【現代語訳】1
中将の君の方がかえって、親王が仏道に専念していらっしゃるお心構えをお目にかかって拝見したいものだと思う気持ちが深くなった。そこで阿闍梨が山に帰っていくときにも、
「ぜひ、参ってお教えいただけるよう、まずは内々にでもご意向を伺ってください」などとお頼みになる。
院の帝が、言伝で、
「心打たれる御暮らしぶりを、人伝てに聞きまして」など申し上げなさって、
「 世をいとふ心は山にかよへども八重たつ雲を君や隔つる
(世を厭う気持ちはお住いの山に心惹かれていますが、伺えないのは、幾重にも雲で
あなたが隔てていらっしゃるのでしょうか)」
阿闍梨は、この御使者を先に立てて、あちらの宮に参上した。並々の身分で、訪問して差し支えない人の使いでさえまれな山蔭なので実に珍しく、喜んでお迎えになり、場所に相応しい御馳走などで、それなりに厚くお持てなしをなさる。お返事は、
「 あと絶えて心すむとはなけれども世をうぢ山に宿をこそかれ
(世を捨てて悟り澄ましているのではありませんが、世を辛いものと思い宇治山に暮
らしております)」
仏道修行の方面について謙遜して、このように申し上げなさったところ、「やはり、この世に恨みが残っていたのだな」と、いたわしく御覧になる。
《阿闍梨は宮の様子を弟宮に当たる院に話しているのですが、むしろ傍で聞いている薫の方が強く関心を持ったのでした。「帰っていくときにも…お頼みになる」とありますから、阿闍梨の話の途中にも、そういう気持ちを話していたのでしょう。
話を聞いて院はさすがに宮への便りを思い立ち、使者を送ることにします。阿闍梨に託してもよさそうなものですが、わざわざの使者の方が丁寧な形になるのでしょうか。敗者である兄への、勝者である弟からの敬意ということのように見えます。歌も、もう私は何とも思っていません、どうか隔てを置かないで下さい、という意味がありそうです。
宮は、久し振りの高貴の人からの便りとあって、大いに喜んで歓待しますが、返事の歌がちょっとした行き違いを生みました。
作者は「仏道修行の方面について謙遜してこのように申し上げなさった」だけだったのだと言います(ここの原文「聞こえなしたまへば」を、諸注「ので」と訳していますが、それでは繋がらない気がします)が、院には、下の句の「世をうぢ山に」が、「やはり、この世に恨みが残っていたのだな」と思えたのでした。
院は立場上では宮の敵側になるわけですから、そう感じるのは自然だと思われます。『講座』所収「八の宮」(坂本和子著)は「八の宮の矜持は一貫している」と言いますが、院はこの歌にそういう気持ちを感じて、せっかく和解の気持だったのが、しぼんでしまったということのように見えます。
阿闍梨は薫に頼まれて彼と宮との縁を結ぶ役割なのですが、彼は使者の案内という役目がなくても宮邸にはいつでも行けるのですから、院の手紙は特に必要ではない場面です。それなのに、作者があえて歌を贈答させて、院と八の宮の気持ちの齟齬というずいぶん重たく見えるエピソードを挟んだ意味は何なのだろうと思ってしまいます。
院と八の宮の間の話は、ここで終わってしまいますから、八の宮の全く気が付かないところで、こういう誤解が生じたことで、あるいは都に帰る機会になったかも知れない院との縁が断たれてしまったのだとすると、この宮は、どこまでも不運な人ということになります。作者はそういう話をしたかったのでしょうか。いや、ちょっと考えすぎで、ただ宮の現在の不遇を語りたかっただけのようにも思えます。》