このブログを綴り始めたころ、俊秀の国語の先生から、光栄なことに、大変な質問を受けました。いわく、世界文学を優秀な順に上位から十編選ぶ時に、日本文学の中で入る可能性があるのは源氏物語だけだという話もあるが、では例えば高校生に分かるように一言で言うと、源氏物語の結局どこが素晴らしいのか。

おこがましいことは承知の上で、私はそれに一応以下のように返事しました。

 

一言で言えば、それは、そこに「人間」が描かれているという点だと思います。

そして付け加えれば、その人間が、他のどの作品よりも生き生きと、かつ数多く、描かれている点だと思います。

以下は不要の説明かと思いますが、私の覚えのためと、「高校生」のために言えば、…。

 

紫の上ほど無垢で聡明で愛らしい女性を私たちは他の作品で見つけるのは難しいし、現実の中ではもっと困難です。明石の上ほど賢明で誇り高くかつ慎み深く従順な女性も同様です。そして、妖艶にして純真な朧月夜の尚侍、気品と知性に溢れながら己の内なる業に翻弄される六条御息所、おそらくは娼婦であろう可憐な夕顔、豊満で観音のような母性の藤壺、などなど。

私たちが物語を読んでいる時、これらの人は、まるで実在する人のように存在感を持って、しかも文句なく大変魅力的に、そこにいます。

そしてそのことは、例えば源氏を空蝉に手引きする小君の献身の少年らしさ、明石の入道の一徹で情味溢れる人柄、惟光のいかにも小回りの利く従者ぶり、浮舟に寄り添う右近や侍従、さらにはただ一度、藤壺との破局に動揺している源氏をさらに不安に墜とす諷刺のほんの一言を言う役割も貰っているに過ぎない藤大納言に至るまで、さまざまな形で登場する脇役達にも言えることです。

もっとも、不思議なことに、光源氏や薫、匂宮という主要な男性たちについては、私は作者が入れ込んでいるほどの魅力も、また実在感も感じることができませんでした。

光源氏については、その時々の話の都合で変幻しすぎるように見えました。薫はあまりにも何もしなさすぎて人柄が小さく見えてしまいますし、匂宮の振る舞いは全く放蕩に過ぎず、女性にとっては悪魔的魅力があるのかも知れませんが、ただの風俗的な存在にすぎないように見えます。この作者は「男」を、絵になるワンカットの姿としてはうまく描けても、統一的に人格として描くことは不得手だったように思います。

しかし、女性については文句なく多彩に存在させているように思われ、そういうふうに考えると、例えば清少納言は『枕草子』一巻で、清少納言という極めて魅力的な個性一人を見事に表現した、ということのなるのではないでしょうか。

もちろん念のために言えば、そのように表現された人物の数が多いからと言って、それがそのままその作品の優劣になるというのではないことは、言うまでもありません。数よりもさきに魅力の度合いが大きいでしょう。ただ、数もまた、小さくない要素ではあります。

で、次は、それを仮にそうだとして、ではそれがどうした、ということですが、それは段を改めまして…。