【現代語訳】2
翌朝、お手紙を差し上げなさるのに、
「 なくなくも帰りにしかな仮の世はいづこもつひの常世ならぬに
(泣きながら帰ってきたことです、この仮の世はどこも永遠の住まいではないのに)」
昨夜のご様子には恨めしげだったが、本当にこんなにまるで違った方のように茫然としていらっしゃったご様子がお気の毒なので、自分のことは忘れてつい涙ぐまれなさる。
「 雁がゐし苗代水の絶えしよりうつりし花のかげをだに見ず
(雁がいた苗代田に水がなくなってからは、映っていた花の影さえ見ることができま
せん)」
いつ見ても相変わらず味わいのある書きぶりを見るにつけても、何となく目障りなとお思いであったが、晩年にはお互いに心を交わし合う仲となって、安心な相手としては信頼できるように互いに思い合いなさりながら、またそうかといってまるきり許し合うのではなく、奥ゆかしく振る舞っていらしたお心遣いを、
「他人はそのようには気づかなかったであろう」などと、お思い出しになる。
たまらなく寂しい時には、このようにただ一通りに、お顔をお見せになることもある。昔のご様子とはすっかり変わってしまったようである。
《あたかも後朝のように源氏は明石の御方に歌を送ります。しかし上の句はそう見えても、下の句を見れば、もちろんやはり紫の上を思う気持ちです。
昨夜帰っていく源氏を見送る御方は、気持ちは分かっても恨めしかったのですが、今朝の彼女は逆に、そういう気持はありながら、やはり「自分のことは忘れてつい涙ぐまれ」たと言います。
彼女の返歌は「紫の上が亡くなってからのちは、源氏のたまの訪れもなくなったことを嘆く歌」(『集成』)で、「自分のことは忘れて」と合わないように思われますが、二人の間では、御方の嘆きの方にウエイトがあるではなく、紫の上がいらっしゃってこその私でしたが、それが今思えば「仮の世」であったという感慨の方に重きがあるということなのでしょうか。
歌を見た源氏も、かつての御方と紫の上との相互の信頼と敬意の籠もった間柄を思い返します。それは他人には思い及ばないほど深いものだったと思うと、源氏には二人がいかに素晴らしい人だったかと改めて噛みしめる思いです。
もっとも、その「他人は」のところ、原文は「人は」で、『集成』はそれを「明石の上はそうとも気づかなかっただろう」と傍訳を付けています。そうすると紫の上の方を中心に思い返していることになります。源氏は、ここのところ紫の上のことだけを思い続けているという流れからすれば、確かに、ここはそのように解して、明石の御方も源氏の回想の走馬燈に表れる一人に過ぎないと考える方がいいかも知れません。》