源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

巻四十六 椎本

第四段 障子の向こう側の様子

【現代語訳】

 まず一人が立って出て来て几帳から覗いて、このお供の人びとがあちこち行ったり来たりして涼んでいるのを御覧になるのであった。

濃い鈍色の単衣に萱草の袴が引き立っていて、かえって様子が違って華やかであると見えるのは、着ていらっしゃる人のせいのようである。
 帯を形ばかりむすび垂らして、数珠を隠して持っていらっしゃった。たいそうすらりとした背丈の、姿の美しい人で、髪が袿に少し足りないぐらいだろうと見えて、末まで一筋の乱れもなくつやつやとたくさんあって、可憐な風情である。横顔などは、実にかわいらしげに見えて、色つやがよく、物やわらかにおっとりした感じは、女一の宮もこのようでいらっしゃるだろうと、ちょっと拝見したことも思い比べられて、嘆息を漏らされる。
 もう一人がいざり出て、

「あの障子は丸見えではないかしら」とこちらを御覧になっている心づかいは、用心深そうな様子で、嗜みがあると思われる。頭の恰好や髪の具合は、前の人よりもう少し上品で優美さが勝っている。
「あちらに屏風を添えて立ててございました。すぐには、お覗きなさらないでしょう」と、若い女房たちは疑いもせずに言う者もいる。
「大変なことですよ」と言って、不安そうにいざってお入りなるとき、気高く奥ゆかしい感じが加わって見える。黒い袷を一襲、同じような色合いを着ていらっしゃるが、こちらはやさしく優美で、しみじみとおいたわしく思われる。
 髪はさっぱりした程度に抜け落ちているのであろう、末の方が少し細くなって、見事な色とでも言うのか、かわせみのようなとても美しい様子で、より糸を垂らしたようである。紫の紙に書いてあるお経を片手に持っていらっしゃる手つきが、前の人よりほっそりとして、痩せぎすなのであろう。立っていた姫君も、障子口に座って、何があるのであろうか、こちらを見て笑っていらっしゃるのが、とても愛嬌がある。

 

《掛け金の穴から覗いている薫に、障子の向こうの部屋の二人の姫の動きが見えました。

 一人は立って、薫の視線を横切って横の簀子の方に行き、外で休んでいる薫の従者たちの様子を眺めます。

もう一人は、それに誘われるように、あとからいざって出てきました。

薫はその横からの姿を存分に見ることができましたが、二人は、まったく対照的でした。

前の姫は、「帯を形ばかりむすび垂らして」くつろいだ様子であり、喪服姿であるにもかかわらず「かえって様子が違って華やか」に見えるような人(つまり彼女自身華やかな雰囲気を持った人ということのようです)です。立ち姿も美しく、髪は「末まで一筋の乱れもなくつやつやとたくさんあって、可憐な風情」であり、顔は「実にかわいらしげに見えて、色つやがよく、物やわらかにおっとりした感じ」の人で、笑い顔が「とても愛嬌がある」のでした。

 もう一人の姫は、こちらは「用心深そうな様子で、嗜みがある」ように見え、「前の人よりもう少し上品で優美さが勝って」「気高く奥ゆかしい感じ」です。「髪はさっぱりした程度に抜け落ちている」というのは変な言い方ですが、

、「前の人よりほっそりとして、痩せぎす」でることとともに、やはり悲しみにやつれた感じを言うのでしょう。それでもその髪も、「かわせみのようなとても美しい様子で、より糸を垂らしたよう」と絶賛される美しさではあります。

 前の姫は明るくふくよかで華やかな美しさ、あとの姫はほっそりとして愁いを含み、控えめでつつましく品にいい美しさ、ということになりましょうか。姉は保護者を失った気持ちでいますが、妹の方はまだ姉に守られているところがあって、自然と、前の姫が妹、あとの方が姉姫という感じなるように思います。

 「しみじみとおいたわしく思われる(原文・あはれげに、心苦しうおぼゆ)」は妹君にはまったくない言葉で、作者からの説明であると同時に、薫の気持ちを言っているようで、姉姫の様子というよりも、薫の胸にキュンと来た感じを言うのではないでしょうか。

 途中、「女一宮」は急に出てきた人で「今上の第一皇女、明石の中宮腹」(『集成』)ということらしく、後にその美しさが語られる人ですが、ここでの話題としてはちょっとフライング気味です。

 さて、ここまで宇治の様子が長々と語られてきながら、この二人の姫君の具体的な姿はほとんど語られませんでしたが、やっとここで明らかになり、いよいよこの人たちがヒロインとなる資格を得て、次から物語の本題が動き始めることになります。》

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第三段 夏、薫、宇治を訪問

【現代語訳】

その年は、例年よりも暑さを人がもてあますのに、

「川辺が涼しいだろうよ」と思い出して、急に参上なさった。朝の涼しいうちにご出発になったので、折悪く差し込んでくる日の光も眩しくて、宮が生前おいでになった西の廂の間に、宿直人を召し出してお控えになる。
 そちらの母屋の仏像の御前に姫君たちはいらっしゃったが、近すぎないようにと、ご自分のお部屋にお渡りになるご様子が、音を立てないようにしていても、自然とお動きになるのが近くに聞こえたので、じっとしていられず、こちらに通じている障子の端の方に掛金がしてある所に、穴が少し開いているのを見て知っていたので、外に立ててある屏風を押しやって御覧になる。ちょうどそのところに几帳を立て添えてあるので、

「ああ、残念な」と思って、身を引こうするちょうどその時、風が簾を高く吹き上げるようにするので、
「丸見えになったら大変です。その御几帳を押し出して」という女房がいるようである。愚かなことをすると思うけれども嬉しくて御覧になると、高いのも低いのも几帳を二間の簾の方に押し寄せて、この障子に向かって開いている障子から、あちらに行こうとしているところなのであった。

 

《三条宮の焼失は春の終わりのことだったのでしょうか、季節は夏になって例年にない暑さになり、薫は「川辺が涼しいだろうよ」と宇治行きを思い立ちました。去年の冬以来、半年ぶりのことで、ずいぶん間遠な訪問です。しかし、あの時も、年が明けると忙しくて行かれないだろうからと思ったのでした(第四章第二段)が、やはりまだ相変わらずこういうふうに、自分に何かの口実を言い聞かせないと、行く踏ん切りがつかないということなのでしょうか。

そして自分に言い聞かせることができると、「急に参上なさ」といったふうに、すぐに行動に移します。それは彼がどれほど宇治に心惹かれていたかということを物語ります。

行くとすぐに彼は幸運に恵まれました。

彼は廂の間に坐ったのでしたが、母屋の姫君たちが恥じらって下がろうとして動く様子が感じられて、薫は、障子(「屋内の間と間の隔てに立てて人目を防ぐもの。襖、衝立、明かり障子がある。襖障子は板戸で…多く掛け金がある」・『辞典』)の掛け金の穴から、その様子を覗き見ます。ずいぶんみっともない、貴公子らしからぬ恰好のように思われますが、当時としてはありうる姿なのでしょう。

しかし、目の前に屏風があって中が見えません。ところがちょうどその時、風が吹いて几帳を吹き上げましたので、母屋の中で几帳をその邪魔になっていた屏風で抑えようと動かしたものですから、奥の部屋へ入ろうとする姫たちの姿が見えたのでした。

柏木が女三宮を几帳の隙間から初めて垣間見た時(若菜上の巻第十三章第五段)のような偶然が重なっての幸運でした。

『評釈』がこの時の人や物の配置をたいへん分かりやすく図にしています。》

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第二段 その後の匂宮と薫

【現代語訳】

 お胸に抑えきれなくなって、ひたすら中納言をあれやこれやとお責め申し上げなさるので、おもしろいと思いながら、いかにも誰憚らない後見役の顔をしてお返事申し上げて、好色っぽいお心が表れたりする時々には、
「とてもとてもこのようなお心では」など、お咎め申し上げなさるので、宮もお気をつけなさるらしい。
「気に入った相手が、まだ見つからない間のことです」とおっしゃる。
 大殿の六の君を心におかけにならないことを、いささか恨めしそうに、大臣もお思いになっているのであった。けれども、
「珍しくもない間柄のある上に、大臣が仰々しくけむたくて、どんな浮気事でも咎められそうなのがうっとうしくて」と陰ではおっしゃって、嫌がっていらっしゃる。
 その年、三条宮が焼けて、入道宮も六条院にお移りになり、何かと騒々しい事に紛れて、宇治の辺りを久しくご訪問申し上げなさらない。生真面目な方のお気持ちは、また普通の人と違っていたので、たいそうのんびりと、

「自分のものと期待しながらも、女の心が打ち解けないうちは、不謹慎な無体な振る舞いは見せまい」と思いながら、

「以前の故宮とのお約束を忘れていないことを、深く分かっていただきたい」とお思いになっている。

 

《匂宮は宇治の姫君にじらされている感じで、薫に会う機会を作るように矢の催促ですが、薫の方はもともと宮のそういう姿を見るのが狙いで話したことで(橋姫の巻第三章第九段2節)、ここでも、彼の求めに簡単に応じようとはしません。

時たま宮は他の女性への関心を示したりするようで、薫がそんな不真面目なようでは仲立ちはできないと、からかうと、宮は「気に入った相手が…」と言い訳します。宇治の姫に逢えないでいる間のことだ、あなたが逢わせてくれれば、他に目を向けたりはしない、という意味のようです。

『評釈』は、ここの二人について「匂宮のほうが、正直であり、自己に没頭している。薫は、何事もわかりすぎて、かえって不正直である」と勧善懲悪的評価を下していますが、心に背負うものの何一つない人の正直など、子供じみて何の魅力もないとも言えますし、例えば『無名草子』は薫を「はじめより終わりまで、さらでもと思ふふし一つ見えず、めでたきひとなり」と言っているわけで、物差しが違うように思われます。

ここはそういう評価をするところではなく、仲のいい若者らしいたわいのないやり取りを楽しめばいいところと言うべきでしょう。

その匂宮は、夕霧から六の君をほのめかされているのですが、父親が几帳面な人で窮屈に思われ、また身近な縁者で恋のときめきがないのが面白くないと、どうも乗り気ではありません。彼は帝の三男坊らしく、特権を持ちながら、あくまでも自由でありたいので、当面、人知れず片田舎に暮らしている姫たちの方が、よほど魅力的に思われています。

そんな時に薫と女三宮の住まいである三条宮が焼けて、二人して六条院に移った、と、実に簡単に書かれます。この人たちにとって、その邸が焼失することは、その程度のことなのでしょうか。ちょっと驚かされます。

さすがに薫はその後始末に追われて宇治への訪れが途絶えていました、と話は続いていきますが、宇治行きが間遠になったことを言うためだけの三条宮焼失だったような感じです。しかし、『評釈』も『集成』もそのことは何も話してくれていません。

薫は、あの大君は、遠くに隠している思い人として、もう自分のものという気持ちでいますが、彼女の心が解けるまで待とうと、急ぐ様子がありません。そういう薫の態度に『評釈』も『構想と鑑賞』も注目して、ここに彼の、「複雑で微妙な」(『評釈』)、または「善良で気の永い独特の」(『構想と鑑賞』)人間性を見ようとしています。

しかし、もともと故宮の求道に共感していることで姫君たちの信用を得て現在の交際があるのですから、その求道を捨てて恋心を前面に出すようなことは、得ている信用を壊しかねないはなはだ危険なことであって、しかも今姫たちがすでに自分の手にあるといってよいのなら、姫たちの方で気持ちが変わるまで待とうと考えるのは、光る源氏のような人でなく、少しブレーキを持った人なら、普通に考えそうなことだという気がするのですが、どうなのでしょうか。

なお、小さな言葉の問題で、「気に入った相手が、まだ見つからない間」の「見つからない」の原文は「見つけぬ」で、諸注、このように訳していますが、発見するの意のように思えて落ち着きません。「つけ」は、行きつけの店、などのように、「よく…する」つまりここは親しく会っていない、という意味に取りたいのですが、どうでしょうか。》

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第一段 新年、阿闍梨、姫君たちに山草を贈る

【現代語訳】

年が変わったので、空の様子がうららかになって汀の氷が一面に解けているのを、不思議な気持ちで眺めていらっしゃる。聖の僧坊から、

「雪の消え間で摘んだものでございます」といって、沢の芹や蕨などを差し上げた。精進のお膳にして差し上げる。
「田舎は田舎で、このような草木の様子に従って、移り変わる月日の節目も見えるのは、おもしろいことです」などと、人びとが言うのを、

「何のおもしろいことがあろうか」とお聞きになっている。
「 君が折る峰の蕨と見ましかば知られやせまし春のしるしも

(父宮が摘まれた峰の蕨だと思って見るのなら、春が来たしるしだという気もしましょ

うが)」
「 雪深き汀の小芹誰がために摘みかはやさむ親なしにして

(雪深い汀の小芹も誰のために摘んで楽しみましょうか、親のない私たちですのに)」
などと、とりとめのないことを語り合いながら、日をお暮らしになる。
 中納言殿からも宮からも、折々の機会を外さずお見舞い申し上げなさる。厄介で何でもないことが多いようなので、例によって書き漏らしたようである。

花盛りのころ、匂宮は「かざし」の歌をお思い出しになって、その時お供でご一緒した公達なども、
「実に趣のあった親王のお住まいを、二度と見ることもなくなってしまいました」などと、なべての世の中のはかなさを口々に申し上げるので、たいそう行ってみたくお思いになるのであった
「 つてに見し宿の桜をこの春は霞へだてず折りてかざさむ

(昨年は行きずりに眺めたお邸の桜を、今年の春は霞を隔てず手折ってかざしたい)」
と、気持ちのままおっしゃるのであった。

「とんでもないことだわ」と御覧になりながら、とても所在ない折なので、素晴らしいお手紙のうわべの趣だけでも無にすまいと思って、
「 いづくとか尋ねて折らむ墨染に霞こめたる宿の桜を

(どこと尋ねて手折るのでしょう、墨染に霞み籠めている家の桜を)」
 やはり、このように突き放して、素っ気ないお気持ちばかりが見えるので、ほんとうに恨めしいとお思い続けていらっしゃる。

 

《年が変わって春が訪れますが、姫君たちの心から父のいないことの嘆きが薄らぐことはありません。

阿闍梨の僧坊から、春の知らせである芹や蕨が届けられて、女房達はいつになく田舎ならではの季節感を楽しんでいるのですが、二人の姉妹だけはそれを見ても「何のおもしろいことがあろうか(原文・何のをかしきならむ)」と、ほとんど腹を立てているような様子で関心を示さず、そういうふうに時が移ったことが信じられず、それ以外のことは受け付けることができない気持です。

その間、薫や匂宮は折々に便りをするのですが、それを作者は「例によって書き漏らしたようである」と省略します。この物語にはよく出てくるやり方ですが、しかしここは単に省略したというだけではなくて、あたかも姫君たちがその手紙を「厄介で何でもないこと」と思っていると言っているようにも読めて、現在のこの邸の気分を現している感じです。

一方、京では、「(桜の)花盛りのころ」、匂宮は去年宇治を訪ねた時(第一章第四段)の「『かざし』の歌を思い出し」ていました。あの時一緒に行った従者たちもその話をしますので、宮はいっそう心をそそられて、「この春は霞へだてず折りてかざさむ」と歌を送ります。もちろんこれは「姫君をわがものにしたい」(『集成』)という意味を持っているわけですが、姫たちの心は、今まったくそういうことに向いていません。この人の思いはこのようにしばしば相手の思いを考えない一方的なものです。

しかし、こういう風流をさすがにそのままにしては置けませんので、それなりの恋の駆け引きの歌をお返しします。詠んだのはやはりこれまで通り中の君なのでしょう。》

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第五段 薫、人びとを励まして帰京

【現代語訳】

「すっかり暮れてしまうと、雪がますます空まで塞いでしまいそうです」と、お供の人びとが促すので、お帰りになろうとして、
「おいたわしく見回されるお住まいの様子ですね。まったく山里のようにたいそう静かな所で、人の行き来もない所がありますが、もしそのようにお考え下さるなら、どんなに嬉しいことでしょう」などとおっしゃるのにつけても、

「とてもすばらしいことだわ」と、小耳に聞いてほほ笑んでいる女房連中がいるのを、中の宮は、

「とても見苦しい、どうしてそのようなことができようか」と見聞きしていらっしゃる。
 御果物を風流なふうに盛って差し上げ、お供の人びとにも肴など体裁よく添えて、酒をお勧めさせなさるのであった。あの殿の移り香を騒がれた宿直人は、鬘鬚とかいう顔つきが気にくわないが、

「頼りない御家来だな」と御覧になって、召し出した。
「どうしているか。お亡くなりになってからは、心細いだろうな」などとお尋ねになる。べそをかきながら、弱そうに泣く。
「世の中に頼る身寄りもございません身の上なので、お一方様のお蔭にすがって、三十数年過ごしましたので、今はもう野山にさすらっても、どのような木を頼りにしたらよいのでしょうか」と申し上げて、ますますみっともない様子である。
 生前お使いになっていたお部屋を開けさせなさると、塵がたいそう積もって、仏像だけ花の飾りが以前と変わらず、勤行なさったと見えるお床などを取り外して、片づけてあった。本願を遂げた時にはと、お約束申し上げたことなどを思い出して、
「 立ち寄らむ蔭とたのみし椎が本むなしき床になりにけるかな

(立ち寄るべき蔭とお頼りしていた椎の本は空しい床になってしまったことだ)」
といって柱に寄り掛かっていらっしゃるのも、若い女房たちは、覗いてお誉め申し上げる。
 日が暮れてしまったので、近い所々に御荘園などで仕えている人びとのところにみ秣を取りにやったのを、主人もご存知なかったが、田舎人びとが大勢引き連れて参ったのを、

「妙に、体裁の悪いことだな」と御覧になるが、老女に用事で来たかのようにごまかしなさった。いつもこのようにお仕えするように、お命じおきになってお帰りになった。

 

《お供の者に促されての帰り際に、薫は、「まったく山里のようにたいそう静かな所で、人の行き来もない所」(「京の薫の本邸、三条の宮のことをいうのであろう」・『集成』)にお移りいただいてもいいと、突然ずいぶん思い切った提案です。しかし、彼としては、ただおいたわしいからお移りいただくだけのことだと、自分には言い聞かせているのでしょう。

身寄りのない姫たちの立場からすれば、普通には、考慮しないのは不思議とも思える話ですが、それより先に、二人の話に聞き耳を立てていたらしい奥の部屋の女房たちが、「とてもすばらしいことだ」と「ほほ笑んでいる(原文・うち笑む)」のでした。

その女房たちについて、『評釈』は「召使女の下品さがにじみ出ている。利益のためには誇りも何も忘れ、にいとほほ笑むあの下品さである」と厳しく断罪しますが、彼女たちにしてみれば当然の反応で、そんなふうに言ってはこれまで姫君たちそういう人の中にいたことになって、その品格までが疑われ、話のレベルが下がってしまいます。

普通レベルの女房の普通の思いを見て、「とても見苦しい、…」と恥じ入るから、この姫たちの特異な高貴さが現れるというものです。

ところで、ここで恥じ入っているのは、大君ではなく中の君でした。大君の反応は書かれないままです。つまりこの人は大君とは別に、奥の部屋で女房たちと一緒に、しかしひとり素知らぬふうを装いながら、様子を窺っていての反応です。もちろんその気持は大君も同じなのでしょうが、それを書かないで中の君で描いたのは、かえって読者に薫の提案を直接聞いた大君の困惑の姿を思い描かせて、余韻のあるうまい書き方だと思われます。

もっともここで『光る』は「丸谷・ひょっとすると、大君のほうは都に行きたい気持ちも少しはあるのかもしれない」と、ちょっと意外な意見を言っています。

ともかくそうして薫はすぐに発っていくのかと思うと、そうではなくて、酒を頂き、屋敷の従者に話を聞き、故宮の仏間を覗いて歌を詠みます(巻名はこの歌によります)。それによって姫君たちの生活の不如意が描かれている、ということなのでしょうが、やはりどうも瑣末なところでの妙なリアリズムという気がします。

そしてさらに、呼び集められた荘園の人々にもものまで言って(これは薫の気配りの細かさということでしょうか)、やっと帰ることになりました。》

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