【現代語訳】
「容貌などもとても優美であろう」と、見たい感じがするのを、
「この人が、また例によってあの方のお心を掻き乱す種になるにちがいなかろうと興味深くもあるが、めったにいないものだ」とも思っていらっしゃった。
「この方こそは、貴いご身分の父宮が大切にお世話して成人させなさった姫君だが、また、この程度の人が、多くいるのだろう。
不思議であったことは、あの聖の周りに、宇治の山里に育った姫君たちで、難のある方はいなかったことだ。この、頼りない、軽率だなどと思われる女も、このようにちょっと会った感じでは、たいそう風情があったものだ」と、何事につけても、ただあのご一族の方をお思い出しになるのであった。
不思議と、またつらい縁であった一つ一つを、つくづくと思い続けて物思いにふけっていらっしゃる夕暮に、蜻蛉が頼りなさそうに飛び交っているのを、
「 ありと見て手にはとられず見ればまたゆくへもしらず消えし蜻蛉
(そこにいると見ても、手に取ることのできない、見えたと思うとまた行く方知れ
ず消えてしまった蜻蛉だ)
あるのか、ないのか」と、例によって、独り言をおっしゃった、とか。
《それでも薫にとってはやはりいくらか気にかかる様子の人ですので、匂宮は、この人にもまた手を出すのであろうか、そこでまたいろいろなことが起こるのだろうなどと思いやってみながら、一方で、本当にきちんとした人は「めったにいないものだ」と思ってもみます。
この方は生まれ育ちは申し分のない方だが、それでも女性としてこのくらいの人は他にもいそうで、それにつけても不思議なのは、宇治の姉妹が、さしたる立場ではなかった宮の娘で山家育ちでありながら、どこといって難のない女性であり、またちょっと見「頼りない、軽率だなどと思われ」た浮舟までも、それなりに魅力的な人だったことだ、…。
彼は改めて三人の姉妹を振り返ります。その誰もが、今やすでに彼の手の届かぬ人となってしまいました。私の心をかき乱して消えてしまったあの人たちは、いったいなんだったのだろう。
彼が二十二歳で姉妹を垣間見た時から、今日までの六年間の出来事が幻のように思われてきます。
ぼんやりと物思いに耽る薫の前を、蜻蛉が、あるかあらぬかのかぼそさで舞います。
『光る』が「丸谷・『ありと見て…』は『源氏物語』の中でもかなりいい歌ですね」「大野・いい歌です。定家ばりですよ。ひょっとすると定家はこれに学んで『須磨の蜑の袖に吹きこす塩風のなるとはすれど手にもたまらず』と詠んだのかもしれない。定家が好きだったんじゃないでしょうか」と言い、続けて次のように解説します、実は私にはよく分からないままに、なのですが、…。
「大野・私は一生かかってあの女の子をいい子だと思った。しかし、あれはたいした女でなかった。それにひかれて私は生きてきたが、どこを見ても、みんなあるかなきかである、とここで言っているんです。男は男なりに、女に対して誠意をもたないながら男なりの不幸せを持っている。女が不幸せであることは誰にも分かる。しかし男は、すぐさまあれこれの女に気を散らしながら、しかも男もそれなりに幸せではない。この世は『ありと見て手には…』のごときものであると言ったと」。
この蜻蛉の巻は、薫の都における平均的な日常を描くことで、橋姫から浮舟の巻に至る七巻の中の彼の三姉妹との交渉が、かげろうのように淡い幻であったのだと思い至らせる役割を担っている、ということなのでしょうか。
仮にそれはそうだとして、では三姉妹にとって、その七巻はどういう意味を持っているのか、やはり物語の本線はそちらにあると考えるのがいいようです。かくしてこの巻は茫洋と終わって、その本題に帰って行きます。
この物語は、あくまで女性の物語で、男は、言ってしまえば狂言回しに過ぎないのです。》