【現代語訳】3
「さてどんなものか、上の品と思う中でさえ難しい世の中なのに」と、源氏の君はお思いのようである。白いお召物で柔らかな物の上に、直衣だけを気楽な感じにお召しになって、紐なども結ばずに、物に寄り掛かっていらっしゃる灯影は、とても素晴らしく、女性として拝したいくらいだ。この源氏の君のおんためには、上の上の女性を選び出しても、猶も満足ではなさそうにお見受けされる。
さまざまな女性について議論し合っていって、
「通り一遍の仲として付き合っているには欠点がなくいい女でも、わが伴侶として信頼できる女性を選ぼうとするには、たくさんいる中でも、なかなか決め難いものですね。
男が朝廷にお仕えし、しっかりとした世の重鎮となるような方々の中でも、真の優れた政治家と言えるような人物を数え上げるとなると、難しいことでしょう。しかし、どんなに賢者だと言っても、一人や二人で世の中の政治を執り行えるものではありませんから、上の人は下の者に助けられ、下の者は上の人に従って、政治の事は広いものですから互いに委ね合っていくのでしょう。
それに対して、狭い家の中の主婦とすべき女性一人について考えてみると、できないでは済まされないいくつもの大事が、こまごまと多くあります。ああ思えばこうであったり、何かと食い違って、不十分ながらもまあまあやって行けるような女性が少ないので、浮気心の勢いのままに世の女性の有様をたくさん見比べようとの好奇心ではありませんが、ひたすら伴侶としたいばかりに、同じことなら、自ら骨を折って直したり教えたりしなければならないような所がなく、気に入るような女性はいないものかと、選り好みしますところから、なかなか決まらないのでしょう。
必ずしも自分の理想通りではなくても、いったん見初めた前世の約束だけを破りがたく思い止まっている男性は、誠実であると見え、そうして一緒にいる女性にしても、取り柄があるのだろうという気がします。
しかし、なあに、世の中の夫婦の有様をたくさん拝見していくと、想像以上にたいして羨ましいと思われることもありませんよ。公達の最上流の奥方選びには、どんな方がお似合いになりましょうか。
《源氏は下々には縁がないので、左馬頭の話には信じがたい気持のようです。
ここもまた、「と源氏の君はお思いのようである(原文・おぼすべし)」と推量の言い方になっていて、不可解なようですが、桐壺の巻第一章第三段で触れたように、目の前にこの場面の絵を置いて、それを説明する形で語られているということなのでしょう。
今後もこういう形で、推量表現される書き方がしばしば出てきますので、折々触れることにします。
さて、源氏のくつろいだ姿が描かれ、「女性として拝したいくらいだ」とあります。ここは、源氏を女性にして見たいという意味に取る説と、女性の立場で源氏を見たいという意味に取る説とがあるようですが、一応前者に従っておきます。
それがこの時代の女性にとっての理想の男性像だったのでしょう。宝塚歌劇に女性が憧れる感覚なのでしょうか。私のような男には理解しがたいところですが、しかし女性にとって普遍の夢なのかも知れません。
そういう源氏と、そして頭中将という当代屈指の貴公子を前に、下世話に詳しい左馬頭がおしゃべりを続けます。
初めは、男の仕事と妻という立場でのあり方を比べての話です。確かに、仕事なら手分けができますが、妻の存在は手分けというわけに行きません。妻は職務ではなく、その存在自体が夫に好ましく思えるかどうか、なのですから、その役は一人で背負うしかありません。その上にこの若者は妻の夫婦間の「仕事」も一人でこなせるような人を考えているようです。となると、それは大変に難しいことになります。
捉え方として生硬の感は免れませんが、妻というあり方を描き出す解りやすい比較になっています。
また、現代で考えれば、女性の側からも男性について同じことが言えるのですが、もちろんそんなことはこの若者たちは考えません。
最後の段落は理想的な夫婦というのはなかなかないものだ、という当たり前の話ですが、それにしても、「どれほどの女性がお似合いになりましょうか」は、源氏の奥方が頭中将の妹であることを思うと、大変な言い過ぎですが、つい口が滑ったのでしょうか。あるいは『評釈』の言うように、源氏が葵の上に関心を持てないでいるのが公然の秘密だということなのでしょうか。