【現代語訳】
「最近の世の中は、どのようになっているのでしょうか。宮中などでは、このような秋の月の夜に御前での管弦の御遊の時に伺候する人達の中で、楽器の名人と思われる人びとばかりがそれぞれ得意の楽器を合奏しあった調子などの仰々しいのよりも、嗜みがあると評判の女御、更衣の御局々がそれぞれは張り合っていて、うわべは親しくしているようでありながら、夜更けたころの辺りが静まった時分に、悩み深い風情に掻き調べ、かすかに流れ出る楽の音色などが、聞きどころのあるのが多かったことです。
何事につけても、女性というのは、慰み事の相手にちょうどよく、何となく頼りないものの、人の心を動かす種であるのでしょう。それだから罪が深いのでしょうか。子を思う道の闇を思いやるにも、男の子はそれほども親の心を乱さないでしょうか。女の子は、運命があって、何とも言いようがないと諦めてしまわねばならないような場合でも、やはり、とても気にかかるもののようです」などと、一般論としておっしゃるが、どうしてそのようにお思いにならないことがあろうか、おいたわしく推察される宮のご心中である。
「すべてほんとうに、先程申し上げましたように、この世の事は執着を捨ててしまったせいでしょうか、私自身としては何につけても身に付けたものはありませんけれども、ほんとうにつまらないことですが、音楽に耳を傾ける気持だけは捨てることができません。分別くさく修行に専念する迦葉も、それだから、立って舞ったのでございましょうか」などと申し上げて、名残惜しく聞いたお琴の音をぜひとお望みになるので、親しくなるきっかけにでもとお思いになってか、ご自身であちらにお入りになって、ぜひとお勧め申し上げなさる。
箏の琴をとてもかすかに掻き鳴らしてお止めになった。常にもまして人の気配もなくひっそりとして、しみじみとした空の様子や場所柄から、ことさらでない音楽の遊びが心にしみて興趣深く思われるが、気を許してどうして合奏なさろうか。
「自然とこのように引き合わせることになったからには、先の長い者同士にお任せ申そう」と言って、宮は仏の御前にお入りになった。
「 われなくて草の庵は荒れぬともこのひとことはかれじとぞ思ふ
(私が亡くなって草の庵が荒れてしまっても、この琴の一声とともに一言の約束だけ
は守られようと存じます)
このようにお目にかかることも今回が最後になるだろうかと、何となく心細いのに堪えかねて、愚かなことを多くも言ってしまったことです」と言って、お泣きになる。客人は、
「 いかならむ世にかかれせむ長き世の契りむすべる草の庵は
(どのような世になりましても訪れなくなることはありません、この末長く約束を結
びました草の庵には)
相撲など公務に忙しいころが過ぎましたら、伺いましょう」などと申し上げなさる。
《八の宮は話し始めます。
彼の話はやはり音楽のことで、これまで幾度も言われてきたことですが、ここでもやはり、彼の宮中生活の経験として、その道の専門家で名人と言われる人よりも、「嗜みがある」女御、更衣といったアマチュアが「悩み深い風情に(原文・心やましく)掻き調べ」た音楽の方が「聞きどころのある」ものだったと言います。
しかし彼はそういう音楽論をしようと思ったのでなくて、その「悩み深い」女性というところから、実は姫君についての心配を話しているようです。
女性の悩み深さは、女性が「慰み事の相手にちょうどよく(原文・もてあそびのつまにしつべく)」、「何となく頼りないものの人の心を動かす種である」ことにあるのであって、それが、女性がそうしようと思ってすることではないだけに「罪が深い」というところにあるのではなかろうか、男の子なら自分で処理せよと思ってしまうことができるけれども、女の子は自分でどうにもならないと思うと、放っておけない気がする、と宮は語ります。
死期を感じての宮のこの嘆きに対する薫の返事は、「音楽に耳を傾ける気持だけは捨てることができません」というもので、的外れのように聞こえますが、実はそれは「名残惜しく聞いた(姫君の)お琴の音を、ぜひとお望みになる」ための前振りであって、それとなく「(姫たちと)親しくなるきっかけ(原文・うとうとしからぬはじめ)」を求めることによって宮に安心を与えようとしているとも考えられます。
宮は実際にそのように思って、「ご自身であちら(姫たちのいるところの)にお入りになって」、あえて姫たちに演奏させるのでした。請われて姫はほんの形ばかり弾いて、すぐにやめます。依然と同じく恥ずかしいこともあるでしょうが、今は自分たちを思う父の哀切な話に耐えがたかったのでしょう。それでもそのわずかな琴の音は、薫には「場所柄から、ことさらでない音楽の遊びが心にしみて」感じられました。
宮は、あとは若い人たちだけでお近づきになって下さいと、仏の間に引っ込みます。
ここで『評釈』が、「場所柄(原文・所のさま)」に注目して、「『折から』『所のさま』」と小見出しを付けて、私にとっては刮目の解説をしています。
曰く、「作者は『所がら』『折から』を重んじる人である。技術的な熟達ばかりでなく、弾く人の人がらを重んじる人である。…その人の内にあるものは『所がら』『折から』に誘い出されることが多い。折にふれ、辺りの様子に誘い出されて、うちに秘められたものが、自らほころび出る。作者は、これを重んじるようである」。
この物語では、これまで幾度もさまざまな芸事について、主人公たちの芸の方がその道の専門家たちよりも勝れているという話が出てきました(例えば紅葉賀の巻頭など)が、それはこういう美学からのものだったようです。つまり、専門家の芸は芸自体「技術的」には成立しているにしても、もっと大切なことは、その芸が、いかにその折り、その場、その人に自然に馴染んでいるか、いかにうまくその場全体の調和の中にあるか、ということなのだという観点からのことだったのだと、理解しました。
そういえば、時にそういう場面で演じられた曲名が克明に語られることがありましたが、あれも、場にふさわしい曲を選ぶという意味で重要な意味があったのでしょうか。
その場にふさわしい見事な芸ができる人は、その場全体を捉えている、または作り上げている立派な人であり、逆に立派な人は必然的に見事な芸ができるはずだ、という感覚です。まったく、もっと早く書いておいて欲しかったと思います。》