源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第五章 落葉宮の物語(二)

第二段 夕霧、源氏に対面

【現代語訳】

 大将の君が参上なさった機会があって、どう思っておられるのか様子も知りたいので、
「御息所の忌中は明けたのだろうね。昨日今日と思っているうちに、三十年以上の昔になる世の中なのだ。悲しく情けないものだ。夕方の露がかかっている間を貪っているとは。何とかこの髪を剃って、何もかも捨て去ろうと思うが、なんとものんびりと過ごしていることか。まことによくないことだ」とおっしゃる。
「ほんとうに何も惜しいもののなさそうな人でさえ、それぞれに離れがたく思っている世の中であるようです」などと申し上げて、

「御息所の四十九日の法事など、大和守某朝臣が、独りでお世話致していますが、とてもお気の毒なことです。しっかりした縁者がいない方は、生きている間はともかく、このような死後は悲しいものでございます」と、お申し上げになる。
「朱雀院からも御弔問があるだろう。あの内親王はどんなにお嘆きでいらっしゃるだろう。以前聞いていた時よりは、この最近何かにつけ聞いたり見たりするに、この更衣はしっかりした無難な人の中に数えられる人だった。世間一般のこととしても、惜しいことをしたものだ。生きていてもよいと思う方が、このように亡くなってゆくことよ。
 朱雀院もひどく驚きお悲しみになっていたという。あの内親王は、ここにいらっしゃる入道の宮の次には、かわいがっていらっしゃった。人柄も好くていらっしゃるのだろう」とおっしゃる。
「お気立てはどのようでいらっしゃいましょう。御息所は、申し分のない人柄や気立てでいらっしゃいました。親しく気をお許してお付き合い下さったわけではありませんでしたが、ちょっとした事の機会に、自然と人の心配りというものがよく分かるものでございます」と申し上げなさって、宮の御事は口になさらず、素知らぬふりをしている。
「これほどの一本気の性格の者が思い染めたことは、忠告してもむだだろう。聞き入れもしないだろうことに、分別くさく口を出してもしようがない」とお思いになっておやめになった。

 

《夕霧が六条院にやって来ることがあったので、源氏はかねて噂に聞いていた女二の宮との関係はどういうことなのかと、探りを入れます。

もちろんいきなりそれを聞くことは不自然ですから、まずは御息所の話からです。しかし夕霧はそれと気づいてか、御息所の話もろくにしないで、さりげなく大和守が四十九日の法要の準備をしていることを話して、しっかりした縁者のいない寂しい法要への感慨を語ってかわしました。

ここで『評釈』は「とてもお気の毒なことです(原文・いとあはれなるわざなりや)」を、「まことに奇特なことでございます」と訳して、夕霧が彼を源氏に売り込んだのだと解釈して「これで大和守の将来は開けるであろう」と言います。確かに今後彼は女二の宮にとって唯一の相談相手ともなりそうで、夕霧にしてみれば彼を源氏に恩を売っておくのは意味のあることではあるしょう。ただそれを「大将と大和の守の間にしかるべき取り引き話が成立していたのかも知れない」とまで言うと、それは別の物語になってしまうように思われます。

さて、源氏はさらに、「朱雀院からも…」と巧みに話を宮の方に誘導して探りを入れますが、夕霧は「素知らぬふり」です。

もし話す気があるなら、ここまで話を持ちかければ話に乗ってくるだろうが、そうしないのは、もともとそういう噂のようなことがないのか、あるいは夕霧に話す気がない訳です。それなら、これ以上何を言っても仕方がないだろうと源氏は考えます。

女二の宮にとっては堪えがたく恥ずかしいことと思われる再婚という問題も、男の論理からすれば、この程度で過ごされるのだと作者は感じているようです。さらに言えば、その「恥ずかしい」という感じ方も男社会が創り出したものでしょうから、女性はさまざまな男の身勝手さにまったく翻弄されるしかない立場にあるということを、図らずも描き出すことになっていると言えるでしょう。》


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第一段 源氏や紫の上らの心配

【現代語訳】

 六条院もお聞きになって、とても落ち着いていて何につけ冷静で人の非難する点もなく無難に過ごしていらっしゃるのを自慢に思い、自分の若いころ少し風流すぎて好色家の名をおとりになった名誉回復に、嬉しくお思い続けていらっしゃったが、
「かわいそうに、どちらにとってもお気の毒なことがきっとあるだろうことよ。赤の他人の間でさえもなく、大臣などもどのようにお思いになろうか。それくらいのことが分からないではないだろう。宿世というものは、逃れにくいものだ。とやかく口を出すべきことではない」とお思いになる。女の身にとっては特に、どちらに対してもお気の毒だと、困った事だとお嘆きになる。
 紫の上に対しても、今までのことや将来のことをお考えになりながら、このような噂を聞くにつけても亡くなった後を不安にお思い申し上げる様子をおっしゃると、お顔を赤らめて、

「情けないこと。そんなに長く後にお残しなさるおつもりか」とお思いになっていた。
「女ほど身の処し方も窮屈で痛ましいものはない。ものの情趣も折にふれた興趣深いことも見知らないふうに身を引いて黙ってなどいては、いったい何によってこの世に生きている晴れがましさを味わい、無常なこの世の所在なさをも慰めることができよう。
 だいたい、ものの道理も弁えないで、つまらない者のようになってしまったのでは、育てた親も、とても残念に思うはずではないか。
 心の中にばかり思いをこめて、無言太子とか言って小法師たちが辛い修行の例とする昔の喩えのように、悪い事良い事を弁えながら、口に出さずにいるのはつまらない。自分ながらもほど好い身の処し方をするにはどのようにしたらよいものか」とご思案なさるのも、今はただ女一の宮の御身のためを思ってのことである。

 

《夕霧の浮気がとうとう源氏の耳にも入ってしまいました。息子の行いが「名誉回復に、嬉しくお思い続けて」いたとは、なんとも滑稽です。もっとも、源氏が気にするほどの悪い評判を得ていたという話は、これまでありませんでしたし、むしろそういう点がこの人の素晴らしさとして語られてきたわけで、「名誉回復(原文・面起こし)」というのはやや唐突の感があります。それに息子の品行が父の名誉回復になると父親が思うというのも、おかしなものという気がします。

 が、なんにしても、それも期待はずれになってしまいそうです。

そういう息子の浮気も「宿世」と考えて、何も言えまいと考えるところは、やはり自分の若き日の経験から思うところなのでしょう。彼自身、父帝から注意を受けたことがあった(紅葉の賀の巻第三章第四段3節)のですが、あまり効き目はありませんでした。

それはそれでいいとして、そういう「噂」を、今は小康を得ているとは言え、長い病床にある紫の上に話したというのは、ちょっと理解しがたいことのように思われます。

それも、「亡くなった後不安にお思い申し上げる」、つまり「(自分が死んだ後)夕霧が、紫の上をどうかしないか、を、心配する、と、源氏は紫の上に言う」(『評釈』)ということのようなのです。

今、かつての輝きを失ったという失意の中にあり、いっそ出家してしまいたいと思いながらそれもかなわず、かろうじてどこまで信じられるかわからない源氏の愛情に頼っている、つらく不安な彼女にしてみれば、もっとも聞きたくもない不愉快な話です。

「お顔を赤らめて」は、彼女の変わらぬ純真さですが、彼女は仮に源氏が先立れた時、「そんなに長く後に」残っているつもりはないのです。

ここの彼女の嘆きは、必ずしも源氏の話を直接に受けているようには思えないのですが、およそ次のようなことかと思われます。

今わが身のはかなさに思い至って出家を願っても許されないままに、仮に源氏に先立たれれば、確かにその後の人生には何が待っているか知れない、以前は、自分の心の動かされるままに、自分が望ましいと思うままに振る舞ってきたように思っていたのだが、思えばそれも実は源氏の考えの範囲の中でのことであって、源氏という大きな後ろ盾がある時でさえ思うようにならないのに、実際そういうことが起こった時、一体何ができようか、と言って「悪い事良い事を弁えながら、口に出さずに」ただ成り行きに身をゆだねているだけでは生きている甲斐もない、自分の思い通りには生きられない女の身の何と窮屈で不安なことか…。

とは考えられるものの、「ものの情趣も…」といった語り起こし方は、やはり前の源氏の言葉からは繋がりにくく思われ、あわせて最後の「女一の宮(明石の女御の姫君)の御身のためを思って」も意味の分かりにくい話で、それを『評釈』は「紫の上の心に託して作者が自身の心を書き過ぎた」のであり、女一の宮を出したのは「その言いわけのつもりなのである」と言います。

それほどに作者自身にこうした思いが強かったということなのでしょう。》

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