『源氏物語』は、光源氏を主人公とする雲隠の巻までを第一部、匂兵部卿の巻から後を第二部と呼び習わされていますが、この二つは、ひょっとすると作者が違うのではないかという説があるくらいに、いろいろ違うところがあるようです。

 私も読んで来て、確かに違うなあという感じを持ちました。例えば、登場人物が、第一部に比べて第二部は極めて少ないことです。それは形の上だけのことのように思えますが、実は語ろうとするモチーフの違いでしょう。

また、途中幾度か触れましたが、話の前後がちぐはぐに思われることが、第一部ではあまり感じなかったのに、第二部には少なからずありました。もちろん私の読む力の不足からということもあるのでしょうが、取りあえず、私の実感です。

 そして実は、もっとも強く感じたのは、薫と匂宮と浮舟の三人の顔の表情が思い浮かばない、ということでした。これももちろん私の想像力不足という点があるのかも知れず、また、『光る』が宇治十帖を「実験小説」と呼んでいたことに引きずられているのかも知れませんが、どうも、拵えられた人物、という印象で、何か、この三人は仮面をつけて演じているという感じが、読んでいる間中、付いて回りました。

『源氏物語』には「巣守帖(すもりのじょう)」というものがあって、かつては、夢浮橋の巻の後に続く巻と考えられていたこともあるのだそうですが、今は後世(鎌倉時代あたりの)別の人の手になるものとされているようで、また、原本は近代の戦火で焼失して、断片の写真版があるだけなのだそうです。

しかし、夢浮橋の後、登場人物たちのその後はどうなるのかという関心は、多くの人に強いようで、『評釈』も「すでに物語り尽くしたのだ、と作者は言うであろう」と言いながら、この後の浮舟の勤行生活には、普通には様々な「危険性」があるが、「薫の一言で、…(救いとなるかどうかは問題としても)いっさいの危険性は解消するであろう」と、一応現実的考察をしており、『講座』所収「現世と彼岸」(阿部秋生著)も「(浮舟はこの後)彼女自身の歌にいう『尼の浮木』としての浮沈を繰り返すほかないであろう」とこの後を考えています。

しかし私には、このお話は、この後など必要なく、これですべてが終わりなのだという気がします。

この宇治十帖の話は、坊ちゃん育ちの奔放な行動的青年と、能吏である一方で決定的に精神主義者という、絵に描いたように相違する二人の貴公子と、皇族の末裔でありながら東国育ちという極めて異例な初心の女性との三人が織りなす、異例の事件を描いた物語です。それはつまり、現実にはあり得ない事件だということであって、この物語は、意図的に、それこそ実験的に仕組まれた物語だと思われますので、こういう異例づくめの人物の現実的なその後を考えても、あまり意味のあることではないような気がします。

彼等は作者に言いつかった役を十分に演じ終えました。芝居の幕が下りて舞台を降りた後の役者は、帰って寝ようが、居酒屋にしけこもうが、そこまで観客が追いかけて行って詮索するのは意味のないことではないでしょうか。

彼等は、第一部の人たちと違って、舞台の上だけの存在なのだと私には思えるのです。

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