【現代語訳】
夜が更けて、みな退出なさった。大臣は、宮を先にお立て申し上げになって、大勢のご子息の上達部や若君たちを引き連れて、あちらにお渡りになった。この殿は遅れてお出になる。
随身がいわくありげな顔をしていたのを、何かあるとお思いになったので、御前駆たちが引き下がって松明を灯すころに、随身を呼び寄せなさる。
「先程申したことは、何事か」とお尋ねになる。
「今朝、あの宇治で、出雲権守時方朝臣のもとに仕えている男が、紫の薄様で、桜の枝に付けた手紙を、西の妻戸に近寄って女房に渡しました。それを拝見しまして、これこれしかじかと尋ねましたところ、返事を後先違えまして、嘘のような返事を申しましたので、どうしてそう申すのかと、童を使って後をつけさせましたところ、兵部卿宮邸に参りまして、式部少輔道定朝臣に、その返事を手渡しました」と申しあげる。
君は、変だとお思いになって、
「その返事は、どのようにして渡したのか」
「それは見ておりません。別の方から出しました。下人の申したことでは、赤い色の紙で、とても美しいもの、と申しました」と申し上げる。お考え合わせになると、ぴったりである。そこまで見届けさせたのを、気が利いているとお思いになるが、人びとが近くにいるので、詳しくはおっしゃらない。
《中宮の具合も問題なさそうだということで、それぞれが帰って行きました。匂宮は、夕霧一党に引っ張られて、六の君の所に連れていかれたようです。
後に薫だけが六条院に残った、ということでしょうか、従者が帰り支度をしている合間に、あの随身を呼び寄せて、言いたげだった話を質します。
随身は、やっと出番が回って来たと、かねての様子を話しました。「桜の枝に付けた手紙」は匂宮が送った手紙です。
「その返事は、どのようにして渡したのか(原文・その返りことは、いかやうにしてか出だしつる)」という質問は、どういう意味か、よく分かりません。『集成』は「紙の色、体裁などを尋ねる」と言います。そういう質問とは思えない言い方ですが、そうだとすれば、さっき匂宮が手にしていた「紅の薄様」(前段)かどうかを確かめようとしたということになります。
随身は自分では見ていませんが、「下人」(後をつけさせた童のことのようです)から「赤い色の紙で、とても美しいもの」と報告を受けていました。二条院内でのやり取りについて、その童がどうしてそこまで見ることができるのか、という疑問が残りますが、見えたものは仕方がありません。
薫は、さてはあれかと思い当たります。しかし、周りに人がいますから、様々な思いをかみ殺して、車に乗ります。
なお、「出雲権守時方朝臣」とか「式部少輔道定朝臣」とか、失礼ながら話をつなぐために出てきたにすぎない人物に、ここに至ってずいぶん具体的な呼び方が与えられます。十九世紀自然主義文学観から言えば、物語の中で名前が与えられるには、それだけの人格を持たなければならないわけで、そういう意味では、ここの場合、名を与えるなら、むしろ随身の方が先であるべきではないか、と思われますが、どういう感覚なのでしょうか。
ひょっとして、随身よりも「出雲権守」や「式部少輔」の方が地位が上だから、ということでしょうか。それでいくと、あの常陸介は、それなりに出自や経歴が語られていました(東屋の巻頭)が、ついに名前は与えられていませんでした。
また、「道定」については、ここで初めて名が出てくるのですが、こうして人物がいくらかの役割を果たした後で、急に名前で呼ばれる、という書き方について『評釈』が「こういうふうにして、次第にその人物について知ってゆく、それが実際のことであったろう」と言いますが、普通には、物語の論理ではないでしょうし、ここでもそう種明かし的に語る意味は特にはなかろうという気がしますが、どうでしょうか。》