【現代語訳】3
月も沈んでしまった。
雲のうへも涙にくるる秋の月いかですむらむ浅茅生の宿
(雲の上の宮中までも涙に雲がかかって見える秋の月だ、ましてやどうして澄んで見えようか、草深い里に住んでいる者に)
更衣の母君をお思いやりになりながら、灯芯をかき立てて油の尽きるまで起きておいであそばす。右近衛府の官人の宿直申しの声が聞こえるのは、丑の刻になったのであろう。人目をお考えになって、夜の御殿にお入りになっても、まどろみあそばすことも難しい。朝になってお起きになろうとなさっても、「以前は夜の明けるのも分からないで寝ていたのに」とお思い出しになられるにつけても、なお政治をお執りになることは怠りがちになっていらっしゃるようである。
お食事などもお召し上がりにならず、朝食には形だけお箸をおつけになって、昼の御膳などは、まったくお心に入らぬかのように手をおつけあそばさないので、お給仕の人たちは皆、おいたわしいご様子を拝して嘆く。総じて、お側近くお仕えする人たちは、男も女も、「たいそう困ったことですね」とお互いに言い合っては溜息をつく。「こうなるはずの前世からの宿縁がおありあそばしたのでしょう。大勢の人びとの非難や嫉妬をもお憚りあそばさず、あの方の事に関しては、御分別をお失いあそばされ、今は今で、このように政治をお執りになることも、お捨てになったようになって行くのは、たいへんに困ったことです」と、唐土の朝廷の例まで引き合いに出して、ひそひそと嘆息するのであった。
《「怠りがちになっていらっしゃるようである(おこたらせたまひぬべかめり)という言い方が注目されます。「めり」という視覚的推定の表現をすることで、語り手は自分と帝を切り離し、彼の様子を遠くから眺めてその気持ちを推測しているように書きます。それによって帝は独り立ちして実在感を増すことになります。
「おいたわしいご様子を拝して嘆く」とありますが、「おいたわしい」と感じているのはこの場合当然作者ではなく「お給仕の人」ですから、ここでもまた周囲の者達は、困ったことだと言いながら、それもやはり同情的、更に言えば好意的です。今になってそんなに思うのなら、更衣が生きている時にもう少し思いようがあったのではないかという気がしますが、それほどにこの人たちには更衣が蓮っ葉に見えていたということなのでしょう。
『評釈』が、物語の冒頭で「楊貴妃の例も引きい出でつべく」とあったのが、ここでは「唐土の朝廷の例まで引き合いに出して」となっていて、「対応する」と言っています。
このようにして更衣の物語が終わり、同時に光源氏登場の前史がここで一括りになるわけです。》