【現代語訳】
若い女が、このような山里にもうこれまでと思いを断ち切って籠もるのは、なかなか難しいことなので、ただひどく年をとった尼七、八人が、いつも仕えている人としているのであった。その人たちの娘や孫のような者たちで、京で宮仕えするものや、他で暮らしている者が、時々行き来した。
「このような人によって、以前見た辺りに出入りして、自然と、生きていたと、どなたにしても聞かれ申すことは、ひどく恥ずかしいことであろう。どのような様子でさすらっていていたのだろうなどと想像されるのは、並外れたみすぼらしい有様であるにちがいない」と思うので、このような人びとに、少しも姿を見せない。
ただ、侍従と、こもきといって尼君が自分で使っている二人だけを、この御方に特別に言いつけて手元から割いてある。
容貌も気立ても、昔見た「都鳥(都の人)」に似た者はいない。何事につけても、
「『世の中にあらぬ所(世の中で身を隠す所)』はここであろうか」と、一方では思うように努めなさるのであった。
こうして、ひとえに人には知られまいと隠れていらっしゃるので、
「ほんとうに厄介なわけのある人でいらっしゃるのだろう」と思って、詳しいことは仕えている女房にも知らせない。
《浮舟は、じっと自分の殻に閉じこもってしまっています。
改めてこの庵の暮らしが語られます。ここには大尼君と尼君のほかには、お世話役として老尼が七、八人いるだけであり、都を離れた山里のことで、人の出入りは多くはないのですが、それでもさすがに、その者たちの縁者が、いくらかは出入りします。
浮舟にしてみると、そういう人の中の誰かが、たまたま薫や匂宮の屋敷の者と縁があるということがないとも限らない、と心配です。
そういう人を通して、もしも自分が生きているということが、あのお二方のどちらかにでも知られたりしたら、どんなにみじめな姿に想像されるか知れたものではない、そういうふうには絶対に思われたくない、と思うので、彼女はそうしてやってくる人にも決して姿を見せません。
尼君から付けられた侍従と小間使いの女「こもき」(どうして侍従には名前が与えられずに、こちらの方に名があるのでしょう)の二人だけの中にいます。二人は「容貌も気立ても、昔見た都鳥(都の人)に似ていない」というのは、彼女がいた上流階級とはかけ離れた、無縁の人だと思われて、いくらか安心だ、ということでしょうが、同時にもはや自分があの匂宮や薫の世界とはまったくかけ離れた所に来てしまっていることを、悲哀とともに実感させもするでしょう。
ここの「都人」は原文では「都鳥」で、『伊勢物語』九段の歌の用例を背景に「流離に似た思いから」使ったのだろうと『集成』が言います。『伊勢物語』での使われ方とは違うので違和感がありますが、『評釈』によれば、そういう用例がいくつかあるのだそうです。
「世の中にあらぬ所」も、古歌にある用語ですが、じつはその古歌は、かつて浮舟が三条の隠れ家で母と交わした歌(東屋の巻第五章第五段)で使われたもので、浮舟はその時のことを思い出しているのだと、これも『集成』が言います。「君がさかりを見るよしもがな」と言ってくれた母を思っている、ということでしょうか。》