【現代語訳】
「御仏名も今年限りだ」とお思いになるからであろうか、例年よりも格別に、錫杖の声々などにしみじみとお感じになられる。導師が行く末長い将来を請い願うのも、仏が何とお聞きになろうかと、耳が痛い。
雪がたいそう降って、たくさん積もったのだった。導師が退出するのを御前にお召しになって、盃など、平常の作法よりも格別になさって、特に禄などを下賜なさる。長年久しく参上し、朝廷にもお仕えして、見慣れていらっしゃる御導師が、頭はだんだん白髪に変わって伺候しているのも、感慨深くお思いになる。いつものように、親王たちや上達部などが大勢参上なさった。
梅の花がわずかにほころび始めて美しいので、音楽のお遊びなどもあるはずなのだが、やはり今年中は、楽の音にもむせび泣きしてしまいそうな気がなさるので、折に合うものを口ずさむ程度におさせなさる。
そう言えば、導師にお盃を賜る時に、
「 春までの命も知らず雪のうちに色づく梅を今日かざしてむ
(春までの命も分からないから、雪の中に色づいた梅を今日は插頭にしよう)」
お返事は、
「 千代の春見るべき花と祈りおきてわが身ぞ雪とともにふりぬる
(千代の春を見るべくあなたの長寿を祈りおきましたが、わが身は降る雪とともにふ
りました)」
人々も数多く詠みおいたが、省略した。
この日、初めて人前にお出になった。お顔が昔のご威光にもまた一段と増して、素晴らしく見事にお見えになるのを、この年とった老齢の僧は、無性に涙を抑えられないのであった。
年が暮れてしまったとお思いになるにつけ、心細いので、若宮が、
「追儺をするのに、高い音を立てるには、どうしたらよいでしょう」と言って、走り回っていらっしゃるのも、
「かわいいご様子を見なくなることだ」と、何につけ堪えがたい。
「 もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに年もわが世もけふや尽きぬる
(物思いしながら過ごし月日の経つのも知らぬ間に、今年も自分の寿命も今日が最後
になったか)」
元日の日のことを、「例年より格別に」とお命じあそばす。親王方、大臣への御引出物や、人々への禄などを、またとなくご用意なさって、とか。
《改めて月次に帰り御仏名、十二月二十日前後の法要で、とうとうこの年も終わろうとします。法要の導師に対しても、いつもはなかった感慨が湧きます。
「梅の花がわずかにほころびはじめて」は、まだ年の内なのでしょう、「年の内に春はきにけり」(『古今集』巻頭の歌)の趣で、それだけでも興趣深くもてはやしそうなところですが、今の源氏はそこにも心は動きません。
「この日、初めて人前にお出になった」と言います。一年半ぶりということでしょうか、やはり最後まで姿を現さないで去らせることはできないようです。現れてみると、そこは源氏で、「昔のご威光にもまた一段と増して、素晴らしく見事」な様子で、ひときわ明るいスポットライトを浴びますが、それは一瞬で、すぐさま「年が暮れてしまった」と時は年の瀬に移ります。
彼の周囲は正月の準備に慌ただしい様子で、匂宮がその中を嬉しそうに走り回っていますが、彼の心はすでにそこにはありません。ただ、そういう姿をもうすぐ見られなくなるのを寂しく思うばかり、虚ろな心で、形見代わりになるだろう正月の引き出物の手配を言いつける源氏がいます。
彼は、年明けと共に出家するのでしょう。『評釈』がその最後を歌い上げます。少し長いですが引いておきます。
「思えば彼の一生のけんらんたつ煩悩は、ここに即菩提を成じようとしている。…作者は、源氏が、紫の上という源氏の生涯をかけた愛の象徴を、とめどなき涙でもってくりかえし追慕するという主題を、実に一年を十二の月にきざんで追求した。愛という、光る源氏の生涯の一大面を内面化するのにこの巻が果たした役割は重大であると言うべきである。その内面化は、道心という軸においてなされ、愛という煩悩とのとめどなきたたかい、涙を流す懺悔の生活によってなされた。…読者は、光る源氏の長い生涯の、最後にいたりついた姿を、この『幻』の巻一年の精進生活の完成の像と見る」。》