源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

巻四十八 早蕨

第五段 匂宮、中の宮と薫に疑心を抱く

【現代語訳】

 女房たちも、
「普通一般のようによそよそしくお扱い申し上げなさいますな。この上ないご好意を、今こそよくお分かりでいらっしゃることを、お見せ申し上げる時です」などと申し上げるが、人を介してではなく直にお話し申し上げることは、やはり気が引けるので、ためらっていらっしゃるところに、宮が、お出かけになろうとして、挨拶にお渡りになった。たいそう美しく身づくろいし化粧なさって、見栄えのするお姿である。
 中納言はこちらに来ているのであったと御覧になって、
「どうして、無愛想に遠ざけて外にお座らせになっているのか。あなたには、あまりにどうかと思われるほどに行き届いたお世話ぶりでしたので、私にとっては物笑いにならねばよいがという気もしましたが、さすがにまったく他人行儀なのも、罰が当たるといけません。もっと近くで昔話を語り合いなさい」などと、申し上げなさるものの、
「そうはいっても、あまり気を許したりするのもまたどんなものだろうか。疑わしい下心があるかもしれない」と、言い直しなさるので、どちらの方に対しても厄介だけれども、自分の気持ちとしてもしみじみありがたく思われた方のお心を、今さらよそよそしくすべきことでもないので、

「あの方が思いもしおっしゃりもするように、故姉君の身代わりとお思い申して、このように分かりましたと、お見せ申し上げる機会があったら」とはお思いになるが、やはり何やかやとさまざまに心安からぬことを申し上げなさるので、つらくお思いになるのだった。

 

《女房たちは中の宮にこれまでの感謝の気持ちをしっかり示さなくてはならないと諭します。「女房たちも」というのは、薫もこうして近づこうとするし、ということでしょうか。

女房たちの気持ちには、もちろん礼儀として必要だと諭す気持ちとともに、そうすることで薫の度々の訪問を、経済的に、またミーハー的に、期待する気持ちもあるのでしょう。

もちろん彼らの言うことは一般論としてはそのとおりですが、中の宮としては、すでに別の男性の妻となった以上、夫のいないところで薫のような人と向き合うことは、いくら後見人格と言っても、そうそう気安くはできないという気がします。

 ためらっているところに、幸い匂宮が出かける挨拶にやって来ました。そして宮はここに来てみて「中納言はこちらに来ているのであった(原文・中納言はこなたになりけり)」と、初めて薫がこちらに来たことを知ったようです。

前段でも触れましたが、薫がご機嫌伺いにここに来ること自体は自然なことですが、宮に黙って来たというのは、ちょっと不自然な気がします。

宮は、一応遠慮しないで「もっと近くで昔話を語り合いなさい」と勧めるのですが、そもそも中の宮を都に呼び寄せることにした理由の一つには薫の魅力的な様子に「何となく不安になった」(総角の巻第七章第七段1節)ことがあったからなのであって、こういう様子を見ると、心穏やかではいられません。ついついちょっとした嫌味も言いたくなります。

それにしても「言い直しなさる」とは、実際にこの言葉を口にしたということなのでしょうか。ずいぶんストレートです。

中の宮にしてみれば、だからこそ薫を気の毒だとも思い、女房たちの勧めがあっても、なお少し他人行儀に相手をしていたのに、それを夫からまた嫌味を言われて、難しい立場に置かれることになってしまいました。

せっかくの春の訪れですが、ちょっと暗い兆しが芽生えてきて、物語は新たな展開に向かいます。》

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第四段 薫、桜の花盛りに二条院を訪ね中の宮と語る

【現代語訳】

 花盛りのころ、二条院の桜を御覧になると、主人のいない山荘がまず思いやられなさるので、「心やすくや(見るものもいないままに散っているだろう)」などと、独り口ずさみ、思い余って、匂宮のお側に参上なさった。
 こちらにばかりおいでになって、すっかり住みなれていらっしゃるので、

「結構なことだ」と拝見するものの、例によってどうかと思われる心が混じるのは、妙なことであるよ。けれども、本当のお気持ちは、とてもうれしく安心だとお思い申し上げなさるのであった。
 何やかやとお話を申し上げなさって、夕方、宮は参内なさろうして、お車の設えをしてお供の人びとが大勢集まって来たりなどしたので、お立ちになって、対の御方へ参上なさった。
 山里の様子とはうって変わって、御簾の中で奥ゆかしく暮らしていて、かわいらしい童女の透影がちらっと見えた子を介して、ご挨拶申し上げなさると、お褥を差し出して、昔の事情を知っている人なのであろう、出て来てお返事を申し上げる。
「朝夕の区別もなくお訪ねできそうに存じられます近さですが、特に用事もなくてお邪魔いたすのも、かえってなれなれしいという非難を受けようかと、遠慮しておりますうちに、世の中がすっかり変わってしまった気がしますよ。お庭先の梢も霞を隔てて見えますので、胸の一杯になることが多いことです」と申し上げて、物思いに耽っていらっしゃる様子がお気の毒なので、
「おっしゃるとおり、もし生きていらっしゃったら、何の気兼ねもなく行き来して、お互いに花の色や鳥の声を、季節折々につけては、少し心楽しく過すことができたのに」などと、お思い出しになるにつけて、一途に引き籠もっての生活の心細さよりも、ひたすら悲しく残念なことがいっそうつのるのであった。

 

《「花盛りのころ」は、「三月の上旬と思われ」、「二条院の桜をご覧になる」は「薫は新築の三条の宮にすでに移っている趣」と『集成』が言います。その三条邸から二条院の桜を見て、薫は宇治を思い、大君を思っていました。

 夕霧が二月にと考えていた六の君と匂宮の婚儀は、何も語られていないところをみると、どうやら延期となってしまったようです。

 さて、何を見ても宇治が思われる薫は、そういう時についつい匂宮と中の宮のいる二条院に足が向きます。もっとも、折々にどうも「どうかと思われる心が混じ」るようですが、それでも、中の宮の恵まれた様子に「本当のお気持ちは、とてもうれしく安心だと(原文・実の御心ばへは、いとあはれにうしろやすく)」思っている、と保証します。

この日、匂宮は夕方から参内で、薫を残して出て行く準備を始め、薫はそれでは、と、立って中の宮のいる西の対(総角の巻末)に行きました。

そこでは中の宮が「山里の様子とはうって変わって、御簾の中で奥ゆかしく暮らして」いました。「うって変わって」とは、「田舎ものが急にきらびやかな御殿にきてまごついている」のではなくて「二条院のあるじとして自然に振舞っている」ように、薫に感じられたのだと『評釈』が言います。宇治で、父宮の逝去以来、寂しさと頼りなさと不安とでずっと泣き暮らすような生活をしていた人とは思えない、堂々たる変身ぶりだったということなのでしょう。

置かれた場所が激変する中で、なおその立場に相応しい振る舞いができるというのは、確かに立派なことで、大君の「一緒になってみてがっかりすることはないだろう」という見立て(総角の巻第二章第一段)は正しかったわけです。

一方中の君の方は、「胸の一杯になることが多いことです」という薫の言葉に改めて姉を思い、自分がこうして恵まれたことになっているので余計に、不遇のままに逝った姉のことがつらく思い出されるのでした。

ところで、薫の行動はこのように語られるのですが、次の段を見ると、実はこの時、匂宮は薫が中の宮のところに行こうとして立ったのだということを知らないようなのです。つまり薫は、勝手にこの邸の中を動き回り、しかも勝手に邸の主人の妻の部屋を訪ねたということで、これはまずいのではないかと心配になりますが。》

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第二段 中の宮、京の二条院に到着

【現代語訳】

 宵が少し過ぎてお着きになった。見たこともない様子で、光り輝くような殿造りで、『三つば四つばなる(三棟四棟と建ち並んでいる)』邸内にお車を引き入れて、宮は今か今かとお待ちになっていたので、お車の側にご自身お寄りになってお下ろし申し上げなさる。
 お部屋飾りなどもこれ以上なく整えて、女房の部屋部屋までお心配りしていらっしゃったことがはっきりと窺えて、まことに理想的である。どの程度の待遇を受けるのかとお考えになっていたご様子が、急にこのようにお定まりになったので、

「並々ならないご愛情なのだろう」と、世間の人びともゆかしく思って驚いているのであった。
 中納言は、三条宮邸に今月の二十日過ぎにお移りになろうとして、最近は毎日おいでになって御覧になっているが、この院が近い距離なので様子も聞こうとして、夜の更けるまでいらっしゃったので、差し向けていらっしゃっていた御前の人々が帰参して、有様などをお話し申し上げる。
 たいへんお気に召して大切にしていらっしゃるそうだということをお聞きになるにつけても、一方では嬉しく思われるが、やはり自分の考えたことながら馬鹿らしく、胸がいっぱいになって、「ものにもがなや(取り返せないものだろうか)」と、繰り返し独り言が出てきて、
「 しなてるや鳰の湖に漕ぐ船のまほならねどもあひ見しものを

(琵琶湖の湖に漕ぐ舟のように、まともではないが一夜会ったこともあったのに)」
とけちをつけたくもなる。

 

《「宵」というのは「日が暮れて暗くなってから」「ヨナカ」になるまでの時間(『辞典』)だそうです。宇治を立ったのが「日が暮れてしまいそうだ」(前段)と言われたからでしたから、「道中の遠く険しい山道」(前段)とあった割には、案外早く着いたようです。

 来てみると、そこは「光り輝くような殿造り」の邸でした。匂宮が待ちあぐねていて、下へも置かぬ出迎えで、彼女の部屋だけでなく、女房たちの部屋にも心配りが行き届いているほどでした。『講座』所収「中の宮の都移り」(吉岡曠著)は「れっきとした夫人待遇」と保証して言います。

「どの程度の待遇を…お定まりになったので」の原文は「いかばかりのことにかと見えたまへる御ありさまの、にはかにかく定まりたまへば」で、ここでは、中の宮のこととして訳しました(『評釈』、『谷崎』訳)が、匂宮のこととして考える(『集成』訳)ほうがいいかも知れません。

すると、世評では「浮気で気まぐれでより好みのはげしい匂宮」(『評釈』)がどんな女性をどんなふうに迎えるかということは衆目の集まるところだったのだが、こうした丁重なお迎えで、急に身を固めたので、ということになります。

「いかばかり」とあるので、中の宮のことのようですが、「にはかに」に注目すると匂宮のことのように見えます。

が、いずれにしても、匂宮の立派な迎え方を見て、人々は驚きながら中の宮をさぞかし素晴らしい人なのだろうと納得したという点では同じで、人々は、その幸運を羨むばかりです。

読者としては、このときの中の宮自身の気持ちをぜひ知りたいのですが、作者は語ってくれません。宇治では、あれほど宮を待っていたのであり、大変な不安を抱いてやって来たところでの宮のこうした歓待ぶりですから、小さくない感動があると思うのですが、…。

 そのころ薫は、その二条院にほど近い、自分が修復中の三条宮に来ていて、そこから情報収集していたのですが、無事到着と聞いて、ほっとする一方で、とうとうこうして宮に取られてしまったと思うと、一人ひそかに臍を噛む思いです。》

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第一段 中の宮、京へ向けて宇治を出発

【現代語訳】

 すっかり掃除し何もかも始末して、お車を何台も寄せて、ご前駆の供人は四位五位がたいそう多かった。ご自身でもたいへんおいでになりたかったが、仰々しくなって、かえって不都合なことになるので、ただ内密に計らって、気がかりにお思いになる。
 中納言殿からも、ご前駆の供人を数多く差し上げなさる。ひととおりのことは宮からの指示があったようだが、こまごまとした内々のお世話は、みなこの殿から、気のつかないことのなくお計らい申し上げなさる。
 日が暮れてしまいそうだと、内からも外からもお促し申し上げるので、気ぜわしく、京はどちらの方角だろうと思うにつけても、ただもうたいへん頼りなく悲しいという気がなさっている時に、お車に同乗する大輔の君という女房が言う。
「 ありふればうれしき瀬にも逢ひけるを身を宇治川に投げてましかば

(生きていればこそ嬉しい事に出合いましたのに、もしも憂いて身を宇治川に投げて

しまっていましたら)」
 ほほ笑んでいるのを、

「弁の尼の気持ちとはたいへんな違いだ」と気にくわなく御覧になる。もう一人の女房が、
「 過ぎにしが恋しきことも忘れねど今日はたまづもゆく心かな

(亡くなった方を恋しく思う気持ちは忘れませんが、今日は何をさしおいてもまず嬉

しく思われます)」
 どちらも年老いた女房たちで、みな亡くなった方に好意をお寄せ申し上げていたようなのに、今はこのように気持ちが変わって言忌するのも、

「薄情な世の中よ」と思われなさると、何もおっしゃる気になれない。
 道中の遠く険しい山道の様子を御覧になるにつけ、つらくばかり恨まれた方のお通いを、

「しかたのない途絶えであった」と少しお分かりになるのだった。七日の月の明るく射し出した光が、美しく霞んでいるのを御覧になりながら、たいそう遠くて、馴れないことでつらいので、つい物思いなさって、
「 ながむれば山よりいでてゆく月の世にすみわびて山にこそ入れ

(考えると山から出て昇って行く月も、この世が住みにくくて山に帰って行くのだ)」
 生活が変わって、結局はどのようになるのだろうかとばかり、不安で、将来が気になるにつけても、今までは何を思っていたのだろうと、昔を取り返したい思いである。

 

《中の宮は京に向かって出立します。匂宮については「ご自身でもたいへんおいでになりたかったが」と、相変わらず誠実さをアピールする格好です。しかし、身分柄、容易に動けませんので、中の宮は、薫もおらず弁も同行しないまま、単身、見も知らぬ都に向かって故郷を離れて行かなければなりません。

 皆が都に上れるとあって浮かれていて、早く早くと督促します。側近として車に同乗する女房からして、君の思いを思いやる気配もなく浮かれて喜びの歌を詠みます。もちろん普通にはめでたい門出ですから、「言忌する」(「不吉な言葉を避けること。女房たちは、大君のことにはつとめて触れまいとして、祝意をあらわすにもっぱらである」(『集成』)のですが、今の中の君の気持ちには、ただ「気持ちが変わっ」たのだという気がして、情けないばかりです。

それにしても、その歌は、仮にも結婚の旅立ちであるにもかかわらず「身を宇治川に投げて」と、あり得ない言葉遣いであり、さらにもう人は大君の逝去を引き合いに今日の喜びを詠むといった、これもまた勝るとも劣らない無神経さだ、という気がするのですが、どうなのでしょうか。

揃いも揃っていかにもものを知らぬ侍女のようで、中の宮が、今後こういう者たちが(弁に替わってということでしょうか)お傍に着くと思ってみると、一体どうなることかと暗澹たる気持ちになるのも、無理なく思われます。

 道中は、匂宮が通った道です。そこを初めて通ってみると、その険しさ、遠さがよく分かって、なるほど宮の訪れが少なかったのも無理はないと納得します。先に挙げた「宇治の中君再論」(総角の巻第七章第七段1節)は「現実の人生に対する中君の認識の深まりを看取し得るであろう」と言って、この人の賢さを挙げます。

しかしもちろんそれは読者の方の話で、彼女自身は、逆に自分が今どれほど遠くに行こうとしているかということを思わされ、月を見ても、私はきっと宇治の山里に帰ることになるのだというようなことばかりが思われます。

今は、あれほど様々なもの思いをした山里の暮らしも、これからの生活の不安に比べれば、何事もなかった穏やかな日々だったように思えてきます。》

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第九段 弁の尼、中の宮と語る

【現代語訳】

 お悲しみになってお話しになっていたご様子を話して、弁は、ますます気持ちの晴らしようがなく悲しみに暮れていた。女房たちは満足そうな様子で、衣類を縫い用意しながら、年老いた容貌も気にせず、身づくろいにうろうろしている中で、ますます質素な衣にして、
「 人はみないそぎたつめる袖の浦にひとり藻塩を垂るるあまかな

(人々は皆準備に忙しく繕い物をしているようですが、一人涙に暮れている私です)」
と訴え申し上げると、
「 しほたるるあまの衣に異なれや浮きたる波に濡るるわが袖

(涙に暮れるあなたの衣と同じです、頼りない今後にこぼれる涙にぬれた私の袖は)
 結婚生活に落ち着くことも、とても難しいことと思われるので、事情によってはここを荒れはてさせまいと思うので、そうしたら会うこともありましょうが、暫くの間でも心細くお残りなのをそのままにしておくので、ますます気が進みません。このような尼姿の人も、必ずしも引き籠もってばかりいないもののようですので、やはり世間一般の人のように考えて、時々会いに来てください」などと、とてもやさしくお話しになる。亡き姉君がお使いになったしかるべきご調度類などは、みなこの尼にお残しになって、
「このように、誰よりも深く悲しんでおいでなのを見ると、前世からも、特別の約束がおありだっただろうかと思うとなおのこと、慕わしく胸がいっぱいになります」とおっしゃると、ますます子供が親を慕って泣くように、気持ちを抑えることができず涙に沈んでいた。

 

《薫が宇治と疎遠になってしまうことをたいへん悲しんでいた、ということを、中の宮に伝えて、弁は、大君に逝かれ中の宮も去って行き、そして薫も遠ざかることを実感して、ますます悲しみに暮れています。『評釈』は「ますます気持ちの晴らしようがなく」を、「(薫の)心の寂しさと悲しさをますます知ったのである」と注していますが、ここは薫のために悲しんでいるのではなく、後の歌からも、彼女自身の悲しみと考える方がいいのではないでしょうか。

 周囲の女房たちは、「(自分たちの)年老いた容貌も気にせず」、ただ都に上れることを喜び楽しみにして、華やいでいます。その中で、弁は「ますます質素な衣にして」とありますが、彼女が特に衣を改めたというのでは、何やら当てつけのように思われて、彼女らしくありません。周囲の華やぎの中で彼女の尼姿がだんだんに際立つようになっていった、というように読んではどうかと思います。もちろん彼女の方もまた、自分ひとりが場違いな気がしてきます。

 事情は違いますが、場違いで沈んだ気持ちでいるという点では、中の宮も同じです。弁の歌に応じながら、中の宮は、誰にでもは言えない自分の正直な気持ちを弁に語り、せめてたまには話に来てほしいと言い残し、大君ゆかりの多くの調度を弁に残していくことにしながら、別れの悲しみと不安とで、ただ涙です。

こうして弁は、宇治に残るのですが、実はこの後また「罪の子薫の恋を宿命的に展開させる」(『講座』所収「弁の君と女房たち」)という大きな役割を担うことになってきます。しかしそれは今の彼女の知るところではありません。》

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