雲隠

《巻の名前だけあって、本文のない巻です。

この巻が作者の意図したところであるかどうかは、議論のあるところのようで、「源氏物語五十四帖」と言う時、この巻をありとすれば若菜上下巻を一巻と数え、この巻を後世の仕業とする時は若菜を二巻に数えるのだそうです。ここでは番号を振らないで措きます。

ちなみに、『光る』は、この作者にしてこの巻ありとする考え方を力説して、十ページを費やしています。

 私は大した根拠もなしに、「幻」の次に「雲隠」があるのは何ともいい形で、やはりあった方がいいような気がします(一方で、当時としてはあまりに「文学」的趣向で、時代にそぐわないという気もします)が、ここではそのことは措いて、まことにおこがましいのですが、この大きな区切りに至ってのささやかな私見を勝手に語らせていただくことにします。

 私は実はこれまで、この物語は、源氏と藤壺、柏木と女三の宮という、二重の不義を骨格とする大きな問題意識に基づく構想によって成り立っているのだと思っていました。

「源氏物語絵巻」の柏木の巻ではいわゆる罪の子・薫を源氏が抱いていかにも意味ありげにのぞき込んでいる、名高い場面がありますが、そこでは源氏はあたかもかつての自分のしたことの恐ろしさに改めて思い至り、因果因縁の網に取り込まれていることに怖れを抱いているかのように見えて、それこそがこの物語の主題なのだ、というふうに。

 例えば手許の『日本文学小辞典』(新潮社)の「源氏物語」の項では、「(柏木と女三の宮の密通という)事実を知った光る源氏は藤壺との関係の因果を思うのだが、その宿命観が予言というような超越的なものでなく、人間の倫理にかかわる問題として内面的なものに変質している点は注目すべきであろう」と言われていて、おおむね定説と言ったところではないかと思われます。

若菜上の巻は、人間世界が、まさにそういう人間の力を越えた、源氏さえもその中の一つの星に過ぎないような宇宙の摂理によって動いているのだという認識(宿命観)から語られているようで、そこで挙げた『の論』の言う「虚構の、いわば必然的な自己運動ともいうべき世界」(若菜上の巻第三章第四段)の中であがく人間の姿が描かれていました。

が、しかしさらに読み来たってみると、そういう書き方は「若菜」を過ぎるとまた姿を消してしまったように思われます。

夕霧が落葉宮をわがものにしようとする話は、夕霧と源氏のキャラクターの相違、英雄性の落差によって異なる点はあっても、作者の語り方自体は、例えば空蝉を口説こうとする件と、特別の相違があるようには、私には思われません。

 また源氏は、確かに密通を知った時に「(藤壺とのことは)あってはならない過失であったのだ」と思い(若菜下の巻第十章第一段)、薫が生まれた時は、「自分が一生涯恐ろしいと思っていた事の報いのようだ」(柏木の巻第一章第五段)とわが身をふり返るのですが、しかしそれはまったくそのときだけのことで、以後、絶えてそういうことはなく、つまり「倫理」的ではありません。

晩年(御法、幻の巻)は、薫を見てかわいいと思うことはあっても、そこから罪の人として自らを省みるというようなことは一度もなく、ただただ紫の上を、またはその死を思い悲しみを噛みしめるばかりで、藤壺や罪の子冷泉院のことなどつゆほども思い返すことがなかったことは、私にとって驚きでした。

 源氏の出家も、「宿命観」や「人間の倫理にかかわる問題」から生じたこととして語られているようには思えませんでしたし、贖罪といったものでもありませんでした。

紫の上が生きている間は残して出家できないと思っていた(若菜下の巻第六章第五段)その上が亡くなって、残された唯一の幸福は出家することになった、あとは周囲から妻の死への悲哀のよる不幸な出家というふうに見られないように、現世の充足の果ての幸福と見える形で実現できるのを待てばよい、というものではなかったか、というように思われます。源氏は女三の宮の出家姿をさえ羨望の目で見るのです(幻の巻第一章第六段)。

 この物語のすばらしさは、実はそういう問題意識や主題の深さといったところのあるのではなくて、もっと単純に、源氏を初めとする無数の人間の生き様やその人間関係の有様を、それぞれその都度なるほどと思わせながら一つのパノラマとして描き挙げられているという点にあるのではないでしょうか。

 「人間の倫理に関わる問題」もその中の一つとして提示されてはいます(いや、現代の私たちがあえてそう読もうとすれば読めるように描かれている部分もある、というべきでしょうか)が、作者にはそれを追求しようという意図はなくて、それも一つの挿話として語っている、そんなふうに思われてきます。

 小林秀雄が『平家物語』について、「哄笑」こそがその「神髄」だとして「あの冒頭の今様風の哀調が、多くの人を誤らせた。平家の作者の思想なり人生觀なりが其處にあると信じ込んだが爲である」と言いましたが、この物語も同様に、私が先に考えていたような「思想なり人生觀」とは別のところで、無数と言っていい人間の(特に女性の)切ない生き様自体が、「哄笑」ではなく「鹽辛い」涙とともに美しく描かれている、ということなのではないでしょうか。

源氏には、そういう物語の中で狂言回しを勤めるために万能である必要があり、時に一貫した人格とは思えない言動があることは、若菜上の巻第八章第二段でも触れました。

幻の巻で月次に歳時記のようにかたられた事象一つひとつの背後には、さまざまな婦人たちなどとの記憶が揺曳していたはずで、晩年の孤独の中で思い返されたその彼の生涯は、まことに「兵どもが(貴婦人方の)夢の跡」だったであろうと思われ、光る源氏の最後を語る巻が「幻」であったのは、まことにふさわしく、私たちはここまで読み来たった四十一巻を、また無数の登場人物のそれぞれの一生を、敦盛』(幸若舞)の言うように、「人生五十年、…夢幻のごとくなり」と思うのです(それはまた、読者各位の人生の姿でもありましょう)。

そしてさらに、この後、この物語のすべての最後にまた幻のような出来事が起こり、それが「夢の浮橋」と名付けられていることを思うと、その呼応はなかなかの趣向だという気がします。(まことにおこがましい長談義、失礼しました)。》

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