【現代語訳】2
「おしゃべりし過ぎましてはいけません。では、失礼」と言って立つところに、「こちらへ」とお召しがあったので、きまりの悪い思いがしたが、参上なさる。
「故六条院が踏歌の翌朝に女方で管弦の遊びをなさったのが、とても素晴らしかったと、右大臣が話されました。何につけても、あの方の後継ぎであるような方がいなくなってしまった時代だね。大変に音楽の上手な女性までが大勢集まって、どんなにちょっとしたことでも、面白かったことであろう」などとご想像なさって、お琴類を調子を合わせあそばして、箏は御息所、琵琶は侍従にお与えになる。
和琴をお弾きあそばして、「この殿」などを演奏なさる。御息所のお琴の音色は、まだ未熟なところがあったのに、とてもよくお教え申し上げなさったのであった。華やかで爪音がよくて、歌謡の伴奏と楽曲など、上手にたいそうよくお弾きになる。どんなことも、心配で至らないところはおありでない方のようである。器量は、もちろんまた実に素晴らしいのだろうと、やはり心が惹かれる。
このような機会は多いが、自然とうとうとしくなく、程度を越すことはなく、馴れ馴れしく恨み言を言ったりはしないが、折々にふれて望みが叶わなかった残念さをほのめかすのも、どのようにお思いになったであろうか、よく分からない。
《薫が立とうとすると、改めて院から「こちらへ」と御息所の部屋に呼ばれました。そこで「踏歌の翌朝に女方で管弦の遊びをなさった」ということから始まって、源氏の昔話が始まりました。あれは初音の巻での出来事でした。そして院が大君にことを教えたという話は若菜上の巻の女三の宮を思い出します。
そして最後は、薫がまだ見たことのない大君の姿を魅力的の思い描きながら、心惹かれていること語られるのですが、読者が、さてその後どうなるのかと思ったところで、いきなり「(御息所・大君がどう思ったのか)よく分からない」とちょん切れてしまいます。『評釈』は「語り手は、何もかも知っているというのではない、と(読者は)改めて気づく。いっさいが事実で、その中から適宜語ってくれていたのである。そう読者は思う」と、何か意味ありげに言いますが、茶飲み話ならいざ知らず、物語の語り手としては、それは責任を果たしていないと言わざるを得ないでしょう。
まだこの巻は終わっていないので、いささか先走ることになりますが、『源氏物語の世界』(日向一雅著)がもう少し作品論的に「この三帖(匂兵部卿・紅梅・竹河の三巻)は光源氏の余慶が他家を凌駕して子孫の繁栄をもたらしたことを示し、光源氏が源家の偉大な先祖になったことを確認するという意味を担っているのである。光源氏は子孫の繁栄を導き、子孫の繁栄によって鎮魂される。光る源氏の生涯はここにはじめて完結する」と言いますが、もし、この三巻が本当に同じ作者によって書かれたのだとしたら、こういう意味づけをするのが、最も分かりやすいように思われます。
しかし、実は読者にとっての源氏は、幻の巻で十分なのであって、ここは上質のデイナーの後の粗末なデザートといった感じが拭えません。『光る』は「丸谷・読者はこの三巻を飛ばすほうがいいとおすすめしたい。(笑い)」「大野・賛成です」と言います。