源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第一章 雨夜の品定めの物語

第四段 女性論、左馬頭の結論~その4


【現代語訳】4
 左馬頭がこの評定の博士になって、さらに弁じ立てていた。頭中将は、この弁論を最後まで聴こうと、熱心になって、受け答えしていらっしゃった。

 「いろいろのことに引き比べてお考えください。木工の道の匠がいろいろの物を思いのままに作り出す場合も、その場限りの趣向の物でこういう物と型のきまりのない物は、見た目には洒落ているのも、なるほどこういうふうにも作るのだと、時々に従って趣向を変えて、目新しいのに目が移って趣のあるものもあります。けれども大事な物として、本当に立派な、調度の中でも特に目玉とする、一定の様式というようなのがあるものを立派に作り上げることは、やはり本当の名人は、違ったものだと見分けられるものでございます。

 また、画工司に名人が多くいますが、墨描きに選ばれて、順々に見るとまったく優劣の判断は、ちょっと見ただけではつきません。

それでも、人の見ることもできない蓬莱山や、荒海の恐ろしい魚の形や、唐国の猛々しい獣の形や、目に見えない鬼の顔などで、仰々しく描いた物は、想像のままに格別に目を驚かして、実物には似ていないでしょうが、それはそれでよいでしょう。

 しかしどこでも見かける山の姿や、川の流れや、見なれた人家の様子は、なるほどそれらしいと見えて、親しみやすくおだやかな方面などを心落ち着いた感じに配して、険しくない山の風景や、こんもりと俗塵を離れて幾重にも重ねたり、近くの垣根の中については、それぞれの心配りや配置などを、名人は大変に筆力も格別で、未熟な者は及ばない点が多いようです。

 文字を書いたものでも、深い素養はなくて、あちらこちら点長にしゃれた走り書きをし、どことなく気取っているようなのは、ちょっと見ると才気がありひとかどのように見えますが、やはり正当の書法を丹念に習得しているものは、表面的な筆法は隠れていますが、もう一度取り比べて見ると、やはり本物の方に心が惹き付けられるものですよ。

 つまらない芸事でさえこうでございます。まして人の気持ちの、折々に様子ぶっているような見た目の愛情は、信用がおけないものと存じております。その最初の例を、好色がましいお話ですが申し上げましょう」

と言って、にじり寄るので、源氏の君も目をお覚ましになる。中将はひどく本気になって、頬杖をついて向かい合いに座っていらっしゃる。法師が世の中の道理を説いて聞かせているような所の感じがするのも、はたで見るとおかしいのですが、このような折にはそれぞれがうちとけたお話などを隠しておくことができないのであった。


《左馬頭の話が続きます。

ここは、例えの話で、木工細工、絵画、書を例えに挙げるのですが、言っているところはほぼ同じで、つまり、珍しく一時的に人目を驚かすようなものを作ったり書いたりするのは難しいことではないが、それよりも細工物で「一定の様式というようなのがあるもの(原文・定まれるやうのあるもの)」を作り、絵で「どこでも見かける(原文・世の常の)」ものや情景を描き、書で「正当の書法を丹念に習得している(原文・まことの筋をこまやかに書き得たる)」と思われるものを書くのには、本当の実力が必要だと、彼は語ります。

左馬頭の結婚論の前置きです。話としてはよく解りますし、適切な指摘ですが、先の女性論と同じく、大変地味な、また「通」とも言える見方、考え方です。彼は案外苦労人なのかも知れません。

ただ前置きとしては少々大袈裟ですし、なにより後の話とのつながりがやや希薄に思われて、むしろ作者自身の美学の披露ではないかという気がします。

なお、この場面について『評釈』が、頭中将の熱心な様子を、先にあった源氏の「居眠りをして意見をさし挟みなさらな」かった様子と対照させて、源氏の「最高の貴族」らしさを描いている、としています。そうかも知れませんが、私には、さすがに源氏だと思うよりも、どこか現世的処世の達人の中将と、浮世離れした夢ミストの源氏という、それぞれの人間性が描かれているという点でおもしろく思われます。》

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第四段 女性論、左馬頭の結論 ~その3

 

【現代語訳】3
 また、少しばかり他の女に心が移ったような夫を恨んで、露骨に態度に表わすようなのは、これまたばかげたことでしょう。気持は他の女に移ることがあったとしても、夫が結婚した当初の愛情を大切にしようと思うならば、それなりの縁の伴侶ときっと思っているでしょうに、そのようなつまずきから、縁が切れてしまうのです。

 総じて、どのようなことでも心穏やかに、うらめしいと思うことについては、知っていますよという様子にほのめかし、恨み言をいうべき場合にもかわいらしくそれとなく言えば、それによって愛情も一段と増すことでしょう。一般に、自分の浮気心も妻の態度から収まりもするのです。あまりやたらに夫を勝手にさせ放任しておくのも、気が楽でかわいらしいようだが、自然と軽く見られるものです。繋がない舟はどこに行くか分からないという譬えもあり、実際おもしろくありません。そうではございませんか」

と言うと、中将は頷く。

「さし当たって、美しいとも気立てがよいとも思って気に入っているような人が、信頼できないと思える疑いがあるような場合は、それこそ重大だろう。自分が心を乱さずに大目に見てやっていたら、相手も気持ちを変えて添い遂げられないこともないだろうと思われるけれども、そうとばかりも言えまい。

いずれにしても、夫婦仲がうまくいかないようなことがあってもそれを、気長にじっと堪えているより以外に、良い手段はないようだ」

と言って、自分の妹の姫君はこの結論に当てはまっていらっしゃると思っているので、源氏の君が居眠りをして意見をさし挟みなさらないのを、物足りなく不満に思う。

 

《始めの左馬頭の話の続きは、現在読めば浮気をした男性サイドからの全く一方的な虫のいい言い分ですが、当時としては男性には当たり前の考え方だったわけでしょう。

この談義の始まる時に、「まことに聞きにくい話が多かった」と語り手の話がありましたが、女性たちは、ここまでの女性評の中に耳が痛い話もあったと同時に、こういう許し難い考え方も含まれていたことでしょう。

「総じて、どのようなことでも心穏やかに、うらめしいと思うことについては、知っていますよという様子にほのめかし、恨み言をいうべき場合にもかわいらしくそれとなく言えば、それによって愛情も一段と増すことでしょう」というのは、難しいこととは言え、確かに、結果的にはよい効果を生む可能性の最も高い現実的な態度であるかも知れません。

しかし創造主が一般に、男性にそういう問題を発生させ易いように創り、女性をそういう態度が取れるように創らなかったという点が大きな問題です。

続く中将の話は、逆に妻の浮気に対する夫の対処の仕方ですが、こちらも「重大だろう」とは言いながら、結局「気長にじっと堪えている」しかない、と、至って寛大です。

もっとも、この取って付けたような最後の一言は、妹の葵の上への訪れの少ない源氏に聞かせたい気持ちもあったようです。》


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第四段 女性論、左馬頭の結論~その2

 

【現代語訳】2
 思わせぶりにはにかんで見せて、恨み言をいうべきことをも見知らないふうに我慢して、表面は何げなく平静を装っていて、胸に収めかねて思いあまった時には、何とも言いようのないほどの哀しげな言葉や、胸を打つ和歌を詠み残し、思い出になるにちがいない形見を残して、深い山里や、辺鄙な海浜などに姿を隠してしまう女がいます。

子供でございましたころ、女房などが物語を読んでいたのを聞きながら、とても気の毒に悲しく、何と深く思いつめたことかと、涙までを落としたものでした。

今から思うと、とても軽薄で、わざとらしい仕打ちです。愛情の深い夫を残して、たとえ目の前に薄情なことがあっても、夫の気持ちを分からないかのように姿をくらまして、夫を慌てさせ、本心を見ようとするうちに、一生の後悔となるのは、大変につまらないことです。

『よいお考えだ』などと、周囲に褒め立てられて、気持ちが昂じてしまうと、そのまま尼になってしまいます。思い立った当座は、本当に心も澄んだようで、世俗の生活を振り返ってみようなどとは思わない。

『まあ、何とおいたわしい。こうもご決心されたとは』などと言ったように、知り合いの人が見舞いに来たり、すっかり嫌だと諦めたわけではない夫が、聞きつけて涙を落とたりすると、召使いや老女たちなどが、『殿のお気持ちは、愛情深かったのに。惜しいおん身を』などと言い、自分でも額髪を触ってみて、手応えなく心細いので、泣顔になってしまいます。堪えても涙がこぼれ出してしまうと、何かの時々には我慢もできず、後悔も多いようなので、仏もかえって未練がましいと、きっと御覧になるでしょう。

濁世に染まっている間よりも、生悟りは、かえって悪道に堕ちさまようことになるに違いなく思われます。

切っても切れない前世からの宿縁も浅くなく、尼になってしまう前に捜し出したにしても、ずっと連れ添って、どんなことがあったにしても、何ごともなかったようにしているような夫婦仲こそ、宿縁も深く愛情も厚いと言えましょうに、自分も相手の夫も、不安で自然と気をつかわずにいられましょうか。

 

《左馬頭の話が続きます。

先に結論として「ただひたすら実直で、落ち着いた心の様子がありそうな女性」が妻として望ましいと言ったけれども、話していて彼は、普段そのように見えていた女性が、ある時男にとって全く思いがけない行動を起こすことがある、という、子供の頃に聞いた物語を思い出します。

『集成』がここの「物語」について「当時流行していた作り物語である。…不幸な女の家出といった話を扱って同情の涙をそそるような物語が多かったのであろう」と言っています。

いわゆるお涙頂戴といった話のようですが、ここに語られているエピソードの女性は結果的に周囲の声に振り回されているのであって、女房たちには悲劇として読まれたのかも知れませんが、「自分でも額髪を触ってみて、手応えなく心細いので、泣顔になってしまいます」といったあたりは、ほとんど落語のネタと言ってもいいような滑稽な話と言うべきでしょう。

結婚観、女性観を引き出すような話とは思われません。

そういう中で、「ずっと連れ添って、どんなことがあったにしても、何ごともなかったようにしているような夫婦仲こそ、宿縁も深く愛情も厚いと言えましょう」という感想は、先の結論と並んで、若者らしからぬ現実的でしかも深い洞察を秘めたもので、あるいは作者の述懐なのではないかという気もします。》

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第四段 女性論、左馬頭の結論~その1

【現代語訳】1

 「そうなればもはや、家柄にもよりますまいし、容貌はまったく問題ではありません。ひどく意に満たないひねくれた性格でさえなければ、ただひたすら実直で、落ち着いた心の様子がありそうな女性を、生涯の伴侶としては考え置くのがよいですね。それ以上に情趣を解する心や気立てのよさが加わっているようなら、それを幸運だったと思い、少し足りないところがあるようなのも、無理にそれ以上は求めますまい。安心できてのんびりとした性格さえはっきりしていれば、表面的な情趣は、自然と身に付けることができるものですからね。

 

《これまでの彼の議論から考えると、ずいぶん後退した、常識的な結論のようですが、案外、実際的で当を得た考えだと言っていいでしょう。

現代の感覚で考えれば、結局彼のここまでの議論は、変な意味で理想主義的で、自分のことを棚に上げておいて、できあがった女性を求めていたわけです。

夫婦というのは結局は、お互いの社会的地位をはぎ取った、生身の、したがって不完全な人間同士の間柄でしかありえないのですから、所詮は割れ鍋に綴じ蓋、不完全な二人の人間がどう関係を紡いでいくかを考えることが要諦であることは、少なくとも一歳取れば誰でも承知することです。

ただ、この時代においては、女性は男性の庇護を受けるしかなかったのであって、男性が一方的に女性を選ぶ、男性優位の社会なのですから、男性は自分を絶対のものとして、ひたすら好ましい女性を「探そう」としたのも無理はないと言えます。

彼等の議論の中には自分はどう振る舞うという考えがほとんど出てきません。》

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第三段 左馬頭、藤式部丞ら女性談義に加わる ~その4

【現代語訳】4

 容貌がこぎれいで若々しく、自分自身では塵もつけまいと身を振る舞い、手紙を書いても、おっとりと言葉選びをして墨付きも淡く、気をもませて、もう一度はっきりと見たいものだとやきもきさせ、やっとわずかに声を聞く程度に言い寄っても息を殺して声小さく言葉少ななのが、とてもよく欠点を隠すものです。もの柔らかで女らしい女だと思って見ると情に流されやすく、やさしくすると浮気っぽさを見せる、これを最初の難点と言うべきでしょう。

家事の中で疎かにできないのは夫の世話をすることだという点から考えると、物の情趣を大切にし過ぎて、ちょっとしたことにも風情を求め、しゃれた振る舞いを追うというような面はなくてもよいことだろうと思われますが、また一方で、家事一点張りで、額の髪を耳挟みがちにして飾り気のない主婦で、ひたすら世帯じみた世話だけをしていては、夫は、朝夕の出勤や帰宅につけても、公事や私事での他人の振る舞いや善いこと悪いことで目にも耳にも止まった有様を、親しみも感じない人にわざわざそっくり話して聞かせたりしましょうか、親しい妻で理解してくれそうな者とこそ語り合いたいものだと思われ、嬉しいこと、哀しいこと、あるいはまた、無性に公憤をおぼえたり、胸の内に収めておけない多くのことを、そういう妻に話しても何になろうか、と思いますと、ついそっぽを向きたくなって、人知れない思い出し笑いがこみ上げたり、『ああ』とも、つい独り言を洩らしたりすると、『何事ですか』などと、間抜けた顔で見上げるようなのは、まったく残念に思われます。

 ただひたすら子供っぽくて柔軟な女を、いろいろと教え諭して、ぜひ妻としたいものです。心配なようでも、直し甲斐のある気持ちがするでしょう。

もっとも、一緒に生活するのには、そんなふうでもかわいらしさに欠点も許され世話をしてやれましょうが、離れていては必要な用事などを言いやり、時節に行なうような事柄の風流事にも実用事などにも、自分では判断ができず深い思慮がないのは、まことに残念で頼りにならない欠点が、やはり困ったものでしょう。普段はちょっと無愛想で親しみの持てない女性が、何かの事に思わぬでき映えを発揮するようなこともありますからね」

などと、至らない所のない論客も、結論を出しかねて大きく溜息をつく。


《左馬頭の話の続きですが、話が少し転じて、どういう女性がいいかという話から、女性一般の批評に移ります。まずは結婚前の娘のころの話です。

 ちょっと分かりにくい論旨ですが、女性が娘として深窓にいて男性に対して慎み深く控えめに振る舞っている間は、いかにも女らしく、さまざまな欠点が隠されていて、どんな女性も魅力的に見えるのだが、しかし実際に親しくなってみると、「もの柔らかで女らしい女」と見えた女性は、しばしば感情的で、気を許すと浮気もしかねない、それが男性にとって最も御しがたいところだと左馬頭は言っているようです。

そしていざ結婚した場合には、ものの情趣を解する女性と実務的な女性と、どちらも極端では困ると言うのですが、それは普通何でもそうです。両方が完璧であれば問題はないのですが、実際にはそのそれぞれの度合いの問題になります。

そのバランスを夫となる男性の好みに一致させなくてはならないとなると、女性にとっては大変です。

それこそ長い二人の年月の間に次第にお互いがお互いのバランスを納得するあり方が会得できてくるものなのですが、この若者はそういうふうには考えません。

そしてもう一度「マイフェアレデイ」の話です。二度も出てくるところ見ると、やはり「若紫」を意識してのことなのでしょうか。

さてそのように育てれば一緒にいる時はかわいくていいかも知れないが、やはりかわいいだけで、何かの時に自分でことがきちんと処理できないようでは困る、と言います。

理屈で考えれば、そういうことになるでしょう。いかにも若者らしい議論です。

「至らないところのない論客」という評価が皮肉で、「大きく溜息をつく」というのが大仰で滑稽です。

一年取った女性の作家が青臭い男性に中途半端な女性批判をさせている、という構図がまた皮肉です。作者自身の女性批判もそこここに盛り込まれているに違いありません。

ひょっとしたら、先に言ったように、これは大変狭い社会で読まれた物語ですから、読者たちにはこれは誰のことと解るような部分もあるのかも知れません。》

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