源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第一章 光る源氏の物語(一)

第八段 明石の御方に悲しみを語る~その2

【現代語訳】2

翌朝、お手紙を差し上げなさるのに、
「 なくなくも帰りにしかな仮の世はいづこもつひの常世ならぬに

(泣きながら帰ってきたことです、この仮の世はどこも永遠の住まいではないのに)」
 昨夜のご様子には恨めしげだったが、本当にこんなにまるで違った方のように茫然としていらっしゃったご様子がお気の毒なので、自分のことは忘れてつい涙ぐまれなさる。
「 雁がゐし苗代水の絶えしよりうつりし花のかげをだに見ず

(雁がいた苗代田に水がなくなってからは、映っていた花の影さえ見ることができま

せん)」
 いつ見ても相変わらず味わいのある書きぶりを見るにつけても、何となく目障りなとお思いであったが、晩年にはお互いに心を交わし合う仲となって、安心な相手としては信頼できるように互いに思い合いなさりながら、またそうかといってまるきり許し合うのではなく、奥ゆかしく振る舞っていらしたお心遣いを、

「他人はそのようには気づかなかったであろう」などと、お思い出しになる。
 たまらなく寂しい時には、このようにただ一通りに、お顔をお見せになることもある。昔のご様子とはすっかり変わってしまったようである。

 

《あたかも後朝のように源氏は明石の御方に歌を送ります。しかし上の句はそう見えても、下の句を見れば、もちろんやはり紫の上を思う気持ちです。

昨夜帰っていく源氏を見送る御方は、気持ちは分かっても恨めしかったのですが、今朝の彼女は逆に、そういう気持はありながら、やはり「自分のことは忘れてつい涙ぐまれ」たと言います。

彼女の返歌は「紫の上が亡くなってからのちは、源氏のたまの訪れもなくなったことを嘆く歌」(『集成』)で、「自分のことは忘れて」と合わないように思われますが、二人の間では、御方の嘆きの方にウエイトがあるではなく、紫の上がいらっしゃってこその私でしたが、それが今思えば「仮の世」であったという感慨の方に重きがあるということなのでしょうか。

歌を見た源氏も、かつての御方と紫の上との相互の信頼と敬意の籠もった間柄を思い返します。それは他人には思い及ばないほど深いものだったと思うと、源氏には二人がいかに素晴らしい人だったかと改めて噛みしめる思いです。

もっとも、その「他人は」のところ、原文は「人は」で、『集成』はそれを「明石の上はそうとも気づかなかっただろう」と傍訳を付けています。そうすると紫の上の方を中心に思い返していることになります。源氏は、ここのところ紫の上のことだけを思い続けているという流れからすれば、確かに、ここはそのように解して、明石の御方も源氏の回想の走馬燈に表れる一人に過ぎないと考える方がいいかも知れません。》

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第八段 明石の御方に悲しみを語る~その1

【現代語訳】1

「そこまでゆっくりした思慮深さは、浅薄な出家にも劣るでしょう」などとおっしゃって、昔から悲しい思いをし続けてきたことなどを話し出される中で、
「故后の宮が御崩御なさった春は、花の美しさを見ても、本当に花に心があったならばと思われました。そのわけは、誰が見ても素晴らしかったご様子を幼い時から拝見して心に刻んでいて、そういうご臨終の悲しさも誰より格別に思われたのです。自分が特別に抱いている思いも、物のあわれは関わらないものです。

長年連れ添った人に先立たれて、諦めようもなく忘れられないのも、ただこのような夫婦仲の悲しさだけではありません。幼い時から育て上げた間のことや、一緒に年老いた晩年に先立たれて、自分の身の上も相手の身の上も、次々と思い出が浮かんでくる悲しさが、堪えられないのです。すべて、心を打つ感動も、意味あることも、風流な面も、広く思い出すところのあれこれが多く加わっていくのが、悲しみを深めるものなのでした」などと、夜が更けるまで、昔や今のお話で、

「こうして明かしてもよい夜だ」とお思いになりながらもお帰りになるのを、女も物悲しく思うことであろう。ご自身でも、

「不思議なふうになってしまった心だな」とお思いになる。
 お帰りになっても、またいつものご勤行で、夜半になってから、昼のご座所にほんのかりそめに横におなりになる。



《明石の御方に自分の気持ちをあまりに立派なものに言われて、源氏は苦笑するしかありません。いやいや、そこまで全部のことを済ませてからと思っているわけではないのだが、と言いながら、それでもそう理解してくれている御方に安心して、語り始めます。

いきなり紫の上のことを話すのは、さすがに気が引けるのでしょう、故后の宮(藤壺)の死の悲しかったことを話して、人の死一般の悲しみを語ります。それも、「自分が特別に抱いている思いも、物のあわれは関わらないもの」だと妙な解説を入れます。言っていることとは逆に、自分は故宮に特別な気持を持っていたわけではないのだが、それなのに悲しかった、とカモフラージュしようということのようで、『集成』も「藤壺の死をこれほどに悲しむことについての弁解」と言います。「特別に抱いている思い」は、あのころも紫の上を特別大切にしていたということ、藤壺の死を悲しんだのは、それとは別に、「物のあわれ」を感じたからだということでしょうか。

そうしておいて次に紫の上の話です。こちらも女性として、妻としてその死を悲しむこともあるが、「幼い時から育て上げた」こともあって余計に悲しいと、御方に配慮した物言いのように思われます。

この部分、諸注、ここの訳のように「幼い時から育て上げた間のこと」が、「や」とあって、後と並列になっていますが、ひょっとして、「幼い時から育て上げた間のこと」が、「晩年に先立たれて」みると、自分のことや上のことにつけて思い出される、というのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

その方が御方への配慮がより大きく表れて、身分が違うとは言え、やはりそのくらいしなければ、御方に話しにくいのではないかという気もします。

源氏としてはずいぶん気を使った物言いですが、それでも話ができるだけでもいいということで、「夜が更けるまで」話し込んで、帰っていきました。昔なら当然止まっていくところですが、そういう気持ちではありません。そういう自分の変化に彼自身驚く思いです。

ちょっと不思議なのは、一途な悲しみの中に源氏を置いておけば哀れ深い美しい終焉を迎えさせることができるのに、作者はどうして、苦笑するしかなかったり、弁解しながら思いを語ったりする、見方に寄れば滑稽とも言える源氏を描いたのかということです。

それは、純粋な悲しみに浸るというようなことは、源氏でもできないのだという覚めた目があるということでしょうか。

そういえば女三の宮に語っても、どうせろくな対応は得られないだろうことは分かっていたとも言えます。

作者はあえてそういう道を歩かせているのでしょうか。そう考えると、それが源氏の寂寥を深めているような気もします。》

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第七段 明石の御方に立ち寄る

【現代語訳】

 夕暮の霞がたちこめて、趣のあるころなので、そのまま明石の御方にお渡りになった。久しくお立ち寄りにならなかった上に、思いも寄らない時だったので、ちょっと驚きはするが、体裁よく奥ゆかしく振る舞って、

「やはり他の人より優れている」と御覧になるにつけては、またこのようにではなく、

「あの方は格別に、教養や趣味もお振る舞いになっていた」と、ついお比べになられると、面影に浮かんで恋しく、悲しさばかりがつのるので、

「どのようにして慰めたらよい心か」と、我が心ながら扱いにくい。

こちらでは、のんびりと昔話などをなさる。
「女性をいとしいと思いつめるのは実によくないにちがいないと昔から知っていて、すべてどのような関係の女性にも現世に執着が残らないようにと配慮して来ましたが、普通の世間から見てむなしく零落してしまいそうだったころなど、あれやこれやと思案した挙げ句に、命をも自分から捨ててしまおうと野山の果てにさすらえさせても格別に差支えなく思うほどになりましたが、晩年に最期が近くなった身の上で、持たなくてよい係累に多くかかずらって今まで過ごしてきたことが、意志が弱くて愚かしいことですよ」などと、それと名指して一人の悲しみばかりにはおっしゃらないが、お胸の内はさぞかしとお気の毒なので、おいたわしく拝して、
「世間一般の目からは、出家してもさほど惜しくなさそうな人でさえ、心の中の執着は自然と多くございますものですが、ましてどうしてやすやすとお思い捨てになることができましょうか。そのような浅はかなことは、かえって軽はずみなと非難されることも出てきて、なまじ出家しないほうがよいでしょうが、ご決心がつきかねるようでいらっしゃる方が、結局は澄みきった御境地に至られましょうと、想像されます。
 昔の例などをお聞きいたしますにつけても、心が動揺したり、思いのままにならないことがあって、世を厭うきっかけになったとか。それはやはりよくないことと申します。やはりもう暫くごゆっくりあそばして、宮たちなどがご成人あそばして、ほんとうにゆるぎない様子を拝見あそばされるまでは、変わったことがございませんのが、安心で嬉しうもございましょう」などと、とても思慮深く申し上げた様子は、本当に申し分がない。


《気分を害されて源氏はそうそうに女三の宮のところを立って、折りも夕霞の中という風情のある折であり、明石の御方を訪ねますと、やはりこちらの振る舞いは格段に違います。

 しかしそれはそれでまた、紫の上を思い出すよすがになってしまうということで、まことに「我が心ながら扱いにくい」ことです。

ともあれ、「こちらでは、のんびりと昔話などをなさる」のでした。

しかしそこでの話が、女性に執着すまいと思うのだが、そうもいかないで「持たなくてよい係累に多くかかずらって」しまって出家できずつらいとは、自分がこのところ長く放っておいた女性にする話かと思われて驚きですが、いわゆる大人の対話ということなのでしょうか。

御方の方も、紫の上のことに違いないとは思うものの、そうとは口にしないままに、「お胸の内はさぞかしとお気の毒」に思って、心のこもった応対をします。それはまったく源氏からすれば彼自身の考えに沿った、最も望ましいアドバイスで、彼の考えを最も意義深く理解し言い表したものでした。そこには御方の源氏に対する信頼といたわりが感じられます。ただ、あまりにぴったりしたアドバイスで、源氏の気持ちを完全に知っている人でなければ、こうはいきません。作者は御方がそういう人なのだと言いたいのでしょうが、読者としては作者が顔を出しすぎで、できればもう少し違う角度からのアドバイスであってほしかった、という気がします。

ここで「講座源氏物語の世界」(全九巻)という本を見つけました。その中の「哀傷の四季」(後藤祥子著)はその点について「若菜巻以後の明石の君は喋りすぎる。筋道は立っているが、哀しみに共鳴するには満ち足りすぎていよう」と言います。思いがけない見解ですが、なるほどと思わされました。

ところで、この明石の御方は、ずっと以前、娘の入内とともに紫の上に代わって姫君の後見として宮中に入っていた(藤裏葉の巻第二章第四段)のでしたので、私はそのままずっと宮中で姫(今は中宮)の傍について暮らしているような気がしていたのですが、どこかのところで六条院に帰って来ていたようです。それともここから出仕する形になっていたのでしょうか。

明石の女御が第一皇子出産の折、六条院に下がっていた時に出産間近で具合が悪くなった時に、「明石の御町の中の対にお移し申し上げなさる」とありました(若菜上の巻第十章第一段)から、あの時すでに御方は下がっていたのかも知れません。》

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第六段 女三の宮の方に出かける

【現代語訳】

 とても所在ないので、入道の宮のお部屋にお越しになると、若宮も女房に抱かれておいでになって、こちらの若君と走り回って遊び、花を惜しみなさるお気持ちは深くなく、とても幼い。
 宮は仏の御前でお経を読んでいらっしゃるのであった。どれほど深くお悟りになった御道心でもなかったが、この現世に対して恨みに思ってお気持ちの乱れることはおありでなく、のんびりとしたお暮らしのまま、気を散らさずに勤行なさって、仏道一筋にこの世を思い離れていらっしゃるのもまことに羨ましく、

「このような思慮深くない女の御志にさえ後れを取ったこと」と残念な気がなさる。
 閼伽の花が夕日に映えてとても美しく見えるので、
「春に心を寄せた人もいなくなって、花の色も殺風景なばかりに見られるが、仏のお飾りとして見るべきであった」とおっしゃって、

「対の前の山吹は、やはりめったに見られない花の様子です。房の大きいことですね。上品に咲こうなどとは考えていない花なのでしょうか、はなやかでにぎやかな面では、とても美しい花です。植えた人のいない春とも知らないで、いつもの年より美しさを増しているのには、しみじみとした思いがしますね」とおっしゃる。

お返事に、
「『谷には春も(出家の身には春も無縁なもので、もの思いもありません)』」と、何気なく申し上げなさるのを、「他に言いようもあろうに、不愉快な」とお思いになるにつけても、

「まずは、このようなちょっとしたことにおいても、これはそうではなくあってほしいと思うことに反したことはついぞなかったな」と、幼かった時からのご様子を、

「いったい、何の不足があったろうか」とお思い出しになると、まず、あの時この時の才気があり行き届いていて、奥ゆかしく情味豊かな人柄、態度、言葉づかいばかりが自然と思い出されなさると、いつもの涙もろさのこととて、ついこぼれ出すのもとてもつらい。


《ただ世の中のほとぼりが冷めるのを待つだけの「所在ない」毎日に、たまたま六条院を訪ねます。以前にも訪ねたことがあったのですが、あの頃は「まっさきに止めどなく涙ばかりが一層こぼれる」といった有様だった(第四段)のですが、あれから一ヶ月、少し気持も収まって来たようです。

こちらに来れば、さすがにまずは女三の宮を訪ねます。匂宮の遊び相手もいるからでしょう。幼い子供たちは、仲間ができて大喜びで無心に走り回っています。

宮はすっかり落ちついた様子で、心の乱れなく勤行の日々のようです。以前は(今でも?)見下していたこの宮が、こんなに「仏道一筋」でいるのを見ると、源氏は自分が後れを取ったことを残念に思うのですが、それは思い切ることをした人とそうでない人の違いで、彼の思いは何か堂々巡りの感があります。彼も世間の噂への顧慮(御法の巻第二章第五段)やお付きの女房への配慮(第三段)を振り切ればいつでも出家できるのですが、それができないでいるだけです。

作者としてはそういう考え方をよしとして、やはり気配りの人として描いているのでしょう。

つらい思いを抑えて源氏は、やはり出家は好いものですねとしみじみと宮に語りかけ、庭の山吹に紫の上を懐かしさを言い添えます。

ところが「何気なく」言った宮の返事は、宮から見れば、物の分からない私で、ろくなご返事もできません、といった気持とも思われますが、源氏には、鼻の先を指で弾かれるようなものに聞こえました。宮の配慮の無さにほとんど腹立たしい思いで源氏は、改めて紫の上のこういう時の理想的な応対を思い出し、また懐かしさに涙するのでした。

それにしても、作者は、そのように両様に取れるうまい引き歌を用意したものです。》

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第五段 春深まりゆく寂しさ

【現代語訳】

 春が深くなって行くにつれて、御前の様子は昔と変わらないのを、花を賞美なさることのというのではないけれども心が落ち着かず、何事につけても胸が痛むようにお思いになるので、およそこの世を離れたように、鳥の声も聞こえない山奥ばかりがますます恋しくなっていかれる。
 山吹などが気持ちよさそうに咲き乱れているのも、思わず涙の露に濡れているかとばかり見えておしまいになる。他の花は、一重が散って八重に咲く桜が盛りを過ぎて、樺桜は開いて、藤は後れて色づいたりするらしいのを、その遅咲き早咲きの花の性質をよく分かっていろいろと植えてお置きになったので、花の時期を忘れず匂い満ちているのを若宮は、
「私の桜は咲いた。何とかいつまでも散らすまい。木の回りに帳を立てて、帷子を上げなかったら、風も近寄って来まい」と、よいことを考えたと思っておっしゃる顔がとてもかわいらしいので、ふとほほ笑まれなさった。
「『おほふばかりの袖(大空を覆うほどの袖』を求めたという人よりは、とてもよいことをお思いつきになった」などと、この宮だけをお遊び相手とお思い申してしていらっしゃる。
「あなたとお親しみ申していられるのも残り少なくなりましたよ。寿命というものは、もう暫くこの世に留まっていても、お会いすることはできないでしょう」とおっしゃって、いつものように涙ぐみなさると、とても嫌だとお思いになって、
「お祖母様がおっしゃったことを、縁起でもなくおっしゃる」と言って伏目になって、お召し物の袖をもてあそびなどしながら、紛らしていらっしゃる。
 隅の間の高欄に寄りかかって、御前の庭や御簾の中をも見渡して物思いに沈んでいらっしゃる。女房なども、あの御形見の喪服の色を変えない者もおり、通常の色合いの者も、綾などは派手なのではない。ご自身のお直衣も、色は普通の物であるが、特別に質素にして、無紋をお召しになっていた。お部屋飾りなどもたいそう簡略に省いて、寂しく何となく頼りなさそうにひっそりとしているので、
「 今はとてあらしや果てむなき人の心とどめし春の垣根を

(いよいよ出家するとなるとすっかり荒れ果ててしまうのだろうか、亡き人が心をこ

めて作った春の庭も)」
 自分ながら悲しく思われなさる。


《晩春、三月になりました。紫の上の愛した春が逝きます。源氏は庭を眺めてその時の移るのを思っただけで、もうただ涙で、出家遁世の世界が「ますます恋しくなって」きます。

 そういう源氏の心を知らぬげに、春は名残を楽しむように、紫の上の次々に爛漫の花を咲かせました。

心慰むのはやはり匂宮を相手にした時で、またここでの宮の言葉がいかにもこの年頃(今、六歳)の子供の言いそうな言葉で、うまいものだと思われます。それを相手に他愛のない話に興じるのですが、しかしそれもいつの間にか、こうした時間の残り少ないことを思って、また涙の種になります。

一人になって高欄に寄り掛かりふり返るように部屋を見れば、女房の「喪服の色を変えない者」と「通常の色合いの者」が入り交じって侍っているのが、自分とは関わりなく一枚の絵を見るように思われます。

そして、庭を眺めれば、紫の上が丹誠込めて作ってきたこの庭も、自分がいなくなれば、何ごともなかったように荒れてしまうのかと思われます。すべてが遠い風景のようで、自分が独りでいるのだということが胸にしみます。》

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