源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

巻四十九 宿木

第四段 薫、弁の尼に仲立を依頼

【現代語訳】

 日が暮れてゆくので、君もそっと出て、ご衣装などをお召しになって、いつも呼び出す襖障子口に尼君を呼んで、様子などをお尋ねなさる。
「ちょうどよい時に来合わせたものだな。どうでしたか、あの申し上げておいたことは」 とおっしゃると、
「そのように仰せ言がございました後は、適当な機会がありましたら、と待っておりましたが、去年は過ぎて、今年の二月に、初瀬に参詣する機会に初めて対面しました。
 あの母君に、お考えの向きはそれとなく伝えましたところ、とても身の置き所もなく、もったいないお身代わりの話でございます、などと申しておりましたが、その当時はお暇でもいらっしゃらないと承っておりまして、時期が悪いと思って遠慮申し上げて、これこれです、とも申し上げませんでしたが、また今月にも参詣して、今日お帰りになったような次第です。
 行き帰りの宿泊所としてこのように親しくされるのも、ただお亡くなりになった父君の跡をお慕い申し上げようという理由からでございましょう。あの母君は支障があって、今回はお独りで参詣なさるようなので、このようにいらっしゃっているということも、伝えても仕方がないと思いまして」と申し上げる。
「田舎者めいた者たちに、人目につかないようにやつしている姿を見られまいと、口止めしているが、どんなものであろうか、下人たちには隠すことはできまい。さて、どうしたものだろうか。ひとりでいるのは、かえって気楽だ。このように前世からの縁があって、巡り合わせたのだ、とお伝えください」とおっしゃると、
「急に、いつの間にできたご縁ですか」と、苦笑して、
「それでは、そのようにお伝えしましょう」と言って、中に入るときに、
「 貌鳥の声も聞きしにかようふやとしげみをわけて今日ぞ尋ぬる

(かお鳥の声も昔聞いた声に似ているかしらと、草の茂みを分け入って今日尋ねてき

たのだ)」
 ただ口ずさみのようにおっしゃるのを、奥に入って語るのであった。

 

《夕方になって、薫は、さすがにそういつまでも隠れていることはできませんから、出てきて弁の尼に会うことにしました。「ご衣装などをお召しになって」は、覗くにあたって脱いでいた衣裳(第一段)で、『評釈』が「語り手は忘れずに丁寧に語る」と冷やかします。

 弁の話によれば、実は前回薫が宇治に来た時に依頼を受けた(第七章第四段)後、「今年二月」にこの姫母子に会っていたのでした。その時に母に、こういう人が「会ってみたいものだ」と言っておられるという話したところ、「とても身の置き所もなく、もったいないお身代わりの話」だという返事だったと言います。これは、承諾とも断りとも取れますが、とっさのことで、このくらいしか言えなかったというところでしょうか。

 しかし、ちょうどその頃、薫は女二宮との婚礼の話が進んでいたころで「お暇でもいらっしゃらない」と聞いていたので、これまで待っていたのだとのことでした。

 何か、うまい話の持って行き方です。事柄の時間的関係やつながりがよく分かり、母親のとまどいはあるらしいものの、都合よく姫が薫と出会う場を作ることができました。併せて弁の周到さや気遣いまで伝わってくる感じです。

 薫はこれも「前世からの縁」だろうと喜んで、さっそく弁に会いたい旨を伝えさせます。弁は「いつの間にできたご縁ですか」と冷やかしながら、立って行きます。その背に薫が歌をつぶやきました。

「貌鳥は「かおどり」で「平安時代には字面から美しい鳥とする理解が生じたよう」(『集成』)です。「美しい大君に似た人の、声も昔聞いた声に似ているかと…」(同)という歌で弁はそれを、姫のいる「奥に入って語」ったのでした。

 物語の最後のドラマを紡ぎ出す二人が、今まさに出会おうとしています。その本編は、新しい巻を用意してそこで語られることになります。》

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第三段 浮舟、弁の尼と対面

【現代語訳】

 尼君は、この殿の方にもご挨拶を申し出たが、
「ご気分が悪いと言って、今休んでいらっしゃるのです」と、お供の人びとが心づかいして言ったので、

「この君を探し出したいとおっしゃっていたので、こういう機会に話そうとお思いになって日暮れを待っていらっしゃったのか」と思って、このように覗いていらっしゃるとは知らない。
 いつものように御荘園の管理人連中が参上しているが、破子や何やかやとこちらにも差し入れているのを東国の者たちにも食べさせるなど、いろいろ済ませて、身づくろいして、客人の方に来た。誉めていた衣装は、なるほどとてもこざっぱりとしていて、顔つきもやはり上品で美しかった。
「昨日お着きになるとお待ち申し上げていましたが、どうして今日もこんなに日が高くなってから」と言うようなので、この老いた方の女房は、
「とても妙にただもうつらそうになさるので、昨日はこの泉川のあたりで、今朝もずっとご気分が悪かったものですから」と答えて、起こすと今ようやく起きて座った。

尼君を恥ずかしがって脇を向いている横顔は、こちらからは実によく見える。ほんとうにたいそう気品のある目もとや髪の生え際のあたりが、あの方も細かくよくは御覧にならなかったお顔であるが、この人を見るにつけて、まるでその人と思い出されるので、例によって、涙が落ちた。尼君への応対する声や様子は、宮の御方にもとてもよく似ているような聞こえる。
「何というなつかしい人であろう。このような人を、今まで探し出しもしないで過ごして来たとは。この人より低い身分の故姫宮に縁のある女でさえ、これほど似通い申している人を手に入れてはいいかげんに思わない気がするが、まして、この人は、父宮に認知していただかなかったが、ほんとうに故宮のご息女だったのだ」とお分かりになったからには、この上なく嬉しく思われなさる。ただ今にでも側に這い寄って

「この世にいらっしゃったのですね」と言って慰めたい、蓬莱山まで探し求めて、釵だけを手に入れて御覧になったという帝は、やはり物足りない気がしただろう。

「この人は別の人であるが、慰められるところがありそうな様子だ」と思われるのは、この人と前世からの縁があったのであろうか。
 尼君は、お話を少しして、すぐに中に入ってしまった。女房たちの気がついた香りを、

「近くから覗いていらっしゃるらしい」と分かったので、寛いだ話も話さずになったのであろう。

 

《この場面、大枠はのぞき見している薫の視点から描かれているようです。

弁の尼は、姫の方にお茶とお菓子を出しておいて、薫にもご挨拶を申し出ましたが、供人が気を利かして、とりあえずお断りということになりました。薫は覗きに一所懸命なのです。

 そこで弁は姫のところに先に挨拶にやって来ました。前回薫が訪ねて来た時には、「以前以上にとても醜くございますので、憚られまして」と言っていたのに比べると、だいぶ前向きに振舞っています。女房たちが感心していた衣裳は、普段薫が気を付けてやっていたからでした。

 薫は相変わらず覗いていて、四人の女性のやりとりを逐一見聞きしています。

弁が挨拶に来たとあって、姫もそのまま寝ているわけにはいきませんから、起き上がります。薫が待ち望んでいた時が来ました。もちろん薫だけではなく、読者にとっても大いに関心のあるところです。

『講座』所収「形代浮舟」(藤井貞和著)が「思えば宿木巻は浮舟登場のための一巻であった。それを、一巻のいよいよ終了しようとするところをねらって登場させるとは。見事な構成であるというほかない」と絶賛します。

さて薫が見た姫君は、「尼君への応対する声や様子は、宮の御方にもとてもよく似ている」と言います。ここまでの姫の様子では、健康的だと思われる中の宮とはちょっとタイプが違うような感じで、薫の欲目ではないかと思われますが、そう見えるものは仕方がありません。

彼にはこの姫は期待していた以上にはるかに大君によく似ているように思われて、ほとんどその人自身ではないかと思うほどでした。「ただ今にでも、側に這い寄って」について、今度は『構想と鑑賞』が、「(この)一文の如きは薫が浮舟をすっかり大い君と思いつめた心の感動をよく表すもので、作者の霊筆とすべきである」と絶賛しています。

 もっとも、『光る』は少し辛口で、「丸谷・(この巻は、次の東屋の巻の)準備の章なんですよ。ただ、その準備の章をこれだけ長く書く必要があったかどうかですね。もっときびきび運んでもよかったという感じがします」と言います。

 私としては、この巻では中の宮の存在が出色ではなかったかと思っています。この物語の中で、彼女に似た幸いを得た人は、明石の君、玉鬘、雲居の雁がいますが、後の二人は絶対的な庇護を受けていますから別枠として、明石の君とこの人の対比は、非常に興味を引きます。が、またその機会もあるでしょうから、ここでは措きます。

 話していて弁はただならぬ香りに気が付きました。浮舟の女房たちは弁の嗜みだと思ったのでしたが、もちろん弁はすぐに薫が覗いているのだと分かりました。それならまもなくお呼びがあってご挨拶に行き、この浮舟の話をしなければなりませんから、すぐにその部屋を下がります。》

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第二段 薫、浮舟を垣間見る~その2

【現代語訳】
 次第に腰が痛くなるまで腰をかがめていらっしゃったが、人の気配をさせないようにと思って、依然として動かずに御覧になると、若い女房が、
「まあ、いい香りのすること。たいそうな香の匂いがしますわ。尼君が焚いていらっしゃるのかしら」。と不審がる。老女房は、
「ほんとうに何と素晴らしい香でしょう。京の人は、やはりとてもみやびやかですね。当地で一番だと自惚れていらっしゃったけれど、東国ではこのような薫物の香は、とても合わせることができなかったことです。この尼君は、住まいはこのようにひっそりしていらっしゃるが、衣装が素晴らしく、鈍色や青鈍と言っても、とても美しいですね」などと、誉めていた。あちらの簀子から童女が来て、
「お湯など差し上げて下さい」と言って、いくつもの折敷に次から次へとさし入れる。果物を取り寄せなどして、
「もしもし、これを」などと言って起こすが、起きないので、二人して栗などのようなものか、ほろほろと音を立てて食べるのも、聞いたことがない感じなので、見ていられなくて退きなさったが、再び見たくなっては、やはり繰り返し近づいて御覧になる。
 この人より上の身分の人びとを、后宮をはじめとして、あちらこちらに器量のよい人や気立てが上品な人をも大勢飽きるほど御覧になったが、いいかげんな女では目も心も止まらず、あまり人から非難されるまでまじめでいらっしゃるお気持ちには、ただ今のようなのは、どれほども素晴らしく見えることもない女であるが、このように立ち去りにくく、むやみに見ていたいのも、実に妙な心である。

 

《臥せっている主人の前で、おしゃべりを続けていた女房が、ふと漂う香りに気付きました。言うまでもなく薫の香りなのですが、そうとは知らず、弁の尼の焚く香だと思い込んで、都人の雅を感心しています。

 童女がお茶とつまみを持ってきました。つまみは栗のようで、二人の女房は、寝ている主人は措いて、その栗を食べ始めました。「ほろほろと音を立てて食べるのも、(薫は)聞いたこともない感じ」だ、というのは、その栗が皮付きで、普段加工した栗しか食べたことのない薫は、皮をむいて食べるなどという食べ方を知らなかったのだろうと、『評釈』が言います。

 都会の子供は、魚は輪切りになっているものだと思っている、などという話があって、そういう子供が生魚をさばいている人を見れば、ずいぶん野蛮に見えるでしょうが、ここの薫にも女房たちの食べ方はずいぶんみっともなく見えたのでしょう、「見ていられなくて」目をそらすのですが、しかしどうも姫が気になります。「再び見たくなっては、やはり何度も(襖障子に)近づいて」見たというのは、そういう行動をくり返したのですから、よほど不快だったのでしょうし、また、にもかかわらずよほど気になったわけで、結局気になったことが強調されています。

 これまでいくらも素晴らしい京の女性を見てきてもさしたる関心を持たなかった薫にしては、異常といえることで、「ただごとではすみそうもない」と『評釈』は、気を持たせています。》

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第二段 薫、浮舟を垣間見る~その1

【現代語訳】

 若い女房のそこにいた者が、まず降りて簾を上げるようである。御前駆の様子よりはこの女房は物馴れていて見苦しくない。また、年かさの女房がもう一人降りて、

「早く」と言うと、
「何だかすっかり丸見えのような気がします」という声は、かすかだが上品に聞こえる。
「またそんなことをおっしゃる。こちらは以前にも格子を下ろしきっています。その上どこがまた丸見えでしょうか」と、安心しきって言う。気にしながら降りるのを見ると、まず頭の恰好、身体つき、細くて上品な感じは、たいそうよく亡き姫君を思い出されよう。扇でしっかりと顔を隠しているので顔が見えず、余計に見たくて、胸をどきどきさせながら御覧になる。
 車は高くて、降りる所が低くなっているのを、この女房たちは楽々と降りたが、たいそうつらそうに難儀して長いことかかって降りて、お部屋にいざって入る。濃い紅の袿に、撫子襲と思われる細長、若苗色の小袿を着ていた。
 四尺の屏風をこの襖障子に添えて立ててあるが、上から見える穴なので、丸見えである。こちらを不安そうに思って、あちらを向いて物に寄り臥した。
「何とも、お疲れのようですね。泉川の舟渡りも、ほんとうに今日はとても恐ろしかったわ。この二月には、水が浅かったのでよかったのですが」
「いやなに、出歩くことは、東国の旅を思えば、どこが恐ろしいことがありましょう」などと、二人で疲れた様子もなく話しているのに、主人は音も立てずに臥せっていた。腕をさし出しているのが、まるまるとかわいらしいのも、常陸殿の娘とも思えない、まことに上品である。

 

《いよいよ新しい重要人物が舞台に姿を見せました。車から、まず「若い女房」が姿を見せ、そして「年とった女房がもう一人」姿を見せて(露払いといった趣です)、その後から、その二人に促されて、まずその人の声だけが聞こえます。

彼女は周囲をひどく気にしているようで、女房の「またそんなことをおっしゃる」は、普段からやや過敏な反応があって、お付きの者たちを困らせている様子が窺えます。そうしてやおら姿を見せました。

 見えたとたんに、大君にそっくりだと思われました。「たいそうよく亡き姫君を思い出されよう(原文・いとよくもの思ひ出でられぬべし)」は「(のぞき見している)薫の気持ちを忖度する形で」書かれている、と『集成』が言います。

 「年かさの女房」でさえ「楽々と降りた」のですが、この姫は「たいそうつらそうに困りきって長いことかかって」、やっとのことで車から降りました。田舎育ちとは思えない、何ともひ弱な姫のようで、まるで小娘といった印象がありますが、弁の話によれば二十歳になっています(第七章第四段)。

 「四尺の屏風を…」と薫の視点を紹介しますが、『評釈』も「当時の読者にはわかったのだろうが、今の我々には位置がさっぱりわからない」と言いますから、安心してあまり気にしないで、ともかく薫からは丸見えなのだと思うことにします。

 女房二人は旅に疲れた様子もなく気楽なおしゃべりをしているのですが、その横で、「主人(姫)は音も立てずに臥せってい」ます。

このあたり、作者はこの姫を、総じてやや腺病質なふうに描こうとしているように思えますが、次に「腕をさし出しているのが、まるまるとかわいらしい(原文・まろらかにをかしげなる)」とあって、ちょっととまどいます。

 初めに聞こえた声も「上品(原文・あてやか)」でしたし、「頭の恰好、身体つき、細くて上品な感じ(原文・あてなるほど)」で、最後の臥せっている様子も田舎者とは思えず、「まことに上品(原文・まことにあてなり)」です。

 外見は「上品」で、「まるまるとかわいらしい」のですが、どうも内に(心か体かに)何か弱いところがある、そんな危うげな姫のようです。

 なお、初めのところ、「かすかだが(原文・ほのかなれど)」とありましたが、『辞典』が「ほのか」は「色・光・音・様子などが、うっすらとわずかに表れるさま。その背後に大きな、厚い、濃い、確かなものの存在が感じられる場合にいう。類義語カスカは、いまにも消え入りそうで、あるか無いかのさま」と言い、『光る』がのちの浮舟の巻を語る中で付け加えるように、「大野・『ほのか』は不満足を表すことがあるんです」と言っています。》

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第一段 四月二十日過ぎ、薫、宇治で浮舟に邂逅

【現代語訳】

 賀茂の祭などの忙しいころを過ごして、二十日過ぎに、いつものように宇治へお出かけになった。
 造っていらっしゃる御堂を御覧になって、なすべき事などをお命じになって、そうしていつものように、「朽ち木」の弁のもとを素通りいたすのもやはり気の毒なので、そちらにおいでになると、女車の仰々しい様子ではないのが一台、荒々しい東男の腰に刀を付けた者大勢を従えて、下人も数多く頼もしそうな様子で、橋を今渡って来るのが見える。
「田舎びた者たちだなあ」と御覧になりながら、殿は先にお入りになって、お供の連中はまだ立ち騒いでいるところに、

「この車もこの宮を目指して来るのだ」と分かる。御随身たちががやがやと言うのをお止めになって、
「誰か」と尋ねさせなさると、言葉の訛った者が、
常陸前司殿の姫君が初瀬のお寺に参詣してお帰りになったのです。最初もここにお泊まりになりました」と申すので、
「おお、話に聞いた人らしい」とお思い出しになって、供人たちを別の場所にお隠しになって、
「早くお車を入れよ。ここには別に泊まっている人がいらっしゃるが、北面のほうにおいでだ」と言わせなさる。
 お供の人もみな狩衣姿で、大げさでない姿ではあるが、やはり様子ではっきり分かるのであろうか、わずらわしそうに思って、馬どもを遠ざけて小さくなっている。車は入れて、渡廊の西の端に寄せる。この寝殿はまだ人目を遮る調度類が入れてなくて、簾も掛けていない。格子を下ろしこめた中の二間に立てて仕切ってある襖障子の穴から覗きなさる。お召し物の音がするので脱ぎ置いて、直衣に指貫だけを着ていらっしゃる。

すぐには下りないで、尼君に挨拶をして、このように高貴そうな方がいらっしゃるのを、「どなたですか」などと尋ねているのであろう。君は、車をその人とお聞きになってすぐ、
「けっして、その人に私がいるとおっしゃるな」と、まっさきに口止めなさっていたので、みなそのように心得て、
「早くお降りなさい。客人はいらっしゃるが、別の部屋です」と外に伝えた。

 

《賀茂の祭りは四月中の酉の日(普通、祭りと言っただけで賀茂の祭りを言うので、ことさらに「賀茂の」というのは、物語中、ここだけだと『評釈』が言います)、女二宮を引き取って二週間ほど経ったころになるでしょうか、薫は宇治の寺の様子を見にやって来ました。用事は終わったのですが、そのまま帰ったのでは、弁の尼に悪かろうと、そちらに向かいます。まっすぐ帰ってしまっていたら、起こらなかった出会いが生まれます。「素通りいたす(原文・見たまへ過ぎむ)」は弁に対する敬意で、違和感がありますが、「諸本を通じて異同がない」と『集成』が言います。

 帰京を少し延ばした薫の前に、「田舎びた」車が宇治橋を渡ってやって来ました。聞くと「常陸前司殿の姫君」の一行と言います。彼はその名前を憶えていました。中の宮が「人形(ひとかた)」として薫に話し(第六段第三章)、弁の尼が「常陸の国司になって下」った人の娘として話した(第七章第四段)、あの人に違いありません。

 そうと気づいて薫はすばやく動きます。まず、「『その人に私がいるとおっしゃるな』とまっさきに口止めなさって」、しかる後に、供人を隠して相手に過度の警戒をさせないようにしておき、次に先客の自分たちは「北面のほう」にいると言わせて「気の張らぬ内輪の人だという趣」(『集成』)を伝えて、「女車」を邸内に入れさせました。

新来の者たちは、そうは言われても、その様子からさすがにどうやら高貴の人らしいと気付いたらしく、「馬どもを遠ざけて(供人たちは)小さくなって」控えています。

 そういう様子を、薫は「襖障子の穴から覗」いて見ると、向こうの姫君たちは、いったい先客はどういう人だろうと探りを入れているようです。

 邸の者たちは心得ていて、ともかくも、さあさあと招き入れます。

 途中、「この寝殿はまだ人目を遮る調度類が入れてなくて」の寝殿は、「もとの寝殿を山寺に移したあとに建てた新しい寝殿」(『集成』)なのだそうです。薫は阿闍梨に「この寝殿を壊して、あの山寺の傍らにお堂を建てようと思う」と言っていて(第七章第二段)、八の宮ゆかりの「お堂」ということで、この主人のいなくなった寝殿の材料を使おうということなのでしょうが、私は、寝殿は無くなるのだとばかり思っていました。中の宮も都に出てしまった今、さしあたり人の住む当てのない寝殿を作るとは、ずいぶん豪気なものです。》

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