源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第七章 薫の物語(三)

第七段 夕霧、匂宮を強引に六条院へ迎え取る

【現代語訳】

 いろいろのお琴をお教え申し上げなどして、三、四日籠もっておいでになって、御物忌などにかこつけなさるのを、あちらの殿におかれては恨めしくお思いになって、大臣は、宮中からお出になってそのまま、こちらに参上なさったので、宮は、
「仰々しい様子をして、何のためにいらっしゃったのだろう」と、不快にお思いになるが、寝殿にお渡りになって、お会いなさる。
「特別なことがない間は、この院を見ないで長くなりましたのも、しみじみと感慨深い」などと、昔のいろいろなお話を少し申し上げなさって、そのままお連れ申し上げなさってお出になった。

ご子息の殿方や、その他の上達部、殿上人なども、たいそう大勢引き連れていらっしゃる威勢が、大変なのを見ると、並びようもないのが、がっかりした。

女房たちが覗いて拝見して、
「まあ、美しくいらっしゃる大臣ですこと。あれほど、どなたも皆、若く男盛りで美しくいらっしゃるご子息たちで、似ていらっしゃる方もありませんね。何と、立派なこと」という者もいる。また、
「あれほど重々しいご様子で、わざわざお迎えに参上なさるのは憎らしい。安心できないご夫婦仲ですこと」などと、嘆息する者もいるようだ。

ご自身も、過去を思い出すのをはじめとして、あのはなやかなご夫婦の生活に肩を並べやってゆけそうにもなく、存在感の薄い身の上をと、ますます心細いので、

「やはり気楽に山里に籠もっているのが無難であろう」などと、ますます思われなさる。とりとめもなく年が暮れた。

 

《匂宮は、六の君と結婚してまだ三か月余りにしかならないのですが、この「三、四日(二条院に)籠って」しまいました。こちらでは「自分の思うままに事を運ぶことができる。…六の君の所に行くと、はなやかであり、大事にされるが、夕霧右大臣が主人である」と『評釈』が説明しますが、もちろん「女らしくなってゆく」(同)中の宮の魅力を忘れてはなりません。

 夕霧右大臣の方は穏やかではありません。家と娘の名誉のために、直々に迎えにのり込んで来ました。「宮中からお出になってそのまま」ですから、「参内の服装(正装)であり、供ぞろいが正式であり、子供たちや、その他の上達部、殿上人が付き従って」(同)います。

 「仰々しい」とは言ってみても、まさかこれをそのまま帰すことはできませんから、匂宮も従うしかありません。

 夕霧は久々の二条院ですから、「しみじみと感慨深い」というのも、単に挨拶だけではないでしょうが、そうした何気ない話をしただけで、さしたることも言わないで、ごく自然に匂宮を促し「そのままお連れ申し上げ」てしまいました。

 疾風が飛び込んできて、主人をさらわれてしまった後の二条院は、がらんとして、みな力が抜けたようになっています。

 中の宮は、改めて「やはり気楽に山里に」という思いを強くします。》

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第六段 匂宮、中の宮の前で琵琶を弾く~その2

【現代語訳】
 菊の、まだすっかり色変りもしないで特に手入れをさせなさっているのはかえって遅れているのに、どういう一本であろうか、たいそう見所があって色変わりしているのを、特別に折らせなさって、「花の中にひとへに(この花の後は、もう花がないのだなあ)」と口ずさみなさって、
「何某の親王がこの花を賞美した夕方です、昔、天人が飛翔して、琵琶の曲を教えたのは。何事も浅薄になった世の中は、嫌なことだ」と言って、お琴をお置きになるのを、残念だとお思いになって、
「心は浅くなったでしょうが、昔から伝えられたことまでは、どうしてそのようなことがありましょうか」と言って、まだよく知らない曲などを聞きたくお思いになっているので、
「それならば、一人で弾く琴は寂しいから、お相手なさい」と言って、女房を呼んで箏の琴を取り寄せさせて、お弾かせ申し上げなさるが、
「昔こそ教えていただく人もいらっしゃいましたが、ちゃんと習得もせずになってしまいましたものを」と、恥ずかしがって手もお触れにならないので、
「これくらいのことも心置いていらっしゃるのが情けない。近頃行くあたりは、まだたいして心打ち解けるようになっていませんが、未熟な習いたての事をも隠さずにいますよ。総じて女性というものは、柔らかで心が素直なのが好いことだと、あの中納言も決めているようです。あの人には、決してこのようにはお隠しにならないでしょう。この上なく親しい仲のようなので」などと、本気になって恨み事を言われたので、溜息をついて少しお弾きになる。

絃が緩んでいたので、盤渉調に合わせなさなさる。調子合せの曲など、爪音が美しく聞こえる。「伊勢の海」をお謡いになるお声が上品で美しいのを、女房たちが、物陰に近寄って、嬉しそうに座っている。
「二心がおありなのはつらいけれども、それも仕方のないことなので、やはり私のご主人を幸福な人と申すのでしょう。このようなご様子でお付き合いなされそうにもなかった長年のお住まいを、また帰りたそうにお思いになっているのはとても情けない」などと、ずけずけと言うので、若い女房たちは、
「おだまりなさい」などと止める。

 

《この段は1節から、結局ここの最後の女房の言葉、「私のご主人(中の宮)は幸福な人(原文・さいわひ人)と申すのでしょう」ということを語っているようです。

 匂宮は、中の宮をからかったり恨み言をいったりいろいろしながら、睦みあっています。ここは、先に中の宮が「秋果つる」と詠んだことを受けて、花の季節の終わりを飾る菊の花を採って来させて、琵琶と菊にまつわる逸話を語り、いかにももの思うふうに琵琶をおきました。もちろん作者の蘊蓄を披歴したというところでもあります。

中の宮は、もうすっかり機嫌を直したようで、匂宮の琵琶をもっと聞きたそうにします。

匂宮は,それならあなたも弾きなさいと、箏の琴を持ってこさせました。しかし中の宮は手を触れようともしません。そういえば、昔、薫が八の宮と話していて姫たちの琴を所望した時(橋姫の巻第四章第二段)も、父の勧めがあったにもかかわらず、引こうとしなかったことがありました。

匂宮は、六の君はそうではなく、言われれば素直に従うのだが、と競争心を煽っておいて、もう一つ、薫には聞かせるのだろうと、嫌味を加えます。実際はこれまで薫に聞かせたことはなかったように思いますが、そんなことをいまさら釈明しても、次の嫌味が追っかけてくるに決まっていますから、中の宮はしぶしぶながら弾き始めます。

「絃が緩んでいたので、盤渉調に合わせなさなさる」というのは、やはりさすがにあの父の娘だけあって、張ってあった弦に合わせた弾き方をしたようです。匂宮がそれに合わせて催馬楽をうたいます。

 いかにも睦まじい光景で、中の宮付きの女房にとっては、宇治の頃と比べて夢のようです。別に正夫人がおられるのは残念だけれどもそれは仕方のないことで、このように大切にされていらっしゃるのと見ると、こういう人こそ「さいわひ人」と言うのだろうと、思わず口にします。それは実は作者の言葉でもあって、高貴の女性の幸福とは、結局こういう形と考えられていたのでしょう。

 この女房は宇治から同行した古参のようで、中の宮の宇治に帰りたいという希望をとんでもないことと口にしますが、若手たちは、言うことさえも憚られると、先輩(と言っても、若手の方が上位のように思われます)に、変な話をしないで下さいと、抑えにかかります。こういうやりとり自体が、楽しいことで、幸せな光景だということなのでしょう。》

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第六段 匂宮、中の宮の前で琵琶を弾く~その1

【現代語訳】

 枯れ枯れになった前栽の中に、尾花が、他の草とは違って手を差し出して招いているのが面白く見えて、まだ穂に出かかったのも、露を貫き止める玉の緒が頼りなさそうに靡いているのなども、普通のことであるが、夕方の風がやはり心に沁みる季節なのだった。
「 穂にいでぬもの思ふらししのすすき招くたもとの露しげくして

(外に現れない物思いをしているようだ、篠薄が招くように露がいっぱいで)」
 着なれたお召し物類に、お直衣だけをお召しになって、琵琶を弾いていらっしゃる。黄鐘調の調子合せの曲をたいそうしみじみとお弾きになると、女君も嗜んでいらっしゃることで、いつまでも物恨みもなさらずに、小さい御几帳の端から、脇息に寄り掛かってわずかにお出しになった顔は、まことにもっと見たいほどかわいらしい。
「 秋果つる野辺のけしきもしのすすきほのめく風につけてこそ知れ

(秋が終わる野辺の景色も篠薄がわずかに揺れている風によって知られます)
 『わが身ひとつの(わが身の不幸せから、秋の哀れもひとしお身に沁みます)』」と言って自然と涙ぐまれるのがさすがに恥ずかしいので、扇で隠していらっしゃる心中もいじらしく思われるが、

「こうだからこそ、相手も諦められないのだろう」と疑わしいのが普通でなく、恨めしいようである。

 

《「匂宮が見れば、衝撃を感ずるはず」(『評釈』)のような内容の手紙を書いているとは知らずに、宮は約束どおり中の宮の方を見ないで、庭を眺めているようです。

 そこはすっかり秋も終わりの風情で、「心に沁みる」情景でした。しかし、匂宮の気分は、そこに思いをいたそうというようではありませんでした。彼の心はあくまでも、中の宮に向いています。

 匂宮の歌を詠み掛けます。『評釈』と『谷崎』が「しのすすき」は中の宮、「招くたもと」は薫だと言います。「物思いに沈む女君に、男の招きが度々だからだろう、と、宮は嫌味を言ってみる」(『評釈』)のです。さっき、恨めしそうにした中の宮が大変魅力的だった(前段)ので、さらにからかって(困らせて?)見たくなったようです。なお、『集成』の注は、歌全体が「薫を諷する」と言います。

 そうしておいて一方で、誘うように、琵琶を弾き始めました。中の宮も、いつまでもすねた格好で引っ込んでいては子供じみてよくありませんから、誘われた格好で顔を見せます。琵琶は彼女もいくらか心得もあった(橋姫の巻第三章第三段)のでした。

 歌の「秋果つる」は、あなたが私を飽き果てる、その気持ちは「さりげないそぶりでも私にはわかります」と、六の君のことを匂わせて嫌味には嫌味で応じます。

 そうした一連の中の宮の振る舞いは、「「もっと見たいほどかわいらし」く、また「(その)心中もいじらしく思われ」るのですが、さればこそ匂宮は、ますます、この人と薫とのことが疑われて、落ち着きません。》

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第五段 薫、二条院の中の宮に宇治訪問の報告~その2

【現代語訳】

中の宮に紅葉を差し上げなさると、夫宮がいらっしゃっているところだった。
「南の宮邸から」と言って、何の気なしに持って参ったのを、女君は、

「いつものようにうるさいことを言ってきたらどうしようか」と苦しくお思いになるが、どうして隠すことができようか。宮は、
「美しい蔦ですね」と、穏やかならずおっしゃって、呼び寄せて御覧になる。お手紙には、
「このごろはいかがお過ごしでしょうか。山里に参りまして、いつにもまして峰の朝霧に迷いましたお話も、お目にかかって。あちらの寝殿をお堂に造ることを、阿闍梨に命じました。お許しを得てから、他の場所に移すこともいたしましょう。弁の尼に、しかるべきお指図をなさってください」などとある。
「よくもまあ、さりげなくお書きになった手紙だな。自分がいると聞いたのだろう」とおっしゃるのも、少しはなるほどそうであったであろう。

女君は、特別に何も書いてないのを嬉しいとお思いになるが、むやみにこのようにおっしゃるのを困ったことだとお思いになって、恨んでいらっしゃるご様子は、すべての欠点も許したくなるような美しさである。
「お返事をお書きなさい。見ないでいますよ」と、よそをお向きになった。甘えて書かないのも変なので、
「山里へのお出かけが羨ましく思われます。あちらは、おっしゃるとおり、そのようにするのがよいと存じておりましたが、わざわざ他のところで『巌の中(世間のことが聞こえてこない山奥)』に住処を求めるよりは、荒らしきってしまいたくなく思っておりますので、どのようにでも適当な状態にして下されば、ありがたく存じます」と申し上げなさる。

「このように憎い様子もないご交際のようだ」と御覧になる一方で、自分のご性質から、ただではあるまいとお思いになるのが、落ち着いてもいられないのであろう。

 

《さて、薫は都に帰って来て、さっそく二条院に土産の蔦を届けに使いをやりました。

 ちょうど、匂宮も来ている時で、中の宮は、また変な手紙でなければいいがと、不安になります。

 しかしさいわい、蔦の葉に添えられた手紙は、かえって匂宮が「よくもまあ、平静をよそおって…」と逆にやっかむくらいに、事務的なものでした。

もちろん「少しはなるほどそうであったであろう」、手紙の背後には、疑われるような気持ちが十分にあったのですが、中の宮は、そちらにではなくて、そう言って自分をからかう(いじめる)夫を恨めしく思うそぶりを見せます。それが匂宮にはなんともかわいらしく思えます。

匂宮はわざと、返事を書くように、さらにもう一声いじめます。夫婦の間のちょっとあぶない遊びです。

 「甘えて」は原文のままですが、「調子にのっていつまでも匂宮を怨むようなすねた態度をとって」(『集成』)といった気持ちのようで、平たく言えば「うじうじして」というくらいのところでしょうか、それで書かないでいるのは、匂宮も相手をするのが面倒くさくなりそうですから、「そうですか、では」といった感じで筆を執ります。このあたりが中の宮の賢いところです。

 返事の中の、「わざわざ他のところで…住処を求めるよりは」とは、いずれは寺に入ろうという気持ちを言うことになりそうですが、匂宮の見ている前で(仮に本当に「よそをお向きになっ」ているにしても)、これから先、どこかに「住処を求める」などということを書いて、大丈夫なのだろうかと思ってしまいます。

 しかしそれは余計な心配のようで、匂宮は「憎い様子もないご交際のようだ」と、手紙の内容には格別の反応をせず、ただ自分を顧みて、こういう場合はなんでもなくはないはずだと、と漠然とした焼きもちを焼いています。何か、ずいぶん人が好い、という気がします。》

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第五段 薫、二条院の中の宮に宇治訪問の報告~その1

【現代語訳】

 夜が明けたのでお帰りになろうとして、昨夜、供人が後れて持って参った絹や綿といった物を阿闍梨に贈らせなさる。尼君にもお与えになる。法師たちや、尼君の下仕え連中の料として、布などという物までを、呼んでお与えになる。心細い生活であるが、このようなお見舞いが常々あるので、身分のわりにいかにも見苦しくなく、おだやかに勤行しているのであった。
 木枯しが堪え難いまでに吹き抜けるので梢の葉も残らず散って、敷きつめた紅葉を踏み分けた跡も見えないのを見渡して、すぐにはお出になれない。たいそう風情ある深山木にからみついている蔦の色がまだ残っていた。せめてこの蔦だけでもと少し引き取らせなさって、宮へとお思いらしく、持たせなさる。
「 やどりきと思ひいでずは木のもとの旅寝もいかにさびしからまし

(昔泊まった宿木の家と思い出さなかったら、この深山木の下の旅寝もどんなにか寂

しかったことだろう)」
と独り言をおっしゃるのを聞いて、尼君が、
「 荒れ果つる朽木のもとをやどりきと思ひおきけるほどの悲しさ

(荒れ果てた朽ち木のもとを昔泊まった家と覚えていて下さるのが悲しいことです)」
 どこまでも古風であるが、趣がなくはないのを、わずかの慰めとお思いになった。
 

《帰りがけに薫は宇治の一同それぞれに贈り物をしました。「あいかわらず薫は、こまかいところに気が付く」と『評釈』が言います。もっとも、普通手土産は来た時に渡すもので、それを帰りがけに差し出すというのは、相手に遠慮・配慮を要するときには私たちもすることですが、この場合はほとんど主従に近い関係ですから、何の配慮もいらないはずで、ちょっと意外な感じではあります。

ともあれ「このようなお見舞いが常々あるので」、この人たちの生活が成り立っているのだと、後へのかかわりもないまま、わざわざ語られているということは、作者も、薫をそういう人物として読んでほしいと思っている、ということでしょう。

してみると、物語は多分に「実験小説」(椎本の巻第一章第五段)的ではありながら、やはりこの人は基本的によくできた好ましい人として好意的に描かれているようです。

 帰るにあたって、薫は中の宮への土産に紅葉した蔦の葉を持ち帰ることにしました。

 そこでふと漏らされたここの歌が巻名出所の歌です。蔦を「やどり木」と詠んでいて、現代の呼び方ではないようです。

『評釈』が「『やどり木』とこの巻に名づけたのは、形代の意をきかせたのであろうか」と言うのですが、意味がよく分かりません。気になるところですが、あるいは「形代」は、本来の物ではなく、宿木のようなものだ、とでもいうことなのでしょうか。

 弁の返歌も、『評釈』は「おとなしい言葉つき」だと言いますが、最後の「悲しき」などは、なかなか微妙ではないでしょうか。

「朽ち木」は、弁がかつて自分のことをそう呼んだことがあり(橋姫の巻第四章第四段)、ここでももちろん彼女自身を言うのでしょうが、その自分のいる邸に、「昔(と言っても去年までのことですが)、泊まった家と覚えていて下さるのが悲しい」というのは、あのころに比べて、今はすっかり寂しくなったことが改めて思いやられて、ということかと思われます。

なお、途中、「せめてこの蔦だけでもと少し」のところ、原文は「こだになど少し」です。『集成』は「こだに」について「前に『蔦』とあり、蔦の一種と思われる。『枕草子』草はの段に『こだに』と見える」と言います。古来ある説のようですが、『評釈』は「もしそうなら『こだに』の後に格助詞がくると思う」として、ここのような訳にしています。》

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