源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第四章 夕霧の物語(二)

第六段 落葉宮の返歌が届く

【現代語訳】

とても気にくわないとお思いになるが、以前のようには奪い取ったりはなさらない。たいそう念入りに書いて、ちょっと下に置いて歌を口ずさみなさる。声をひそめていらっしゃったが、漏れて聞きつけられる。
「 いつとかはおどろかすべき明けぬ夜の夢さめてとか言ひしひとこと

(いつお訪ねしたらよいのでしょうか、明けない夜の夢が覚めたらとおっしゃった言

葉では)
 『上より落つる(どうしたらいいのでしょう)』」とでもお書きになったのであろうか、手紙を包んで、その後も、「いかでよからん(どうしたらよかろう)」などと口ずさんでいらっしゃった。人を召してお渡しになる。

「せめてお返事だけでも見たいものだわ。やはり、本当はどうなのかしら」と、様子を窺いたくお思いになっている。

 日が高くなってから返事を持って参った。紫の濃い紙が素っ気ない感じで、小少将の君がいつものようにお返事申し上げた。以前と変わらず何の甲斐もないと書いて、
「お気の毒なので、あの頂戴したお手紙に手習いをしていらっしゃったのを、こっそり盗みました」とあって、中に破いて入っていたが、「御覧にだけはなったのだ」と、お思いになるだけで嬉しいとは、とても体裁の悪い話である。とりとめもなくお書きになっているのを見ておいきになると、
「 朝夕に泣く音を立つる小野山は絶えぬ涙や音無の滝

(朝な夕なに泣いている小野山では、尽きない涙は音無の滝なのでしょうか)」
とか読むのであろうか、古歌などを心乱れた様子で書いていらっしゃるが、そのご筆跡なども見所がある。
「他人の事などでこのような浮気沙汰に心焦がれているのは、はがゆくもあり、正気の沙汰でもないように見たり聞いたりしていたが、自分の事となると、なるほどまことに我慢できないものであることだ。不思議だ。どうしてこんなにも気がもめることだろう」と反省なさるが、思うにまかせない。

 

《雲居の雁は、手紙を書く夕霧を横目で見ながら、気になって仕方がありません。『評釈』が「大将の浮気もいよいよ本物の相をおびて来、雲居の雁の嫉妬もいつになく内にこもって真剣である」と言います。

確かにそこに言うように、以前御息所からの手紙を隠した時(第三章第二段)は、夕霧はなんとか妻をなだめようとしていましたし、雲居の雁の方も取り上げた手紙のことを翌朝には忘れていたくらいでしたが、ここでは「背を向き合ったまま」(前段)で、不信の気持を抱いたままじっと夫の様子を窺っています。

小野の里から返事が来ました。「日が高くなってから」と言ったのは、待たせたという意味でしょうか。小野は叡山の麓、洛中三条あたりから一里半ほどの所ですから、使者の往復にそのくらいの時間が掛かるのは普通かと思われますから、待ちわびている夕霧の時間の感覚でしょう。

宮からの返事はなく、小侍従からでしたが、気を利かせて、宮の手すざびの紙切れを同封してくれていました。それは夕霧の手紙の端に書いたのをちぎったというなかなか微妙なものではありました。しかし「音無の滝」は、夕霧の手紙の「上より落つる」に対応する言葉のようですから、それからすると少なくとも手紙を最後まで読んでくれたことだけは間違いなく、これまでとは様子が違います。そう思うと夕霧の心はいやが上にも高ぶり、いよいよ恋しい気持が募ります。

「他人の事などで…」という思いは、彼がそれまでいかに堅物を通していたかということを思わせ、あわせて今の思いが本物であることを保証する恰好になっています。すでに第二夫人として惟光の娘がいるのですが、それとは全く異なる存在であるようです。》

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第五段 夕霧、一条宮邸の側を通って帰宅

【現代語訳】

 道すがらもしみじみとした空模様を眺めて、十三日の月がたいそう明るく照り出したので、薄暗い小倉の山も難なく通れそうに思っているうちに、一条の宮邸はその途中だったのだった。
 以前にもまして荒れた感じで、南西の隅の築地の崩れている所から覗き込むと、ずっと一面に格子を下ろして、人影も見えず、月が遣水の表面をくっきりと照らしているばかりなので、大納言がここで管弦の遊びなどをなさった時々のことをお思い出しになる。
「 見し人のかげすみ果てぬ池水にひとり宿守る秋の夜の月

(あの人がもう住んでいないこの邸の池の水に、独り宿守りしている秋の夜の月よ)」
と独り言を言いながら、お邸にお帰りになっても、月を見ながら心はここにない思いでいらっしゃった。
「何ともみっともない。今までになかったお振る舞いですこと」と、おもだった女房たちも憎らしがっていた。北の方は、真実嫌な気がして、
「魂が抜け出たお方のようだ。もともと何人もの夫人たちがいっしょに住んでいらっしゃる六条院の方々を、ともすれば素晴らしい例として引き合いに出しては、性根の悪い無愛想な女だと思っていらっしゃるのは、やりきれないわ。私も昔からそのように住むことに馴れていたならば、人目にも無難に、かえってうまくいったでしょうが。世の男性の模範にしてもよいご性質と、親兄弟をはじめ申して、けっこうなあやかりたい者となさっていたのに、このままいったら、あげくの果ては恥をかくことがあるだろう」などと、とてもひどく嘆いていらっしゃる。
 夜も明け方近く、お互いにお話しなさることもなくて、背を向き合ったまま嘆き明かして、朝霧の晴れる間も待たず、いつものように手紙を急いでお書きになる。

 

《思いが果たせず切ない気持で、やむなく今夜は帰ることにしました。「十三日の月がたいそう明るく照り出した」と言いますから、割合早い帰りと言っていいでしょう。

道中に、宮の本邸である一条帝を通りかかりました。留守居だけの邸になってすっかり荒れてしまい、築地も崩れて中が覗けるといった有様です。屋敷は格子もすっかり閉じてしまっていて、庭には、晩秋の月影ばかりが虚しく遣り水を照らしています。夕霧は、柏木が存命の頃幾度か催した管絃の会を思い出して、友人を懐かしく偲び、感慨ひとしおの様子です。

しかし、今自分がその友人の妻を恋い慕い、なんとか口説こうとしているさなかであるということについては、何も思わないようで、それとこれとは話が別と、割り切っているのでしょう。

家に帰っても、宮を思うばかりで、上の空ですから、雲居の雁はもちろん、その女房たちも心穏やかではありません。

御息所からの手紙を夕霧から奪ったとき(第三章第二段2節)のやり取りにもありましたが、夕霧は「六条院の方々を、ともすれば素晴らしい例として引き合いに出して」雲居の雁の焼き餅を諫めていたようで、生真面目な彼にとっても、六条院はやはり一つの理想的なあり方と感じられていたようです。

それに対する雲居の雁の反応は、「私も昔からそのように住むことに馴れていたならば、人目にも無難に、かえってうまくいったでしょうが」と、いかにもお嬢さん的で、ほほえましく思われます。そういえば、あの手紙の一件の時も夫から同じように言われて、「以前から馴れさせてお置きにならないで」と不平を言っていましたが、それを作者も「憎くはない」と評していました。

生真面目な夕霧を夫にして、「世の男性の模範」と家族から聞いていた評価も、どうやら言葉どおりではないらしいとこの頃分かってきて、嘆かわしい気持です。

その夜、二人はそれぞれ別々の嘆きを抱いて「背を向き合ったまま」夜を明かしてしまいました。そして明ければ夕霧はさっそく宮への手紙です。》

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第四段 板ばさみの小少将君

【現代語訳】

 この人も、それ以上にひどく泣き入りながら、
「その夜のお返事さえ拝見しないままになりましたことを、もう最期という時のお心に、そのままお思い詰めになって、暗くなったころの空模様に、ご気分が悪くなってしまいましたが、そのような弱り目に例の物の怪が取りつき申したのだ、と拝見しました。
 以前の御事でもほとんど人心地をお失いになったような時々が多くございましたが、宮が同じように沈んでいらっしゃったのをお慰め申そうとのお気を強くお持ちになって、だんだんとお気をしっかりなさったのでした。

このお嘆きを、宮におかれては、まるで正体のないようなご様子で、ぼんやりとしてお過ごしでいらっしゃいました」などと、涙を止めがたそうに悲しみながら、はきはきとせず申し上げる。
「それですよ。それもあまりに理解できない、情けないお心です。今は、恐れ多いことですが、誰も頼りにお思い申し上げなさる方はないでしょう。御山暮らしの父院もたいそう深い山の中で、世の中を思い捨てになった雲の中のようなので、お手紙のやりとりをなさるにも難しい。
 ほんとうにこのような情けないお心を、よくお教え申し上げてください。万事が前世からの定めなのです。この世に生きていたくないとお思いになっても、そうはいかない世の中です。第一、このような死別がお心のままになるなら、起こるはずがありません」などと、いろいろと多くおっしゃるが、お返事申し上げる言葉もなくて、ただ溜息をつきながら座っている。鹿がとても悲しそうに鳴くのを、

「われ劣らめや(鹿にひけは取るまい)」という気持で、
「 里遠み小野の篠原わけて来てわれもしかこそ声も惜しまね

(人里遠いので小野の篠原を踏み分けて来たが、私も鹿のようにそのように声も惜し

まず泣いています)」
とおっしゃると、
「 藤衣露けき秋の山人は鹿のなく音に音をぞ添へつる

(喪服も涙でしめっぽい秋の山里人は、鹿の鳴く音に声を添えて泣いています)」
 上手な歌ではないが、時が時とて、ひっそりとした声の調子などを、それなりのものとお聞きになった。
 ご挨拶をあれこれ申し上げなさるが、
「今は、このように思いがけない夢のような世の中を少しでも落ち着きを取り戻す時がございましたら、たびたびのお見舞いにもお礼申し上げましょう」とだけ、素っ気なく言わせなさる。

「ひどく何とも言いようのないお心であることだ」と、嘆きながらお帰りになる。

 

《少将は配慮のきいた夕霧の挨拶に、「それ以上に(夕霧以上に)ひどく泣き入りながら」の応対です。この人は、柏木が女三の宮への伝え手として頼った小侍従と似た立場ですが、人柄は彼女と違ってずいぶん素直な人のようで、悲しみとともに御息所の最期を物語りました。

 「以前の御事」は柏木が亡くなったこと、あの時も御息所は大変なショックを受けたようですから、今回の夕霧とのことは、娘が二人目の男にまで見放されると思い詰めて、絶望的になったのもむりからぬことです。

少将の、宮がひとえに母の死を悲しんでいるという話に対する夕霧の「それですよ(原文・そよや)」という応答にちょっと戸惑わされますが、その話を、母の死を悲しむばかりであなたのことを思う暇がないのだという意味にとっての相槌なのでしょうか。

御息所の死は、そもそもが誤解や行き違いからの悲劇ですから、例えば、あの夜来られなかったのは、御息所からの手紙を妻に隠されて、御息所の考えを知ることができなかったからだという事情が通じれば、それなりに理解はされるでしょうが、それを話すことは、あまりに子供じみた話で、さすがに話すことはできません。

それでも彼は、宮が一日も早く御息所の死の悲しみから離れて、こっちを向いてほしいわけです。

しかしここでも彼の訴えは、彼自身の思いの深さ熱さを語るのではなくて、「万事が前世からの定め」といった一般的摂理の方向からのアタックで、理屈っぽく、どうも外堀を埋める作業のように見えます。例えば柏木が女三の宮に逢ったとき(若菜下の巻第七章六段)の口説きの方が、ずっと切実に聞こえるように思います。

周囲の状況は彼以上に情緒豊かなようで、折しも嬬恋の鹿の声が聞こえました。前段でもありましたが、やはり彼は鹿を意識していたようで、いや、こういう時はともかくも歌を詠まなければならないのでしょう、古歌を思い出しながら詠み交わします。「上手な歌ではないが…」とは思いのほかに余裕のあるらしい気分ですが、むしろ作者の気持というべきでしょうか。

少将を通して「ご挨拶をあれこれ申し上げなさる」のですが、宮は一向にこちらに気持を向けてくれないようです。》

 
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第三段 九月十日過ぎ、小野山荘を訪問

【現代語訳】

 九月十日過ぎで、野山の様子は、情趣の十分に分からない人でさえ普通ではいられない。山風に堪えきれない木々の梢も峰の葛の葉も、気ぜわしく先を争って散り乱れているところに、尊い読経の声もかすかに念仏などの声ばかりして人の気配がほとんどなく、木枯らしが吹きすぎている中で鹿は籬のすぐそばにたたずんで山田の鳴子にも驚かず、色の濃くなった稲の中にたちまじって鳴いているのも、もの悲しそうである。
 滝の音は、常よりもいっそう物思いをする人を心驚かし顔に、耳にうるさく響く。叢の虫ばかりが頼りなさそうに鳴き弱って、枯れた草の下から龍胆が自分だけ茎を長く延ばして露に濡れて見えるなど、みなこの時節のいつものことであるが、折柄、場所柄か、まったく我慢できないほどのもの悲しさである。
 いつもの妻戸のもとにお立ち寄りになって、そのまま物思いに耽って立っていらっしゃる。着慣れて柔らかになった直衣に紅の濃い下襲の艶がとても美しく透けて見えて、光の弱くなった夕日がそれでも遠慮なく差し込んできたので、眩しそうにさりげなく扇をかざしていらっしゃる手つきは、

「女こそこうありたいものだが、それでさえできないものを」と、拝見している。
 物思いの時の慰めにしたいほどの、微笑まれてくるような顔の美しさで、小少将の君を特別にお呼びよせになる。簀子はさほどの広さもないが、奥に人が一緒にいるだろうかと不安で、打ち解けたお話はおできになれない。
「もっと近くに。放っておかないでください。このように山の奥にやって来た気持ちは、他人行儀でよいものでしょうか。霧もたいそう深いことだ」と言って、特に奥の方を見入るのではないふうに、山の方を眺めて、

「もっと近く、もっと近く」としきりにおっしゃるので、鈍色の几帳を簾の端から少し外に押し出して、裾を引き繕って横向きに座わっている。大和守の妹なので、お近い血縁の上に、幼い時からお育てになったので、着物の色がとても濃い鈍色で、橡の喪服一襲に、小袿を着ていた。
「このようにいくら悲しんでもきりのない方のことは、それはそれとして、申し上げようもないお気持ちの冷たさをそれに加えて思うと、魂も抜け出てしまって、会う人ごとに怪しまれますので、今はまったく抑えることができません」と、とても多く恨み続けなさる。あの最期の折のお手紙の様子もお口にされて、ひどくお泣きになる。

 

《夕霧と雲居の雁の近代自然主義小説に見られるような夫婦間の家庭内的やり取りから一転して、晩秋の山里が情調たっぷりに語り起こされます。

夕霧が落葉宮恋しさに、思い立って小野の里に訪ねて分け入ったのです。妻に対してどんな口実を使ったのか気になりますが、そういう細部にこだわるのは、自然主義に親しんだ近代の悪癖というべきでしょうか。

九月、晩秋の山里は「折柄、場所柄」、そしてその山里に住む落葉宮の思いもあって、「実に我慢できないほどのもの悲しさ」でした。『評釈』が、「色の濃くなった稲の中」で鳴く鹿は「大将の心」、「叢の虫」の声は「宮の泣き声でもある」と言います。もっとも、鹿については、読者から見ると、鹿のほうがよほど真摯に見えるような気がしてしまいそうですが、大将自身はやはり自分をそのように思っているでしょうし、恐らく作者もそういう気持ちでわざわざ鹿を持ち出したのでしょう。当時の男性の恋の仕方はこういうものだったのだと思うのが穏やかとなのでしょう。

着いても、すぐに部屋にはいるのではなく、「いつもの妻戸のもとにお立ち寄りになって、そのまま物思いに耽って立って…(夕陽に)眩しそうにさりげなく扇をかざして」いるという姿は、花道に立って見栄を切っている趣です。容貌も「物思いの時の慰めにしたいほどの、微笑まれてくるような顔の美しさ」と、この上ない条件を得て、若き日の源氏さながらですが、肝心な時にともするとあのように理屈っぽい話をする(第一章第五、六段など)この人では、なにやら落ち着かない感じです。

しかし作者は、そこにいた女房に「女こそこうありたいものだ」と思わせているところを見ると、彼の合理主義はそれとして、普通に見事な貴公子ぶりとして描いているのでしょう。外見と言葉とが妙に不似合いなのがこの人のユニークさなのです。

少将を呼ぶと、実は彼女は「大和守の妹」、つまり御息所の姪ということで、御息所の喪に服している姿なのでした。

夕霧は「霧がたいそう深いことだ」と山の方を眺めるようにして、端近に誘っておいて、まず御息所の話から始め、終わりも「あの最期の折のお手紙の様子」(第三章第一段の手紙)のことで結びます。なかなかの配慮です。》

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第二段 雲居雁の嘆きの歌

【現代語訳】

 女君は、やはりこのお二人のご様子を、
「どのような関係だったのだろうか。御息所とは手紙のやり取りを親密にしていらっしゃったようだが」などと納得がゆきがたくて、夕暮の空を眺め入って臥せっていらっしゃるところに若君を使いにして差し上げなさった。ちょっとした紙の端に、
「 あはれをもいかに知りてかなぐさめむあるや恋しき亡きや悲しき

(お悲しみを何が原因と知ってお慰めしたらよいものか、生きている方が恋しいのか、

亡くなった方が悲しいのか)
 はっきりしないのが情けないのです」とあるので、にっこりとして、
「以前にも、このような想像をしておっしゃっている、見当違いな故人などを持ち出して」とお思いになる。早速に、何気ないふうに、
「 いづれとかわきてながめむ消えかへる露も草葉のうへと見ぬ世を

(特に何がといって悲しんでいるのではありません、消えてしまう露も草葉の上だけ

でないこの世ですから)
 この世の無常が悲しいのです」とお書きになっていた。

「やはり、このように隔て心を持っていらっしゃること」と、露の世の悲しさは二の次のこととして、並々ならず胸を痛めていらっしゃる。
 このように気がかりでたまらなくなって、またお越しになった。

「御忌中などが明けてからゆっくり」と、気持ちを抑えておいでだったが、そこまでは我慢がおできになれず、
「今はもうこのあらぬ浮名を、どうして無理に隠していようか。ただ世間一般の男性と同様に、最後の思いを遂げるまでのことだ」と、ご決心なさったので、北の方のご想像をあえて打ち消そうとなさらない。
 ご本人はまったくお気持ちがなくても、あの「一夜ばかりの宿を」といった恨みのお手紙を理由に訴えて、

「潔白を言い張ることは、おできになれまい」と、心強くお思いになるのであった。

 

《「所在なく物思いに耽るばかり」(前段)といった夫の毎日の様子は、それを脇で見ている雲居の雁をやっぱり変だという気持させます。

といっても、まだ「どのような関係だったのだろうか」というくらいであるところが、基本的に疑うことを知らない育ちの良さでしょうか。

しかし、そればかりの不安でも落ち着かないのも、そしてそれをストレートに夫に問いかけるというのも、また純なところです。『評釈』は「女君はこの前のことにこりたのか、ずいぶん下手に出ている」と言います。若君を使いにしたというのがせめてもの工夫と言いましょうか。

夕霧の「にっこりとして(原文・ほほゑみて)」は、そういう彼女のかわいらしさについてでもあるとともに、疑いがはっきりしているわけでもないらしいことにほっとした気持もありそうです。『集成』は「苦笑いして」と訳しますが、それでは、彼のみならず、雲居の雁の純情まで品が下がるように思われます。

彼の返事は一応「この世の無常」という一般的真理への悲しみと言いながら、「いづれとかわきてながめむ」、つまり御息所も宮もどちらもですとも言っていて、言うところの「霞ヶ関文学」のようで、雲居の雁にとっては、ずいぶん曖昧で気になるものに思われたでしょう。彼女は「並々ならず胸を痛め」る(原文・ただならず嘆きつつ)ということになってしまいました。夕霧が純な心を振り回している感があります。

その彼は、このやり取りが引き金になったかのように、宮のところに出かけていきます。

それについても、「ただ世間一般の男性と同様」でいいのだと開き直ったようで、しかも「潔白を言い張ることは、おできになれまい」と、弱みにつけ込む打算的な格好で、どうも風流でありません。》

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