源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第六章 薫の物語(三)

第四段 侍従、薫と匂宮を覗く

【現代語訳】

 涼しくなったといって、后宮は、内裏に帰参なさろうとするので、
「秋の盛りというのに、紅葉の季節を見ないというのは」などと、若い女房たちは残念がって、みな参集している時である。池の水に親しみ月を賞美して、管弦の遊びがひっきりなしに催され、いつもより華やかなので、この宮は、このようなことでは実にこの上なくお楽しみになる。朝夕に見慣れていても、やはり今初めて見る初花のようなお姿でしていらっしゃるが、大将の君は、それほどにはお立ち入りなさらないので、気のおけるうちとけにくい方だと、みな思っている。
 いつものようにお二方が参上なさって御前にいらっしゃる時に、あの侍従は物蔭から覗いて拝すると、
「どちらの方なりとも縁付いて、幸運な運勢に思えるご様子でこの世に生きておいでだったらよかったのに。驚くほどあっけなく残念なお心であったよ」などと、他人にはあの辺のことは少しも知っている顔をして言ったりしないことなので、自分一人で尽きせず胸を痛めている。

宮は、内裏のお話などこまごまとお話申し上げなさるので、もうお一方はお立ちになる。

「見つけられ申すまい。もう暫くの間は、ご一周忌も待たないで薄情な人だ、と思われ申すまい」と思って、隠れた。

 

《いつの間にか夏が過ぎ、秋を迎えて、浮舟の死亡(失踪)から三か月が立ちます。六条院の女房たちは、居心地の良さに、中宮が宮廷にお帰りになろうとしても、秋の盛りはこの院で過ごすのが好いでしょうなど、何やかやと引き止めて、毎日を華やかににぎやかに楽しんでいます。

 この人たちは知らないことですが、その光景は浮舟の悲劇がすっかり過去のものになったことを思わせます。

 そこに、元来派手好みの匂宮も加わって、「このようなことでは実にこの上なくお楽しみになりる」ます。「今初めて見る初花のようなお姿」だというのは、当時言い慣らされた言葉ではないかという気がしますが、印象的な言い方です。はっと人目を引く新鮮な美しさ、というような感じかと思われます。この人には、もうすっかり浮舟のことは忘れられたようです。

 一方薫は、「それほどにはお立ち入り」しないでいます。原文は「入り立ち」で、『集成』が「奥向きまでお出入り」することとしています。中宮は匂宮からすれば母で出入り自由なのでしょうが、薫からすれば姉と言っても年は離れ、しかも臣下で、また薫の人柄もあって、あまりこういう場所には出入りしていないということのようで、数日前に女一の宮の所に行った折(第五章第六段)の「いかにもたいへん姿よくこの上ない振る舞い」とは、ちょっと様子が違うようです。こちらはまだ傷心が癒されていないということもあるのでしょうか。

 そんな二人を侍従が垣間見て、改めて残念な思いを抱くのですが、思いを分かち合う相手もなく、ただ一人で胸の中で噛みしめています。

 匂宮が「内裏での話をこまごまと」中宮に話し始めたの見て、薫は席を立ちました。人が話を始めたところで立つのは、ちょっと失礼な振る舞いのようにも思われますが、親子の対話になったので席を外したのだ、と考えると、ありそうな場面です。

 薫は侍従のいる方にやってきたようで、彼女は、「ご一周忌も待たないで薄情な人だ」と思われることを恐れて、そっと隠れてやり過ごします。宇治を捨ててこちらに出仕したことを恥じている、ということなのでしょう。

この人も、明るい社会に出仕はしたものの、なかなかすんなりとそこになじむというわけにいかないでいるようです。

なお、初めの「秋の盛りというのに」は独断の私案で、原文はただ「秋の盛り」です。『集成』は「の」、『評釈』は「は」、『谷崎』は「を待ちまして」と続けています。》

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第三段 匂宮、宮の君を浮舟によそえて思う

【現代語訳】

 今年の春お亡くなりになった式部卿宮の御娘を、継母の北の方が特別には思わないで、兄の右馬頭で人柄も格別なところもないのが心を寄せているのを、不憫だとも思わずに縁づけるとお耳にあそばしたことがあって、
「お気の毒に、父宮がたいそう大切になさっていた女君を、つまらないものにしてしまおうとは」などと仰せになったので、ただもうひどく心細く思い嘆いていらっしゃる折で、
「やさしく、このようにおっしゃってくださること」などと、兄君の侍従も言って、最近迎え取らせていらっしゃったのだった。姫宮のお相手として、まことに最適のご身分の方なので、高い身分の方として特別の扱いで伺候なさる。決まりがあるので、宮の君などと呼ばれて、裳くらいはお付けになるのが、ひどくおいたわしいことであった。
 兵部卿宮は、

「この宮くらいなら、恋しい人に思いよそえられる様子をしていようか。父親王は兄弟であった」などと、例のお心は、故人を恋い慕いなさるにつけても、女を見たがる癖がやまず、早く見たいとお心にかけていらっしゃった。
 大将は、

「おもしろくないことだ。つい先ごろまで、春宮に差し上げようかなどとお思いになり、私にもそのようなご様子をほのめかされたのだ。このようにあっという間の衰えを見ると、水の底に身を沈めても、おかしくはないことだろう」などと思いながら、誰よりも同情をお寄せ申し上げなさった。
 この院にいらっしゃるのを内裏よりも広く興趣あって住みよい所として、いつもは伺候していない女房どももみな気を許して住みながら、広々とたくさんある対の屋や渡廊、渡殿などいっぱいにいる。
 右大臣殿は、昔のご様子にも負けず、すべてこの上もなくお世話申し上げていらっしゃる。盛んになったご一族なので、かえって昔以上に華やかな点では勝るのであった。
 この宮は、いつものお心ならば幾月かの間にどのような好色事でもなさっていたところが、すっかりお静まりになって、傍目には

「少しは大人びてお直りになったか」などと見えるが、最近は再び、宮の君にご本性を現して、まつわりつきなさるのであった。

 

《突然話が展開して戸惑いますが、浮舟の死で寝込んでしまった匂宮を薫が見舞うときに出てきた式部卿宮(第二章第四段)に関わる話で、「お気の毒に」と聞いたのは、後の話から中宮であるとされます。

 後に残された「御娘」を「継母の北の方」が自分の風采のあがらない兄(「馬頭は…従五位上相当」・『集成』)に縁付けようとするという、身分差も、そしておそらく年の差も、何とも驚いた話ですが、それを中宮がお聞きになって、かわいそうにと言われたという話を聞いた姫の兄が、それはありがたいお気持ちだ思って動いたのでしょうか、運よく中宮のところに出仕することになりました。

 以前、薫が、匂宮はいずれ浮舟を女一の宮のところに出仕させるようなことになるだろうと心配した、という話があり(浮舟の巻第六章第四段)、宮家の娘としては、こういう出仕は決して名誉なことではなかったようで、ここでも「宮の君などと呼ばれて、裳くらいはお付けになるのが、ひどくおいたわしいこと」と語られますが、右馬頭夫人になるよりはまだましということなのでしょう。

 物語の中の不思議なめぐりあわせで、この人は、その女一の宮のお相手役を勤めることになったのですが、すると早速兵部卿宮(匂宮)が食指を動かします。亡くなった父・式部卿宮は浮舟の父の八の宮と兄弟になるので、この人は浮舟と従妹同士だということで、「恋しい人に思いよそえられる」のではないと思ったと言います。

 一方で大将(薫)は、浮舟の時に思ったように、この人についても「そこまで身を落とされることについて」(『集成』)批判的で、一時は東宮のお妃にとまで話があり、自分にもあった(東屋の巻第二章一段2節)ような人がこういうことなら、浮舟のように「水の底に身を沈めても、おかしくはない」だろうと、「誰よりも同情」しています。ここの「誰よりも(原文・人よりは)」は、「他の女性よりも特にこの人に」のようにも読めますが、薫は小宰相と女一の宮と中の宮を思い続けているのですから、「人々の中で特に薫は」という意味に考える方がいいでしょう。

 姫宮さえもそのように迎え取ることができるほどに、この六条院はすばらしいところであるという意味なのでしょう。中宮がゆっくりと滞在しているのをいいことにして、女房たちは窮屈な宮中よりも居心地がよいとおおぜいがやって来ているのでした。

そして夕霧も妹・中宮を精一杯に支援しますので、院内は源氏の在世中よりも「華やかな点では勝る」ほどで、そうなると、浮舟ロスで落ち込んでいた匂宮が、いよいよ目を覚ますことになって、うろうろとまとわるようになってきました。》

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第二段 侍従、明石中宮に出仕す

【現代語訳】

 おっとりとして乱れる様子をお見せにならない方でさえ、このようなことには苦しいことが自然と出て来るのだから、宮は、それ以上に慰めかねながら、あの身代わりとして尽きない悲しみをおっしゃる相手もいないけれども、対の御方だけは、

「かわいそうに」などとおっしゃるが、深く親しいお付合いではない、最近のご縁だったので、本当に深くはどうしてお思いになろうか。

また、お気持ちのままに、

「恋しい、たまらない」などとおっしゃるのは気がひけるので、あちらにいた侍従を、例によって迎えさせなさった。
 皆女房たちは散り散りになって、乳母とこの人ら二人は、特別に目をかけてくださったのも忘れることができず、侍従は身内外の女房であるが、やはり話相手として暮らしていたが、どこにもないような川の音も「うれしき瀬(嬉しいことに出会う折り)」もあろうかと期待していたうちは慰められていたけれども、ただもう情けなく大変に恐ろしく思われて、京でみすぼらしい所に最近来ていたのを、捜し出しなさって、
「こうして仕えていなさい」とおっしゃるが、

「お心はお心としてありがたいが、女房たちが噂するにつけても、あのことが絡んでいるところでは、聞きにくいこともあろう」と思うので、お受け申さない。

「后の宮にお仕えしたい」と希望したので、
「とても結構なことだ。その上で内々に目をかけてやろう」とおっしゃるのだった。

心細く頼りとするところのないのも慰むことがあろうかと、縁故を求めて出仕した。

「小ざっぱりとしたまあまあの下臈だ」と認めて、誰も非難しない。大将殿もいつも参上なさるのを見るたびごとに、何もかもがしみじみと思われる。

「たいへんに高貴な大家の姫君ばかりが、大勢お仕えしていらっしゃる宮邸だ」と女房が言うが、だんだん目をとめて見ると、

「やはりお仕えしていた方に似た美しい姫君はいないものだ」と思って働いている。

 

《薫が心の内であれこれと思い返しながら悲しみと後悔を噛みしめているころに、匂宮は「恋しい、たまらない」と訴える相手を探していました。

 身近に中の宮がいます。この人は事情を承知していて、「『かわいそうに(原文・あはれ)』などとおっしゃる」(これは浮舟への思いなのでしょう)のですが、まだ日の浅いおつきあいなので、ひととおりの思いにすぎず、匂宮は満足できる反応が得られません。それに結局は浮気の相手の話ですから、「気が引け」本音の話などとてもできません。いや、本当はこちらが先にありそうなくらいです。私たちから見れば、第三夫人を亡くした悲しみを第二夫人に訴えるなどということは、関係の深浅の問題ではなく、できなさそうに思われます。かの源氏でさえ、紫の上に他の夫人たちの話をよくしましたが、、それでもその人たちへの未練を語ったことはありませんでした。

ともあれ、匂宮は気持ちをぶちまけることのできる相手として、あの宇治にいた侍従を呼び寄せようと思い立ちます。彼女は今、宇治を離れて都へ来て、ひっそりと暮らしていたのでしたが、かねて宮への好意は満々な様子でしたから、宮としては安心して甘えることができそうに思ったのでしょう。

ところが侍従は思ったよりも賢かったようです。宇治での不思議な事件は多くの女房たちの知るところであり、自分が宮のお側に上がれば、いずれ自分が宇治にいたことも明らかになって何かと詮索されずにはすまず、また浮舟に匂宮を薦めたことのある彼女としては中の宮には顔向けできない気持ちがあるでしょうから、やはり「あのことが絡んでいるところでは、聞きにくいこともあろう」と考えて、宮の求めをお断りしたのでした。

 彼女は、少なくとも直接匂宮と接触のあるところではなく、「しかし、匂宮もよく出入りする」(『評釈』)中宮のところに「縁故を求めて」出仕することにしました。表向き、匂宮とは関係ない形にした、ということのようです。》

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第一段 女一の宮から妹二の宮への手紙

【現代語訳】

 その後、姫宮の御方から、二の宮にお便りがあったのだった。ご筆跡などがたいそうかわいらしそうなのを見るにつけ、実に嬉しく、

「こうしてこそ、もっと早く見るべきであった」とお思いになる。
 いろいろ趣のある絵をたくさん、大宮も差し上げあそばした。大将殿は、それ以上に趣のある絵を集めて差し上げなさる。芹川の大将の物語のとほ君が女一の宮に懸想をしている秋の夕暮に思いあまって出かけて行った絵で、趣深く描けているのを、とてもよくわが身に思い当たるのである。

「これほどまで思い靡いてくださる方があったら」と思うわが身が残念である。
「 荻の葉に露吹きむすぶ秋風もゆふべぞわきて身にはしみける

(荻の葉に露が結んでいる上を吹く秋風も夕方には特に身にしみて感じられる)」
と書き添えたく思うが、そのようなほんの少しの様子でも漏れたりしたら、とてもやっかいそうな世の中であるから、ちょっとしたことも、匂わすことはできない。このようにいろいろと何やかやと物思いを重ねた果てには、

「亡き大君が生きていらっしゃったら、どうして他の女に心を傾けたりしようか、今上の帝の内親王を賜うといっても、頂戴はしなかったろうに。また、そのように思う女がいるとお耳にあそばしながら、このようなことはなかったろうが、やはり情けなく、私の心をお乱しになった宇治の橋姫であることだ」と思い余ると、また宮の上のことが思われて、恋しく切なく、どうにもしようがないのが、馬鹿らしく思われるまでに悔しい

この方に思い悩んで、その次には、呆れたかたちで亡くなった人が、とても思慮浅く、思いとどまるところのなかった軽率さを思いながら、やはり大変なことになったと、思いつめていたということや、私の態度がいつもと違っていると良心の呵責に苛まれて嘆き沈んでいた様子を、お聞きになったことも思い出されて、
「重々しい方としての扱いでなく、ただ気安くかわいらしい話相手としておこうと思った点では、実にかわいらしい人であったのに、いろいろ考えると、宮をお恨み申すまい。女をもひどいと思うまい。ただわが人生が世間ずれしていない失敗なのだ」などと、物思いにお耽りになる時々が多かった。

 

《薫が中宮にお願いしていた、女一の宮から二の宮(薫の正室)へのお慰めの手紙が届きました。薫は大喜びで先に立って(とは書いてありませんが)見ます。あわせて中宮からもたくさんの絵が届けられました。「芹川の大将」はその絵物語の話なのだそうです。その中の「とほ君」という人と女一の宮が相愛のようで、自分もそのようであればと思い、その絵の一枚に自分の思いを歌にして書き添えたく思うのですが、思いとどまります。そう言えば、『更級日記』に「とほぎみ、せりかわ、しらら、あさうづ」といった物語を叔母からもらった、とありましたが、「とほぎみ、せりかわ」は別の物語ではないようです。

さて、薫はそんなふうに女一の宮を思い続けているのですが、そういう薫の女一の宮への気持ちを『評釈』は、「薫は、浮舟を失った悲しみに耐えかね、その思いを女一の宮への思慕で紛らわそうとした」と言いますが、薫にそういう自覚的意志はなかったのであって、心に空いた空洞にかつてから抱いていた思慕が目を覚まし膨らんだ、というところのように見えます。

しかし、そうは言っても、その方は皇女であり、かつほかならぬ彼の正室の姉なので、「ほんの少しの様子でも漏らしたら、とてもやっかい」なことになるのは間違いありませんから、おくびにも出せないことです。

 そんなつらい思いをしなくてはならないのも、そもそもは大君が願いを聞き入れてくれなかったがためと思うと、「宇治の橋姫」が恨めしく、改めて中の宮への思いが募ります、というのですが、恋しさ余って憎さ百倍とは聞いたことがありますが、恨めしさ余って恋しさ百倍とは、分るような分からないような。

 さりとて中の宮はと言えば、これまたれっきとした匂宮夫人、古く三橋美智也ではありませんが、今更どうにもならないさだめ、とあれば、また思いはぐるりと一周して浮舟に帰り、「ただわが人生が世間ずれしていない失敗なのだ」と、結局は自分を責めることになる薫なのでした。

 このあたり、『評釈』は「自制に自制を重ねた人の、どうしようもない悲しさ、狂おしさである」というのですが、確かに「恋しく切なく、どうにもしようがないのが、馬鹿らしく思われるまでに悔しい」というような言葉はあるものの、どうも薫の思いは、むしろ焦点なく、四人の女性の上をふわふわと浮遊しているように思われます。

実は読む方も、まだそのほかに小宰相のことも残っているような気がして、この話は一体どこに向かって進んでいるのかよく分からず、ただ定めなく読み進めているような感じになるのですが、どうなのでしょうか。》

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