその時思うだけは思ったのだが、実際には、ということで、以下の物語を暗示して、おかしくもあり、期待もされます。

最後の源氏の言葉は、七歳年上の相手に言うのにはちょっと上から過ぎるような気もしますが、立場の違いなのでしょう。子供扱いされて言い返す言葉としてはうまい言葉で、その場の雰囲気がよく感じられます。》

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第二段 左馬頭の体験談(木枯らしの女の物語)~その2

【現代語訳】2

 男が懐にあった横笛を取り出して吹き鳴らし、『かげもよし(月影もよい)』などと笛の合い間合い間に謡うと、女は好い音のする和琴を、調子が調えてあったもので、みごとに合奏したところは、悪くはありませんでした。「律」の調子は、女性がもの柔らかく掻き鳴らして、御簾の内側から聞こえて来るのも、今風の楽の音なので、清く澄んでいる月にふさわしくなくもありません。その男はひどく感心して、御簾の側に歩み寄って、『庭の紅葉を、踏み分けた跡がないですね』などと嫌がらせを言います。菊を手折って、

『 琴の音も月もえならぬ宿ながらつれなき人をひきやとめける

(琴の音色も月も素晴らしいお宅ですが、薄情な方を引き止めることができなかったようですね)

悪いことを言いましたか』などと言って、『もう一曲、喜んで聞きたいというわたしがいる時に、弾き惜しみなさいますな』などと、ひどく色っぽく言いかけますと、女は、大層気どった声につくろって、

『 木枯に吹きあはすめる笛の音をひきとどむべき言の葉ぞなき

(木の葉を散らす木枯らしに合うようなあなたの笛の音を引きとどめる言の葉をわたしは持ち合わせていません)』

と色っぽく振る舞い合います。

憎らしくなってきたのも知らずに、今度は、筝の琴を盤渉調に調えて、今風に掻き鳴らす爪音は、ひとかどの趣が無いではないが、目を覆いたい気持ちが致しました。ただ時々に言葉を交わす宮仕えの女房方などで、あくまで洒落て色っぽいのは、それでもまだ付き合う興味もありましょう。しかし、時々であっても、通い妻として生涯の伴侶と致しますには、頼りなく風流すぎると嫌気がさして、その夜のことに口実をつくって、通うのをやめてしまいました。

 

《左馬頭が時々通っていた女のところにたまたま予告なく行って覗いてみると、男がいて(それは彼の車に同乗した殿上人か、またはあるいは全く別の男なのか、不明ですが、それはこの場合どちらでもよさそうです)、「この男はとてもそわそわして、中門近くの渡廊の簀子のような所に腰を掛けて、暫く月を見て」いました。つまり女に浮気の相手がいたわけです。

左馬頭が見ていると、男と女はさまざまに恋の手管を尽くして思いを交わします。

男は、「琴の音も月もすばらしいお宅ですが、…おひとりのようですね」(『集成』)とからかいます。「悪いことを言いましたか(原文・わろかめり)」は「不体裁なことのようですな」(『集成』)、「ご迷惑かも知れませんが」(『谷崎』)など、いろいろに解釈されています。

恋人同士が親しみあっているのを脇から見ているくらいばかばかしいことはありませんが、それはその手管の中に、当人同士では気付きにくい二人の意図や本性が見えてしまうからです。

ましてそれがよく知っている人であればなおさらです。この女性は左馬頭の時にも同じことをし、同じことを言うでしょう。となれば、それはもう遊びに過ぎず、とても「生涯の伴侶」と考えることなどできません。

自分に対して意志して不倫を働く相手に、それまでと同じ気持ちを保つことは、恐らく誰にもできないでしょう。それは嫉妬とか怒り以前の問題です。

美人で情趣を解する女性は、ともすればそういう方向に靡きがちで、伴侶と考えるにはもう一つ別の資質が必要なのです。もちろんそれは、女性だけの問題だけではないのですが。》


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第二段 左馬頭の体験談(「木枯らしの女」の物語)~その1

【現代語訳】1

 「ところで、また同じころに、通っていました女は、人品も優れ気の働かせ方もまことに嗜みがあると思われるように、素早く歌を詠み、すらすらと書き、掻いつま弾く琴の音色、その腕前や詠みぶりが、みな確かであると、いつも思っておりました。

顔立ちも無難でございましたので、先程の嫉妬深い女を気の置けない通い所にする一方で、時々隠れて逢っていました間は、格段に気に入っておりました。

今の女が亡くなって後は、どうしようもない、かわいそうだとは思いながらも死んでしまったものは仕方がないので、頻繁に通うようになってみますと、少し派手で婀娜っぽく風流めかしていることは、気に入らないところがあったので、頼りにできる女とは思わずに、ほんの途絶えがちに通っておりましたら、こっそり心を通じている男がいたらしいのです。

 十月のころ、月の美しかった夜に、内裏から退出いたします時に、ある殿上人が来合わせて、わたしの車に同乗していましたので、大納言殿の家へ行って泊まろうとすると、この人が言うことには、『今宵は、わたしを待っているだろう女が、妙に気にかかる』と言って、その女の家がちょうど大納言の家に行く道の筋に当たっていたので、荒れた築地塀の崩れから池の水に月の光が映っていて、月でさえ泊まるこの宿をこのまま通り過ぎてしまうのも惜しいというので、私も一緒に降りたのでございました。

 以前から心を交わしていたのでしょうか、この男はとてもそわそわして、中門近くの渡廊の簀子のような所に腰を掛けて、暫く月を見ています。菊は一面にとても色美しく色変りしており、風に勢いづいた紅葉が散り乱れているのなど、美しいものだなあと、本当に思われました。

 

《今度は、前の「家とうじ」的女性と違って、逆に美人で情趣を解する女性の話です。

ただこの部分は、話の主題とは関係ないところで、ちょっと流れが分かりにくい話です。

従来はこの訳のように、勤め帰りに女のところに行くつもりだった左馬頭の車に、ある殿上人が同乗することになって、彼は大納言の家に泊まることにしますが、その殿上人が『今宵は、わたしを待っているだろう女が、妙に気にかかる』と言い、その家が大納言の家への道筋だったので、そこに送ったら、そこはたまたま、先の左馬頭の女の家で、その殿上人が降りていった後から左馬頭も降りて、以下の様子を見たのだ、というふうに読まれているようです。『徒然草』第三十二段の話に似た状況です。

しかし、この場合、この左馬頭が「月でさえ泊まるこの宿を…」と「私も一緒に降りた」というのは、かなり不自然な行動のように思われます。

偵察のために後からこっそり降りたのだとする解釈もあるようですが、それなら、そういう意図を示す言葉がありそうなものだと思います。原文は「おりはべりぬかし」とあるだけで、誰がということも書かれていません。

それからまた、「この男はとてもそわそわして」とありますが、先に「殿上人」と呼んだ人を「この男」(原文はそれぞれ「上人」、「この男」)と言うのも不自然な気がします。

実は、「源氏物語探索教室」というサイトがあって、その第二章「名場面を考察する」が、「十月のころ~私も一緒に降りたのでございました」は、左馬頭が「(女と)こっそり心を通じている男」をたまたま見かけることになった状況説明として挿入されたにすぎないのだと言っています。

つまり話は、同乗の殿上人に「ちょっと女のところに廻ってくれないか」と頼まれ、たまたまその女の家への通り道に左馬頭の女の家があり、左馬頭はせっかくだからとそこで降りて、殿上人はそのまま左馬頭の車で自分の目当ての女の所に行ったのだ、というのです。

そう読めば、私の二つの疑問は解消します。

もっとも、どちらに考えても、左馬頭が女の浮気の場面を盗み見た話という点では同じで、この話の中心は、次の節です。》

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第一段 左馬頭の体験談(指食いの女の物語) ~その3

【現代語訳】3

 内裏あたりでの宿直は気乗りがしないし、気取った女の家は何となく寒くないだろうか、と思いましたので、どう思っているだろうかと様子見がてら、雪をうち払いながら、何となく体裁が悪くきまりも悪く思われるけれども、いくらなんでもこんな雪の夜わざわざ行けば数日来の恨みも解けるだろう、と存じましたところ、灯火を薄暗く壁の方に向け、柔らかな衣服の厚いのを大きな伏籠にうち掛けて、引き上げておくべきの几帳の帷子などは引き上げてあって、今夜あたりはと、待っていた様子です。やはりそうであったよと、得意になりましたが、本人はいません。しかるべき女房連中だけが残っていて、『親御様の家に、今晩は行きました』と答えます。

 情のある和歌も詠みおかず、思いの感じられる手紙も書き残さず、ただそっけなく無愛想であったので、拍子抜けした気がして、口やかましく容赦なかったのも、自分を嫌になってくれと思う気持ちがあったからだろうかと、そうも見えなかったのですが、おもしろくないままそう思ったのですが、支度の夜着はいつもより念を入れた色合いや仕立て方がとても素晴らしくて、やはり離別した後までも、気を配って世話してくれていたのでした。

 そうは言っても、すっかり愛想をつかすようなことはあるまいと存じまして、いろいろと言ってみましたが、別れるでもなくと、探し出させようと行方を晦ますのでもなく、恥を掻かさない程度に返事をしながらも、ただ、『以前のような心のままでは、とても我慢できません。改心して落ち着くならば、また一緒に暮らしましょう』などと言いましたが、そうは言っても思い切れまいと存じましたので、少し懲らしめようという気持ちから、『そのように改めよう』とも言わず、ひどく強情を張って見せていたところ、とてもひどく思い嘆いて、亡くなってしまいましたので、めったに冗談も言えないという気がしました。

 一途に生涯頼みとするような女性としては、あの程度で確かによいと思い出さずにはいられません。ちょっとした風流事でも実生活上の大事でも、相談してもしがいがなくはなく、染色は龍田姫と言っても不似合いでなく、裁縫は織姫の腕前にも劣らないその方面の技術をもっていて、行き届いていたのでした」

と言って、とてもしみじみと思い出していた。中将が、

「その織姫の技量はひとまずおいても、永い夫婦の契りだけには七夕にあやかりたいものだったね。なるほど、その龍田姫の錦の染色の腕前には、誰も及ぶ者はいないだろう。ちょっとした花や紅葉といっても、季節の染め色が相応しくなく、下手なのは、何の見映えもなく、台なしになってしまうものだ。そうだからこそ、妻選びは難しいものだ」

と、話をとりもたれる。

 

《左馬頭は、あれ程ひどいことを言っておきながら、またおめおめとこの女性のところにやってきますが、女性は、そういうこともあろうかと行き届いた準備をしておいて、自分自身は親元に帰ってしまって、家にいません。

そして、左馬頭が強がりを言ってじらしているつもりの間に、女性は亡くなってしまいます。

 たしかに強すぎる嫉妬心はやはり大きな問題でしょうが、この女性は家を守ることにおいては、普通に考えると決して「あの程度」の女性ではなく、大変有能のようです。この夜の振る舞いは、男を迎える準備といい、親元に帰ってしまっていたことといい、その双方がいずれも男に対する愛情表現なのであって、なかなか見事です。

まして、竜田姫や織り姫に匹敵する技能もあったのであれば、惜しい人で、唯一、嫉妬深いということが、左馬頭にとって煩わしかっただけのようです。

こうしてここに短いエピソードながら、一人の見事な女性の薄幸の人生が、リアリテイを持って表されることになりました。

左馬頭は「一途に生涯頼みとするような女性としては、あの程度で確かによい」と残念がって話を結びますが、結婚論一般としては、この意見は大変に当を得たもので、基本的には「割れ鍋に綴じ蓋」であることを心得る必要があるのです。

ところで、前置きの書画・細工物の話に返りますが、あれは、本当によいものには、根本に確かなものがある、という話だったのであって、やはり前にも言ったように、あの前置きは、左馬頭の、そして作者自身の美術談義として読んで、結婚論に結びつけない方が、解りやすいと思います。》


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第一段 左馬頭の体験談(指食いの女の物語)~その2

【現代語訳】2 

その当時に思いましたことには、この女はこのようにむやみにわたしに従いおどおどしている女のようだ、何とか懲りるほどの思いをさせて、脅かして、この嫉妬の方も少しはまあまあになり、口うるささも止めさせようと思って、本当に辛いなどと思って別れてしまいそうな態度をとったならば、それほどわたしに連れ添う気持ちがあるならば懲りるだろうと存じまして、わざと薄情で冷淡な態度を見せて、例によって怒って恨み言をいって来た折に、

『こんなに我を張るなら、どんなに夫婦の宿縁が深くとも、もう二度と逢うまい。別れるつもりならば、このようなめちゃくちゃな邪推もするがよい。将来も長く連れ添おうと思うならば、辛いことがあっても、我慢していい加減に折り合いを付けよ。このような嫉妬心さえ消えたならば、とても愛しい女と思うだろう。人並みに出世もし、もう少し一人前になったら、他に並ぶ人がない正妻にするだろう』などと、うまく教えたものよと存じまして、調子に乗って度を過ごして言いますと、少し微笑んで、

『何かにつけて見栄えがしなく、一人前でないあいだをじっとこらえて、いつかは一人前にもなろうかと待つということは、少しも気にならず、苦にもなりません。辛い浮気心を我慢して、いつになったら直るのだろうかと、これから長の年月の当てにならない期待を持ち続けることは、まことに辛くもありましょうから、お互いに別れるのによいときです』

と憎らしげに言うので、腹立たしくなって、ひどい言葉をあびせますと、女も黙っていられない性格で、指を一本引っ張って噛みついてまいりましたので、大げさに文句をつけて、

『このような傷まで付いてしまったので、ますます役人生活もできるものでない。軽蔑なさるような官職さえ、ますます絶望的で、どうして出世して行けようか。出家しかない身のようだ』などと言い脅して、

『それでは、今日こそが最後のようだ』と言って、この指を折り曲げて退出しました。

『 手を折りてあひ見しことを数ふればこれひとつやは君が憂きふし

(あなたとの結婚生活を指折り数えてみますと、今回だけがあなたの嫌な点なものか)

恨むことはできますまい』

などと言いますと、そうは言うものの涙ぐんで、

『 憂きふしを心ひとつに数へきてこや君が手をわかるべきなり

(あなたの辛い仕打ちを胸の内に堪えてきましたが、今は別れる時なのでしょうか)』

などと、言い争いましたが、本当は別れようとは思いませんままに、何日も過ぎるまで便りもやらず、浮かれ歩いていたところ、臨時の祭の調楽で、夜が更けてひどく霙が降る夜、めいめい退出して分かれる所で、思いめぐらすと、やはり自分の家と思える家は他にはなかったのでした。

 

《左馬頭の長口舌の中では、大変におもしろいやりとりの場面です。左馬頭から作戦的な愛想づかしを言われたその女性は、左馬頭の意に反してそれを真正面から受け止め、つらくともきっちりとケリを付けようと言い出します。

もちろん本気で左馬頭を愛していたのですが、どこかでその自分の気持ちをきっちりと処理する「家とうじ」的な面を持っていたのです。

左馬頭よりもずっと大人だという感じです。

口論の末に左馬頭の指に噛みついたというのは、別れを言い出した彼女の冷静な言葉がどれほどの思いを抑えて言われたかということを、左馬頭に示しているわけです。また逆に発作的なその行動は、彼女の中に彼女自身にも気付かないままに、大きなある抑え難いマグマが潜んでいることの証しでもあります。「家とうじ」性とマグマの共存、うわべを整えなくてはならない貴族社会の女性には、これほど極端ではないものの、同じ思いを持つ女性は珍しくなかったかも知れません。

しかし左馬頭には、そういう女性の思いを理解する素地も、そこに思いを致させる環境も、もちろんありません。彼が考えるのは、取りあえずの自分の都合です。

途中、「手を折りて…」の歌は、『伊勢物語』十六段にある「手を折りてあひ見しことを数ふれば十といひつつ四つは経にけり(あなたと結婚して以来もう四十年にもなるのですね)」のパロデイで、相手の女性にとっては大変嫌みな、そして読む者には滑稽な歌になっています。

最後の、祭の果てた後、霙に打たれながら行き所無く途方に暮れている左馬頭の姿は、どこか「ふうてんの寅さん」の趣きもあっておかしく、また源氏や頭中将にとってだけではなく、読者の女房たちにとってもおもしろい話だったことでしょう。

話はまだ続きます。》

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