源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

巻五十二 蜻蛉

第九段 薫、宮の君を訪ねる~その2

【現代語訳】

「容貌などもとても優美であろう」と、見たい感じがするのを、

「この人が、また例によってあの方のお心を掻き乱す種になるにちがいなかろうと興味深くもあるが、めったにいないものだ」とも思っていらっしゃった。
「この方こそは、貴いご身分の父宮が大切にお世話して成人させなさった姫君だが、また、この程度の人が、多くいるのだろう。

不思議であったことは、あの聖の周りに、宇治の山里に育った姫君たちで、難のある方はいなかったことだ。この、頼りない、軽率だなどと思われる女も、このようにちょっと会った感じでは、たいそう風情があったものだ」と、何事につけても、ただあのご一族の方をお思い出しになるのであった。

不思議と、またつらい縁であった一つ一つを、つくづくと思い続けて物思いにふけっていらっしゃる夕暮に、蜻蛉が頼りなさそうに飛び交っているのを、
「 ありと見て手にはとられず見ればまたゆくへもしらず消えし蜻蛉

(そこにいると見ても、手に取ることのできない、見えたと思うとまた行く方知れ

ず消えてしまった蜻蛉だ)
 あるのか、ないのか」と、例によって、独り言をおっしゃった、とか。

 

《それでも薫にとってはやはりいくらか気にかかる様子の人ですので、匂宮は、この人にもまた手を出すのであろうか、そこでまたいろいろなことが起こるのだろうなどと思いやってみながら、一方で、本当にきちんとした人は「めったにいないものだ」と思ってもみます。

 この方は生まれ育ちは申し分のない方だが、それでも女性としてこのくらいの人は他にもいそうで、それにつけても不思議なのは、宇治の姉妹が、さしたる立場ではなかった宮の娘で山家育ちでありながら、どこといって難のない女性であり、またちょっと見「頼りない、軽率だなどと思われ」た浮舟までも、それなりに魅力的な人だったことだ、…。

 彼は改めて三人の姉妹を振り返ります。その誰もが、今やすでに彼の手の届かぬ人となってしまいました。私の心をかき乱して消えてしまったあの人たちは、いったいなんだったのだろう。

彼が二十二歳で姉妹を垣間見た時から、今日までの六年間の出来事が幻のように思われてきます。

 ぼんやりと物思いに耽る薫の前を、蜻蛉が、あるかあらぬかのかぼそさで舞います。

 『光る』が「丸谷・『ありと見て…』は『源氏物語』の中でもかなりいい歌ですね」「大野・いい歌です。定家ばりですよ。ひょっとすると定家はこれに学んで『須磨の蜑の袖に吹きこす塩風のなるとはすれど手にもたまらず』と詠んだのかもしれない。定家が好きだったんじゃないでしょうか」と言い、続けて次のように解説します、実は私にはよく分からないままに、なのですが、…。

「大野・私は一生かかってあの女の子をいい子だと思った。しかし、あれはたいした女でなかった。それにひかれて私は生きてきたが、どこを見ても、みんなあるかなきかである、とここで言っているんです。男は男なりに、女に対して誠意をもたないながら男なりの不幸せを持っている。女が不幸せであることは誰にも分かる。しかし男は、すぐさまあれこれの女に気を散らしながら、しかも男もそれなりに幸せではない。この世は『ありと見て手には…』のごときものであると言ったと」。

 この蜻蛉の巻は、薫の都における平均的な日常を描くことで、橋姫から浮舟の巻に至る七巻の中の彼の三姉妹との交渉が、かげろうのように淡い幻であったのだと思い至らせる役割を担っている、ということなのでしょうか。

 仮にそれはそうだとして、では三姉妹にとって、その七巻はどういう意味を持っているのか、やはり物語の本線はそちらにあると考えるのがいいようです。かくしてこの巻は茫洋と終わって、その本題に帰って行きます。
 この物語は、あくまで女性の物語で、男は、言ってしまえば狂言回しに過ぎないのです。

第八段 薫、宮の君を訪ねる~その1

【現代語訳】

 宮の君は、こちらの西の対にお部屋を持っていた。若い女房たちが大勢いる様子で、月を賞美している。
「なんと、お気の毒に、こちらも同じことであるのに」とお思い出し申し上げて、

「父親王が生前に好意をお寄せになったのだから」と口実をつけて、そちらにおいでになった。童女がかわいらしい宿直姿で、二、三人出て来てあちこち歩いたりしていた。見つけて入っていく様子なども、恥ずかしそうだ。これが世間普通のことだと思う。
 南面の隅の間に近寄って、ちょっと咳払いをなさると、少し大人めいた女房が出て来た。
「人知れず心をお寄せ申していますなどと申しますと、かえって、誰もが言い古してきたような言葉を、馴れない感じで真似をしているようでございます。本気で、『ことよりほか(それとは別の言葉)』を探さずにおられません」とおっしゃると、宮の君にも言い伝えず、利口ぶって、
「まことに思いもかけなかったご境遇につけても、故父宮がお考え申し上げていらっしゃった事などが、思い出されまして。このように、折々にふれてお掛け申してくださっていると聞きます蔭ながらのお言葉も、お喜び申し上げていらっしゃるようです」と言う。

「世間並の扱いのようで、失礼ではないか」と気が進まないので、
もともとお見捨てになられない間柄としてよりも、今はそれ以上に、しかるべきことにつけても、お声をかけてくださったら嬉しく存じます。よそよそしく人を介してなどでしたら、とても」とおっしゃるので、

「おっしゃるとおりだ」と、あわてて気づいて、宮の君を揺さぶるらしいので、
「『松も昔の(今では誰も私を知る人はいないだろう)』とばかりに、つい物思いに沈んでしまいますにつけても、もとからの縁などとおっしゃる事は、ほんとうに頼もしく存じられます」と、人を介してというのでもない言い方でおっしゃる声は、まことに若々しく愛嬌があって、やさしい感じが具わっていた。

「ただ普通のこのような局住まいをする人と思えば、とても趣があるにちがいないが、ただ今では、どうしてほんのわずかでも、人に声を聞かせてよいという立場に馴れておしまいになったのだろう」と、何となく気になる。

 

《「宮の君」は式部卿の宮の姫君、父宮が亡くなって女一の宮のところに出仕することになった人(第三段)です。薫はこちらに来て、その人がいることをふと思い出したということでしょうか、「お気の毒に」と思って、以前父宮から好意を寄せていただき、この人との縁談もいただいた縁で(ということを自分への「口実」をして)、声をすることにしました。

 行ってみると童女が見つけて「恥ずかしそう」に部屋に入ってしまいます。さっき来た折に女房たちが「簾を下ろしなどもせず」にくつろいでいた(前段)のと大違いの嗜みだと感心しながら、来た合図の咳ばらいをすると、女房が出てきました。ここでもそれなりに気の利いた挨拶です。

 すると女房が「利口ぶって」、主人に伝えないままに自分で返事をしました。悪い返事ではありませんが、薫としては女房への「世間並」の色好みの声かけとして扱われたと感じたようで、機嫌を損ねて苦情を言います。「もともとお見捨てになられない間柄」は、薫と従妹に当たることを言うようです。

 驚いた女房が慌てて主人にお出ましを願いますと、宮の君は、「人を介してというのでもない言い方でおっしゃる(原文・人伝ともなく言ひなしたまへる)」のでした(これは、このままでは、実際には人を介したのだが、そうではなく聞こえるように言った、というふうに読めると思いますが、後を読むと、やはり直接自分で答えたのであるようです)が、それは「まことに若々しく愛嬌があって、やさしい感じ」で、つまり大変いい感じでした。

 しかし薫はこれがまた気に入りません。いくら宮仕えの身でも、訪ねてきた男にまったく直接応対するというのは、元宮姫として「馴れておしまいになっ」てはならないことだ、と思うのです。

 自分で「よそよそしく人を介してなどでしたら、とても(お話しできません)」と言っておきながら、変なのですが、しかしそこは駆け引きの話で、そういう注文をいかにうまく受け流すかといところに、あるいは逆にやり込めるかするのが、女性の嗜みであるのでしょう。

 『評釈』が面白い鑑賞をしています。女房が「利口ぶって」応対したり、薫に言われてすぐに君を出したのは「早くご運が向くようにという忠誠心」だったのだろう、「その女房に動かされて、そのまま動く人は、それだけの女君であろう。おそらく宮の君は、かれんでうつくしいというだけのひとなのだろう」。そういうことかもしれません。

しかしそれはともかく、ここまで小宰相、女一の宮、そしてこの宮の君と三人の女性を動員して、いったい何を物語ろうとしているのか、やはりどうも理解ができません。》

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第七段 薫と中将の御許、遊仙窟の問答

【現代語訳】

 あの西の渡殿を、先日と同じようにわざわざいらっしゃったのも変なことだ。姫宮は夜はあちらにお渡りあそばしたので、女房たちが月を見ようとしてこの渡殿でくつろいで話をしているところであった。箏の琴をたいそうやさしく弾いている爪音が趣き深く聞こえる。思いがけないところにお寄りになって、
「どうして、このように『ねたまし顔に(人を焦らすように)』お弾きになるのですか」とおっしゃるので、皆驚いたにちがいないが、少し巻き上げた簾を下ろしなどもせず、起き上がって、
「似ている『このかみ(兄・美男の方)』もおりませんのに」と答える声は、中将のおもととか言った人なのであった。
「私こそが、御母方の叔父ですよ」と、戯れをおっしゃって、
「いつものように、あちらにいらっしゃるようですね。どんなことを、この里下がりのお暮しの中でなさっておいでですか」などと、つまらないことをお尋ねになる。
「どちらにいらっしゃっても、特別何も。ただ、このような事をしてお過ごしでいらっしゃるようです」と言うと、

「結構なご身分の方だ」と思うと、わけもない溜息をうっかりしてしまったのも、

「変だと思い寄る人があっては」と紛らわすために、差し出した和琴をただそのまま掻き鳴らしなさる。律の調べは不思議と季節に合うと聞こえる音なので、聞きにくくもないが、最後までお弾きにならないのを、かえって気がもめると、熱心な人は死ぬほど残念がる。
「私の母宮もひけをおとりになる方ではない。后腹と申し上げる程の相違だが、それぞれの父帝が大切になさる様子に、違いはないのだ。が、やはり、こちらのご様子は、たいそう格別な感じがするのが不思議なことだ。明石の浦は奥ゆかしい所だ」などと思い続けることの中で、

「自分の宿世は、とてもこの上ないものであった。その上に、並べて頂戴したら」と思うのは、とても難しいことだ。

 

《東の渡殿にいた薫は、今度は西の渡殿にやって来ました。作者自身が、ここにやって来た理由について「変なことだ」と言いますが、その前に、東へは何をしに行ったのだったかも、よく分からないままです。たまたま「開いている戸口に女房たちが大勢い」た(第五段)から、ということなのでしょうか。

 西へ来たのは、それでも一応は、憧れの女一の宮のいるところへ行きたかったのではないかと思うことができます。しかし残念ながら姫宮は「あちら」(母・中宮のもとでお寝みになる・『集成』)に行ってしまっていました。

 女房たちが月を見ようと「渡殿でくつろいで」います。その中の箏の琴を弾いていた一人に薫は声を掛けました。「人を焦らすようにお弾きになる」というのは、中国の小説を踏まえた言葉で、「姿形を見せてほしい、の意」(『集成』)なのだそうです。東へ行った時とはずいぶん違って、それなりに洒落た語りかけです。女房との間で、その小説『遊仙窟』を頭に置きながらの掛け合いがありましたが、ところが最後に姫宮についての「つまらない(原文・あじきなき)」質問をしてしまいました。

 どうもこのあたりの薫は変です。自信を無くしてしまったのでしょうか。匂宮と並んで当代きっての貴公子のはずだったのですが、何かと焦点が定まらない感じです。

「つまらないことを尋ね」ながら、彼は姫宮を思って、ついため息をついてしまい、それを隠そうとして和琴をつま弾き、しかしそれも途中でやめて、また姫宮を思い、「明石中宮ご一族の異数の幸いを思」い(『集成』)、自分も、今の正室・女二の宮があるうえにその女一の宮をも得られないかと思ったりします。思えば、小宰相の話も立ち消えになったままです。

 実は、そもそもこの蜻蛉の巻は諸家に評判が悪いようで、例えば『構想と鑑賞』は「そこ(「後段」・第五章から後)に展開させる世界は、宇治の世界とは関係のない宮廷後宮の女性の世界であり、緊張も滋味も新らし味もない、低調・散漫な退屈な世界である」と酷評していますし、『光る』も「丸谷・『蜻蛉』は、あんまり面白くないですね。」「大野・面白くない。前半はまだいいけど、後半にくるとね。」と言います。

 どうも、このあたり、何を書こうとしているのか、よく分からなくなります。

 それについて、『構想と鑑賞』は「(浮舟の大きな事件の後)、二人(匂宮と薫)の心が次第に平静に戻って、日常的な宮廷生活を営むようになったことを描いている」と言い、『光る』も「退屈で凡庸でうんざりするようなごたごたした、われわれが現実の生活で感じている時間」を書いて、次の出来事へつなごうとしたのだ、と言います。

いずれもが、それが本当に「退屈で凡庸な」巻になってしまったのだ、というように考えているようで、『光る』がそのことについて、「丸谷・現実の時間と小説の時間との質が違うということを紫式部はわからないで書いている」のだと言います。》

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第六段 薫、断腸の秋の思い

【現代語訳】

 東の高欄に寄り掛かって、夕日の陰るにつれて、花が咲き乱れている御前の草むらをお眺めになる。ひとえにしみじみと思われて、「中について腸断ゆるは秋の天(四季の中でも断腸の思いがするのは秋の空だ)」という詩句を、たいそう忍びやかに口にしながら座っていらっしゃる。

先程の衣ずれの音が、はっきり聞こえる感じがして、母屋の襖障子から通ってあちらに入って行くようである。

宮が歩いていらっしゃって、
「こちらからあちらへ参ったのは誰か」とお尋ねになると、
「あちらの御方の中将の君です」と申し上げる声が聞こえる。
「何ともけしからぬ振る舞いだ。誰だろうかと、ちょっとでも関心を持つ人に、すぐにこのように配慮もなく名を教えてしまうとは」と気の毒で、この宮に皆が馴れ馴れしくお思い申し上げているようなのも残念だ。
無遠慮につっこんだお振る舞いに、女はきっとお負け申してしまうのだろう。私は、まことに残念なことに、こちらのご一族には、悔しくも残念なことばかりだ。何とかして、ここの女房の中でも珍しいような人で、例によって熱心に夢中になっていらっしゃる人を口説き落として、自分が経験したように、せめて穏やかならぬこととだけでも思わせ申し上げたい。ほんとうに物事の分かる人なら、私の方に寄って来るはずだ。けれども難しいことだな。人の心というものは」と思うにつけても、対の御方が、あのお振る舞いを身分にふさわしくないものとお思い申し上げて、まことに不都合な関係になって行くのを、その世間の評判をつらいと思いながらも、やはりすげなくはできない者とお分かりになってくださるのは、世にもまれな胸をうつことである。
「そのような気立ての方は、大勢の中にいるのだろうか。親しく出入りして深く見ていないので分からないことだ。寝覚めがちに所在ない折から、少しは好色も習ってみたいものだ」などと思うが、今はやはりふさわしくない。

 

《薫は「襖障子のところで後向きしていた女房」(第五段1節)に道を譲って、なおしばし髙欄に寄りかかって庭を眺め、物思いに耽る格好です。女房が「衣ずれの音」をさせて中宮の所に去りて、入れ替わりに匂宮がやって来ました。

 来るなり、宮が、途中行き違った女房の名を尋ねます(ということは、宮には薫がいるところが見えないということになります)と、その場の女房が「中将の君」と答えます。それを聞いて薫はショックを受けました。

まず第一に、女性の名を「無造作に」男性に教えるとは、何とはしたないことか。次に、そういうことになったのは、匂宮の「無遠慮につっこんだお振る舞い」に負けたからだろうが、自分にはできないことで、残念。こういう宮のやり方を見ると、浮舟が口説き落とされたのも自然なことかもしれない、できれば今度は自分が宮に同じことをして、宮の鼻を明かしたいものだが、…。

いささか子供っぽい感情ですが、慎重派が行動派に対してしばしば抱くもので、気持ちはよく分かります。

「こちらのご一族には、…」は、「匂宮には後れを取り、女一の宮には思いの叶わぬことをいう」(『集成』)のだそうです。

 思えば匂宮が浮舟に執心したのも、薫が現世に超然としているような顔をしながら、一方で浮舟を囲っていることを知って、薫の鼻を明かしてやろうと考えた(浮舟の巻第一章第七段)ことが大きな動機になっていました。

 そして宮はすぐにそれを実行したのですが、薫の方は考えただけで、「けれども難しいことだな。人の心というものは」、「ほんとうに物事の分かる人」はなかなかいないものだ、と、初めのところで止まってしまいます。

 自分のことを分かってくれていそうなのは、「対の御方」(中の宮)だけのようだ。あの方は、匂宮の浮気な振る舞いを「身分にふさわしくない」と考え、私との間が「不都合な関係になって行く」(つまり、宮から心が離れる分、余計に親密になって行く、ということでしょうか)のだが、それは世間で変なふうに噂されかねないことなのに、それを厭わずに、つながりを保って下さっているのはありがたいことだが、そういう女性が匂宮の周りにいないだろうか、物思いすることも多く「寝覚めがち」で所在ないので、一つ好色に動いてみようか、…。

しかし、やはり「今はやはりふさわしくない」とブレーキがかかります。例の、自然でない、ということ(第五章第五段)でしょうか。

小見出しの「断腸の思い」は、初めの薫が口にした詩句に拠るのでしょうが、彼のここでの思いには少々大袈裟です。》

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第五段 薫、弁の御許らと和歌を詠み合う~その1

【現代語訳】

 東の渡殿で開いている戸口に女房たちが大勢いて、話などをひっそりとしている所にいらっしゃって、
「私をこそ、女房は親しくお思いになるべきではありませんか。女でさえこのように気のおけない人はいません。それでもためになることを、教えて上げられることもあります。だんだんとお分かりになりそうですから、とても嬉しいです」とおっしゃるので、とても皆答えにくく思っている。中で、弁のおもとといって、物馴れた年配の女房が、
「いったいに親しく思い申し上げるべき理由のない者こそ、恥じ入らないでいるのでしょう。物事はかえってそのようなものです。必ずしもその理由がないことを承知したうえで、くつろいでお話申し上げるというのでもございませんが、これほど厚かましさが身についている私が引き受けないのも、見苦しかろうと思いまして」と申し上げると、
「恥じる理由はあるまいと決めてしまっていらっしゃるのが、残念なことです」などと、おっしゃりながら見ると、唐衣は脱いで押しやって、くつろいで手習いをしていたのであろう、硯の蓋の上に置いて、頼りなさそうな花の枝先を手折って弄んでいた、と見える。

ある者は几帳のある所にすべり隠れ、ある者は背を向けて押し開けてある妻戸の方に隠れながら座っている、その髪の恰好を興趣あると一回り御覧になって、硯を引き寄せて、
「 女郎花みだるる野辺にまじるともつゆのあだ名をわれにかけめや

(女郎花が咲き乱れている野辺に入り込んでも、その花の露に濡れたという噂を私に

お立てになれましょうか)
 どなたも気を許してくださらないので」と、ちょうどこの襖障子のところで後向きしていた女房にお見せになると、身動きもせずに落ち着いて、すぐさま、
「 花といへば名こそあだなれ女郎花なべての露にみだれやはする

(花と申せば名前から色っぽく聞こえますが、女郎花はそこらの露に靡いたり濡れた

りはしません)」
と書いた筆跡は、ほんの一首ながら風情があってどこといって難がないので、誰なのだろうとお思いになる。今参上しようとした途中で、道をふさがれてとどまっていた者らしい、と思う。

 

《母と息子の対話の場から席を外した薫は、女房たちがたむろしているところを覗きました。こんな時にしゃれた言葉がほしいのですが、そうでなくてもこちらを「気のおけるうちとけにくい方」(前段)と思っている相手に対して、ここの言葉は何とも無粋で、「皆答えにくく思っ」たのはまったく無理のないことに思われます。

 さいわい「物慣れた」女房がいて、相手をしてくれました。もっともその応対もずいぶん理屈っぽく、しかもちょっと意味の分かりにくいものです。

「親しく思い申し上げるべき…」は、あなたのことを何とも思わない人なら、気楽にご返事できるでしょうが、ということで、「薫には、皆が心を寄せているので、気が引けて物が言えないのだ、と取りなす」のだと『集成』が言います。

「必ずしもその理由が…」は、だからと言って、私がお相手するのは、私があなたに心をお寄せしていないからというのではないが、まあ、私くらいの年寄りがお相手しなければ、誰もできないようだから、ということでしょう。

 『評釈』が、「(薫が)色気抜きのお付合いを求めて気楽な者として、皆さんと仲よくしたい、といったことを、仲よくしたい(訳では「親しく」、原文・「むつましく」)の意を詮索されて、逆手に取られたのである」と言います。これまたよく分からないので困るのですが、薫が普通に仲よくしたいと言ったのを、弁は色恋の意味にして、みんながあなたに思いを寄せているのだが、私はもう年でその相手にはならないだろうと言ったということで、そこで薫は「恥じる理由はあるまいと…」、つまり、そんなことはありません、あなたも十分素敵ですよ、と応じた、ということになるのでしょうか。

 言いながら、見ると彼女は「唐衣は脱いで押しやって」とあります。これがまた、『集成』は「うちくつろいだ体」と言っていて、それは当然ですが、くつろいだ格好で手習をしながら花を弄んでいたというのが、ここでどういう意味があるのか、よく分かりません。

 そしてほかの女房たちは、あちこちにまるで隠れん坊をしているようで、それも頭隠して尻隠さずの反対のような恰好をしているようなのです。どうも、中宮付きという、バリバリの女房のする振る舞いではないような気がします。

 それを「興趣ある(原文・をかし)と一回り御覧になっ」たというのも、どこに興趣あるのかという気がしますが、後ろから見ることになって、普通に前からでは少ししか見えない髪が、全体の姿としてそのまま長く見えたことを言っているのでしょうか。

「美しい方が大勢いられる所に参りましても、かりにも私が浮気だという評判をお立てになれましょうか、私は至極まじめな男なのです」(『集成』)。

詠み掛けた相手の女房は誰か分からないのですが、当意即妙、あら、女だって誰にでも靡くというわけではございませんことよと、すらりと歌を返しました。さすがは中宮のお側の女房です。

 とはいうものの、どうも話の意味のよく分からない段です。》

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