源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第七章 薫の物語(三)

第四段 薫、浮舟の件を弁の尼に尋ねる

【現代語訳】

 そうして、何かのきっかけで、あの形代のことを言い出しなさった。
京に、近ごろおりますかどうかは存じません。それは人づてにお聞きした人の話のようです。故宮がまだこのような山里の暮らしもなさらず、故北の方がお亡くなりになって間もなかったころ、中将の君と言ってお仕えしていた上臈で気立てなども悪くはなかった人を、たいそう密かに、かりそめに情けをお交わしになったところ、知る人もございませんでしたが、女の子を産みましたのを、あるいはご自分のお子であろうかとお思いになることがありましたので、あいにくなことに厄介で迷惑なようにお思いになって、二度とお逢いになることもありませんでした。
 何か、そのことにお懲りになって、そのままどうやら聖におなりあそばしたので、身の置き所もなく思ってお仕えもできなくなってしまったあと、陸奥国の守の妻となったところ、先年上京して、その姫君も無事でいらっしゃるということを、こちらの方にもそれとなく申して来ましたが、お聞きつけになって、決してそのような便りなどしてはならぬときつくお言いつけになりましたので、がっかりして嘆いていました。
 そうして再び常陸の国司になって下りましたが、ここ数年、噂にもならずにいらっしゃいましたところ、この春上京して、あちらの宮にはお伺い申したと、耳にしました。
 その君のお歳は、二十歳くらいにおなりになったでしょう。とてもかわいらしくお育ちになったのがいとおしいなどと、近頃は、手紙にまで書き綴ってございましたようで」と申し上げる。
 詳しくはっきりとお聞きになって、

「それでは、本当であったのだ。会ってみたいものだ」と思う気持ちが出てきた。
「故姫君のご様子に少しでも似ているような人は、知らない国までも探し求めたい気持ちだが、お子とお認めにならなかったけれども近い人であるようだ。わざわざではなくても、こちらの方に便りを寄こすことがあったおりには、こう言っていたとお伝えください」などといった程度に言っておかれる。
「母君は、故北の方の姪です。弁も縁続きの間柄でございますが、その当時は別の所におりまして、親しくはお会いしていません。
 最近、京から、大輔のところから申してきましたことには、あの姫君が、何とか父宮のお墓にだけでも詣でたいと、おっしゃっているそうだ、そのようなおつもりでいよ、などとございましたが、まだここには、特に便りはないようです。そのうちそうなったら、そのような機会に、この仰せ言を伝えましょう」と申し上げる。

 

《初めの「京に、近ごろ…」は、一読、薫の「言い出し」た話のような続き方ですが、弁の尼の「形代」の人についての情報提供です。結構詳しく知っているのでした。

 ここで語られる八の宮は、これまでの彼のイメージを一変させるものです。これまでの彼は、なによりもまず仏道と風雅に生きる俗聖であり、厭世的で心優しい(あるいは気の弱い)人という印象でしたが、ここでは、「深いご夫婦仲のまたとない」(橋姫の巻頭)北の方をなくしてまだ「間もなかったころ」に仕えていた、北の方の姪に当たる女房と「かりそめに情けをお交わしにな」るようなことがあったと言います。

 そればかりか、その相手に子供ができたと聞くや、一転して「厄介で迷惑なようにお思いになって、二度とお逢いになることもありませんでした」と、ずいぶん断固としていて薄情で、しかもそれに懲りて出家してしまいます。

「何か、そのことにお懲りになって」の「何か」の原文は「あいなく」で、『集成』が「そこまでお思いになることもあるまいに、というほどの(弁の)気持ち」と言います。不本意な前半生の後、かろうじて心の支えとしていた妻を亡くし、今度は「かりそめ」の振る舞いがつまらぬ絆しを生じてしまうという自分の悲運に、彼の内心に何かの激情が走ったのでしょうか。そして時が経っての久々の便りにも、二度と便りなど寄こすなと、突っぱねてしまったのでした。

『光る』は「丸谷・この浮舟親子の扱いが出てきたところで、八宮がはじめて『現実の男』という感じがしてくるんです。いままではなんだか生身の男という感じがなかった」と言います。

 もっともそれは八の宮の話で、ここの本題は、彼が生ませた娘の方です。こちらは、母・中将の君(もと、そう呼ばれていた、ということでしょう)とともに上京していて、年のころは「二十歳くらい」、どうやら「とてもかわいらしくお育ちになっ」ているようです。

 大君の縁者だということがはっきりして、薫の心は動きました。早速、いい機会があったら、会う手はずを、と弁に求めます。幸い、その娘は八の宮の墓参を希望していて近々宇治に来ることになりそうだという知らせが、都の中の宮の側にいる大輔の君から入っていました。『評釈』が、「生前は、(父宮から)お目通りは許されなかった。…心やさしい中の君は、…この申し出を許したのだ」と言います。

 薫にも、そして読者にも、新たな展開が期待されます。

 なお、途中、浮舟の上京を「この春上京して」と言っていますが、中の宮は「今年の夏頃、遠い所から出てきて尋ねて来た」と言っていました(第六章第四段)。上京してしばらくしてから、訪ねたのでしょう。》

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第三段 薫、弁の尼と語る

【現代語訳】

「今回こそは見よう」とお思いになって、歩き回って御覧になると、仏像もすべてあのお寺に移してしまったので、尼君の勤行の道具だけがある。たいそう頼りなさそうに住んでいるのを、しみじみと、

「どのようにして暮らしていくのだろう」と御覧になる。
「この寝殿は造り変える必要がある。完成するまで、あちらの渡廊に住まいなさい。京の宮邸にお移しした方がよい物があったら、荘園の人を呼んで、しかるべくはからってください」などと、事務的なことをお話しになる。他ではこれほど年とった者を何かとお世話なさるはずもないが、夜も近くに寝させて、昔話などをおさせになる。故大納言の君のご様子を、聞く人もないので気安くて、たいそう詳細に申し上げる。
「ご臨終におなりになった時に、かわいくお思いだったご様子を気がかりにお思いになっていたご様子などが思い出し申し上げると、このように思いもかけませんでした晩年に、こうしてお目にかかれますのは、ご生前に親しくお仕え申した効が現れたのでしょうと、嬉しくも悲しくも存じられます。情けない長生きで、さまざまなことを拝見して来、思い知りもしてまいりましたことが、とても恥ずかしくつらく思っております。
 中の宮様からも、時々は参上して目通りせよ、無沙汰して籠っているのは、まるきり他人のようだなどと、おっしゃる時々がございますが、忌まわしい身の上で、阿弥陀仏のほかには、お目にかかりたい人はなくなっております」などと申し上げる。

故姫君の御事を尽きもせず長年のご様子などを話して、何の時に何とおっしゃり、桜や紅葉の美しさを見てもちょっとお詠みになった歌の話などを、この人にふさわしく震え声ながら、おっとりして言葉数少なかったが、風雅な姫君のお人柄であったなあとばかり、いよいよ聞いてお思いになる。
「宮の御方はもう少し華やかだが、心を許さない人に対しては体裁の悪い思いをおさせなさるようであったが、私にはとても思慮深く情愛があるように見えて、何とかこのまま過ごしたいとお思いのようであった」などと、心の中で比較なさる。

 

《「今回こそは見よう」は、諸注「これが見納めだろう」と訳します。彼にとっては様々な思い出のある邸ですから、そういう気持ちなのでしょう。

 見回る途中、弁の尼の居室に立ち寄りました。彼はいたわる気持ちで語りかけ、「夜も近くに寝させて、昔話などを」させます。弁は、柏木の最期の様子などを、今日は周りに人もいないので、思い出す限りを話しました。

彼女としては大変な思い出であり高貴の人の密事ですが、長く一人で抱えて来たその話を、以前にその片端を薫に話すことができたものの、その後誰にも話せないまま、また長い間ひとりで重く抱えていたことですから、ここを先途と「尽きもせず」に語り続けます。

それは彼女にとっては、ひとえに、「ご生前に親しくお仕え申した効が現れた」のです。しかし、一方で彼女は「情けない長生きで、さまざまなことを拝見して来、思い知りもしてまいりました」と言います。それは、柏木の死に始まり、母の死から男にたぶらかされての西国への流浪であり、八の宮、大君の死と、いずれをとっても非業の出来事ばかりです。いや「非業」ではなく、何かの業によるものなのかも知れませんが、彼女自身にはただもう「恥ずかしくつらく」思われるばかりで、「忌まわしい身の上」としか思えません。そういう気持ちを、大君の話の中にちりばめる間は、薫は話を聞いてくれます。

一方薫は、聞きながら、もちろん弁の身の上を思っているわけではありません。『評釈』は「なき姉宮に感心し、今いる中の宮のことをも思う」と言いますが、書かれているウエイトは反対で、彼は話を聞きながら、大君の「風雅な人柄」を思うだけですが、中の宮については、他の人に対する時とは違うって、「私にはとても思慮深く情愛があるように見えて、何とかこのまま過ごしたいとお思いのようであった」と、などと、いわば鼻の下を長くしている、といった塩梅で、弁の尼の気持とは必ずしも同じではありません。》

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第二段 薫、宇治の阿闍梨と面談す

【現代語訳】

 阿闍梨を呼んでいつものように故姫君の御命日のお経や仏像のことなどをお話しになる。
「ところで、ここに時々参るにつけても、しかたのないことが悲しく思い出されるのがとてもつまらないことなのでこの寝殿を壊して、あの山寺の傍らにお堂を建てようと思うが、同じことなら早く始めたい」とおっしゃって、お堂を幾塔、数々の渡廊や僧坊などと、必要なことを書き出したりおっしゃったりなさるので、
「まことにご立派な功徳で」とお教え申す。
「故人が風流なお住まいとして場所を得てお造りになった所を取り壊すのは薄情なようだけれども、宮のお気持ちも功徳を積むことを望んでいらっしゃったようだが、後にお残りになる姫君たちをお思いやって、そうはお決めになられなかったのではなかろうか。
 今は、兵部卿宮の北の方が所有していらっしゃるはずだから、あの宮のご料地と言ってもよいようになっている。だから、ここをそのまま寺にすることは、不都合であろう。勝手にすることはできない。場所柄もあまりに川岸に近くて、人目にもつくので、やはり寝殿を壊して、別の所に造り変える考えです」とおっしゃるので、
「あれやこれやと、まことに立派な尊いお心です。昔、別れを悲しんで、骨を包んで幾年も頚に懸けておりました人も、仏の方便によってその骨の袋を捨てて、結局は仏の道に入ったのでした。この寝殿を御覧になるにつけても、お心がお動きになりますのは、一つには良くないことです。また、来世への勧めともなるものでございます。急いでお世話申しましょう。暦の博士が計らい申す吉日を承って、建築に詳しい工匠を二、三人賜って、こまごまとしたことは、仏のお教えに従って進めさせ申しましょう」と申す。

あれこれとお決めになって、ご荘園の人びとを呼んで、この度のことを阿闍梨の言うとおりにするようにということなどをお命じになる。いつの間にか日が暮れたので、その夜はお泊まりになった。

 

《次に、薫は阿闍梨を呼んで、「この寝殿を壊して、あの山寺の傍らにお堂を建てよう」という計画を持ちかけました。こんな話を来てから思いつくことはなさそうですから、どうやら彼の来訪の目的はそのことだったようです。

しかし、いくら後見人と言っても、中の宮のここに帰りたいという意向もあったにもかかわらず、まったくの一存でこうした計画を進めるとは驚きです。

『評釈』は「あざりに言う前に、中の宮に諒解を求めている」と言って、「あの山里の辺りに、特に寺などはなくても、…」と話した(第六章第三段)ことを挙げていますが、それは「人形」を置いて寺を建てることについてであって、「寝殿を壊す」というような乱暴な話ではありません。

彼は、この神殿を見るたびに大君のことが思い出されて切なく、それは「とてもつまらないことなので(原文・いと益なきを)」と、理由も、自分の都合のように聞こえますし、「故人が風流なお住まいとしてお造りになった…」という話も、薫の勝手な都合のいい推測に過ぎません。

さらに、「兵部卿宮の北の方(中の宮)が所有していらっしゃるはずだから、あの宮(匂宮)のご料地と言ってもよい」として、だからそこに寺は作れない、というのなら、今そこにある寝殿を壊すことも出来ないのではなかろうかと思われます。

もっとも、薫の三条邸が焼けて六条院に移った時にも、何の感想もなく単に移転したという話だけで終わっていました(椎本の巻第五章第二段)から、彼らにとっては邸一棟くらい何ほどのことでもないのかも知れません。

 もちろん作者は殊勝な計画だということで語っているようですから、そのように読むところなのでしょうが、どうもよく分かりません。

 阿闍梨に至っては、功徳を積むことであることには違いありませんから、「まことにご立派な功徳だ」、「あれやこれやと、まことに立派な尊いお心」と、無条件の絶賛です。

 そして、さらに驚いたことには、日暮れにもかかわらず、すぐに荘園の者たちを集めて、即日、決定布告です。

 どうもよく分からない段ですが、私の戸惑いには関わりなく、事は、そのように進んでいきます。ともあれ、薫の大君を偲ぶ思いの強さと奇特な志と理解して読み進めることにします。》

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第一段 九月二十日過ぎ、薫、宇治を訪れる

【現代語訳】

 宇治の宮邸を久しく訪問なさらないころは、ますます故人の面影が遠くなった気がして、何となく心細いので、九月二十日過ぎ頃にいらっしゃった。
 ますます風が吹き払うばかりで、もの寂しく荒々しい水の音ばかりが宿守で、人影も特に見えない。見ると、まず何よりも胸が詰まってお、悲しいことこの上ない。弁の尼を呼び出すと、襖障子の口に青鈍の几帳をさし出して参った。
「とても恐れ多いことですが、以前以上にとても醜くございますので、憚られまして」と、直接には出てこない。
「どのように物思いされていることだろうと想像すると、同じ気持ちの人もいない話を申し上げようと思って。とりとめもなく積り重なる歳月であることだ」と言って、涙を目にいっぱい浮かべていらっしゃると、老女はますますそれ以上に涙を止めることができない。
「妹宮の事で、なさらなくてもよいご心配をなさったころと同じ季節だと思い出しますと、いつと限ったことではありませんが、秋の風は身にしみてつらく思われまして、本当にあの方がご心配になったとおりの夫婦仲のご様子を、いくらか耳にいたしますにつけても、それぞれにお気の毒で」と申し上げると、
「あれやこれやのことも、長生きをすると好くなるようなこともあるのに、つまらないことと思いつめていらっしゃったのは、私の過ちであったように思えて、今も悲しい。最近のご様子は、どうして、それこそ世の常のことです。けれども、心配なようにはなさらないように見えます。いくら言っても効ない、むなしい空に昇ってしまった煙だけは、誰も逃れることはできない運命ながらも、後になったり先立ったりする間は、やはり何とも言いようのないことだったことだ」と言って、またお泣きになる。

 

《中の宮との間が行き止まりになっている薫は、結局大君への思いに還って、宇治を訪れます。昨年二月、中の宮が都に発つのを送りに来た時(早蕨の巻第二章第一段)以来、一年半ぶりの宇治は、折しも晩秋の風の荒れる日で、その荒涼とした光景に、かつての青春のときめきはさながら夢と思われ、薫は「まず何よりも胸が詰ま」るばかりです。

そこには弁の尼が寂しく年老いて、ひとり邸を守っていました。この人の初めての登場の時は「たとえようもなく出しゃばって」、物言いも「ずけずけと」している、と言われて出て来たのでした(橋姫の巻第三章第五段)が、あのころ「年も六十に少し届かないほど」(同第四章第三段)だった彼女も、あれから四年ほどの歳月の間に、境遇の変化もあって急速に年を取ったのでしょう、今、すっかり様子が変わって、自分の老いを恥じて「襖障子の口に青鈍の几帳をさし出して」その陰に隠れて出てきました。

 しかし、薫には今や、この人だけが、何のわだかまりもなしに大君のことを語り合える相手です。

 彼にしてみれば、大君の心労は、結局は中の宮に匂宮を薦めた自分のせいで、もう少し長生きをされればあるいは解消してもらえたかもしれなかったと思うのですが、そういうことが、生前できなかったことを改めて悔やむ思いです。

 そして今度は弁の言った「それぞれにお気の毒で」の中の宮の方について、匂宮と六の君との結婚という「最近のご様子」については、匂宮が中の宮を「心配なようにはなさらないように見え」ると伝えて、とりあえずこちらのことだけは安心させます。

 そして、それにつけても返す返すも、とまた大君の死を悔やんで涙です。「後になったり先立ったりする間は」は、「人の死は(梢の露と根元の雫が消えるのを競うように)わずかの違いながら、さきだつ者を(後に残るものが)悲しむ意」(『評釈』)と言います。》

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