【現代語訳】
十五夜の夕暮に仏の御前に宮はいらっしゃって、端近くに物思いに耽りながら念誦なさる。若い尼君たち二、三人が花を奉ろうとして鳴らす閼伽坏の音や水の音などが聞こえる、今までとは違った仕事に忙しく働いているのが、たいへん胸を打つようなところに、いつものようにお越しになって、
「虫の音がとてもたいそう鳴き乱れている夕方ですね」と言って、自分もひっそりとお唱えになる阿弥陀経の大呪が、たいへん尊くかすかに聞こえる。
いかにも虫の音がいろいろ聞こえる中で、〈鈴虫〉が声を立てているところは、華やかで趣きがある。
「秋の虫の声はどれも素晴らしい中で、〈松虫〉が特に優れているとおっしゃって、中宮が遠い野原から特別に探して来てはお放ちになったが、はっきり野原の声で鳴いているのは少ないようだ。名前とは違って寿命の短い虫のようだ。
思う存分に、誰も聞かない山奥、遠い野原の松原で、声を惜しまず鳴いているのも、まことに人に馴染まぬ虫であることだよ。〈鈴虫〉は、親しみやすく、にぎやかに鳴くのがかわいらしい」などとおっしゃると、宮が、
「 おほかたの秋をば憂しと知りにしをふり捨てがたき〈鈴虫〉の声
(秋という季節はつらいものと分かっておりますが、やはり松虫の声だけは飽きずに
聴き続けていたいものです)」
とそっとおっしゃる。とても優雅で、上品でおっとりしていらっしゃる。
「何とおしゃいましたか。いやはや、思いがけないお言葉ですね」と言って、
「 心もて草のやどりをいとへどもなほ〈鈴虫〉の声ぞふりせぬ
(ご自分からこの家をお捨てになったのですが、やはりお声は松虫と同じように今も
変わりません)」
などと申し上げなさって、琴の御琴を召して、珍しくお弾きになる。宮が御数珠を繰るのを忘れなさって、お琴の音色にじっと聴き入っていらっしゃった。
月が出て、とても明るくなったのもしみじみと心を打つので、空をそれとなく眺めて、人の世のあれこれにつけて、無常に移り変わる有様が次々と思われて、いつもよりもしみじみとした音色でお弾きになる。
《大きな儀式のあった後の、静かな夜です。
十五夜の夕暮れ時を、女三の宮は出家の生活で静かに過ごしていて、六条院にかつての平安が、一応戻ってきたように見えます。
源氏が女三の宮のところにやってきて、ふたりで秋の虫の声に聞き入っています。
文中、鈴虫と松虫に〈〉印を付けたのは、古語では松虫と鈴虫が現代と逆と呼ばれていたとされるのですが、それを言い換えると、文意が通らなくなるので、原文のままにした、という印です。例えば「名前とは違って寿命の短い虫」というのは、不老長寿の「松」を名に負っているからですし、歌の「ふり捨てがたき」や「ふりせぬ」は「鈴」でなければ出てこない言葉、という具合です。
ちなみに、巻の名前も、もちろん「鈴虫」そのままだと思われます。
もっとも、「古語の鈴虫は今の松虫だとされます」と篝火の巻第三段でも書きましたが、『辞典』は、「江戸時代の古今要覧稿以来の説」としており、一つの説に過ぎないという捉え方のようです。
ついでに、秋の虫にちなんで、『辞典』から、現代のコオロギは古語では「きりぎりす」、現代のキリギリスは古語では「はたおり」で、古語の「こほろぎ」は、秋の虫の総称で、これは一般的理解のようであることを、自分の覚えとして書き添えておきます。
宮もその秋の風情に誘われて、出家はしましたが、〈鈴虫〉の声にはやはり心引かれますと、何気なく歌を詠みます。源氏はすぐさま「世をお捨てになったあなたのお声も、以前に変わらぬ美しいお声ですよ」と、例によってくどきの気持ですが、どうもそれほど本気でもなさそうです。》
※ 明日、明後日は都合で休載し、十五日の朝から再開します。
今朝、都知事選に鳥越氏が立つと報じられました。七十六歳、数年前ガンを患われたと聞きますが、参院選の結果を憂えてのことと言われます。氏が立たれるなら、と古賀氏は下がり、宇都宮氏も下がる意向があるそうです。何が熱いものとすがすがしいものを同時に感じました。
民主主義は、例え体制側の考え方に共感する立場の人であっても、どこかに反権力の精神を持っていなければ、腐敗するのではないでしょうか。批判精神が、民主主義を支えるのだと思います。