源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

巻三十七 横笛

第四段 笛を源氏に預ける

【現代語訳】

「その笛は、私が預からねばならないわけがある物だ。それは陽成院の御笛だ。それを故式部卿宮が大事になさっていたが、あの衛門督は、子供の時から大変上手に笛を吹いたのでそれに感心して、故式部卿宮が萩の宴を催された日に、贈り物にお与えになったものだ。女の考えに深くも由緒を知らず、そのように与えたのだろう」などとおっしゃって、
「『末の世』の伝えというのは、また他に誰と間違えようか。そのように考えたのだろう」などとお考えになって、

「この君も思慮深い人なので、気づくこともあろうな」とお思いになる。
 そのご表情を見ていると、ますます遠慮されて、すぐにはお話し申し上げなされないが、せめてお聞かせ申そうとの思いがあるので、ちょうど今この機会に思い出したように、はっきり分からないふりをして、
「臨終となった折にも見舞いに参上いたしましたところ、亡くなった後の事を言い遺しました中に、これこれで、深く恐縮申している旨を繰り返し言いましたので、どのようなことでしょうか、今に至までその理由が分かりませんので、気に掛かっているのでございます」と、いかにも腑に落ちないように申し上げなさるので、
「やはりな」とお思いになるが、決してその頃のことをお口になさるべきではないので、暫く考える様子をして、
「そのような、人に恨まれるような事は、どういう折にも面に漏らしたことはないだろうと、自分自身でも思い出す事ができないな。それはそれとして、そのうちゆっくり、あの夢の事は考えがついてからお話し申そう。夜には夢の話はしないものだとか、女房たちが言い伝えているようだ」とおっしゃって、ろくにお返事もないので、お耳に入れてしまったことをどのように考えていらっしゃるのかと、きまり悪くお思いであった、とか。


《源氏にとっては思いがけない話ですが、夕霧の夢の中で柏木が息子に贈りたいといったということであれば、薫しかいません。彼はその笛を自分が預かって、渡すことにしようと考えます。

陽成院、故式部卿宮というのが誰であるのかよく分からないようで、この場の都合で出てきた人のようです(陽成院は実在した院でもあるのだそうです)が、「故式部卿宮」は『評釈』が「紫の上の父で故人になっていれば、その人の笛を源氏がもつ理由は生ずる」と言います。

そういう話をしながら、彼は、この子にはいつか事情を気づかれそうだと思いました。彼の息子の評価は高いのです。

夕霧の話の狙いはそれだけではありません。彼はもう一押し、柏木の言った「深く恐縮申している」という事情を、「いかにも腑に落ちないように」尋ねてみます。若々しく臭い芝居をしている彼の姿が浮かぶようです。

源氏はドキリとしますが、こちらも「暫く考える様子をして」、そして素知らぬ顔で、思い当たることがないと、とぼけ、「夜には夢の話はしないものだとか」と、話を逸らして打ち切りました。

そして最後に、夕霧が、こんな話をしたことがよかったのか悪かったのか、と少し気にした、というのが、また柏木同様この世代の弱いところで、源氏の若い頃は、そういうふうにもものを考えたことは一度もなかったように思います。ナンバー1である人とその人の前にいる人との違いです。

あるいは源氏も、六条御息所の前ではそういうことがあったのかもしれません。また、晩年、玉鬘の前でもあるいは…。

ところで、この笛の話はこの後話題になることはありません。するとこの笛の物語の中での役割は何だったのか、気になります。
 一つは夕霧と源氏が柏木の話をする場を作る風雅な材料、ということでしょうか。結局はうやむやになってしまったのですが、夕霧には父の周辺に表に出せない霧の部分があるという思いが残り(巻末の「きまり悪く(原文・つつましく)」は、そういう気持ちをいうのかも知れないと思ったりします)、源氏の方も、いつかこの子が自分の秘密に気づくことがあるかも知れないと、いささかの後ろめたさを抱くことになって、それぞれに心にわだかまるものを生みました。

もう一つは夕霧が源氏を訪ねることによって、後の主要人物になる匂宮と薫を予告編的に登場させ会わせることができたことも挙げてもいいでしょう。

ともあれこうして一つの事件がフェードアウトされます。》

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第三段 夕霧、源氏と対話す

【現代語訳】

 対へお渡りになったので、のんびりとお話など申し上げていらっしゃるうちに、日も暮れかかって来た。昨夜、あの一条宮邸に参った時に、どんなご様子でいらっしゃったかということなどをお話し申し上げなさるのを、ほほ笑んで聞いていらっしゃる。気の毒な故人に関わりのある話の節々には、相槌などをお打ちになって、
「その想夫恋を弾いた気持ちは、なるほど、昔の風流の例として引き合いに出してもよさそうなところだが、女はやはり、男が心を動かすようなたしなみや風雅もいい加減なことでは表わすべきではないことだと、考えさせられることが多いな。
 亡くなった人への情誼を忘れず、このように末長い好意を先方も知られたとならば、同じことならきれいな気持ちで、何かと関わり合って面白くない間違いを起こさないのが、どちらにとっても奥ゆかしく、見よいことだろうと思う」とおっしゃるので、

「そのとおりだ。他人へのお説教だけはしっかりしたものだが、このような好きごとの道はどうかな」と見申しあげなさる。
「何の間違いがございましょう。やはり、無常の世への同情から世話をするようになりました方に、当座だけのいたわりで終わったら、かえって世間にありふれた疑いを受けましょうと思いまして。
 想夫恋は、ご自分の方から弾き出しなさったのなら、非難されることにもなりましょうが、ことのついでに、ちょっとお弾きになったのは、あの時にふさわしい感じがして、興趣がございました。
 何事も、人次第、事柄次第の事でございましょう。年齢なども、だんだんと若々しいお振る舞いが相応しいお年頃ではいらっしゃいませんし、また、冗談を言って好色がましい態度を見せることに馴れておりませんので、お気を許されるのでしょうか。大体が優しく無難なお方のご様子でいらっしゃいました」などと申し上げなさっているうちに、ちょうどよい機会を作り出して、少し近くにお寄りになって、あの夢のお話を申し上げなさると、すぐにはお返事をなさらずにお聞きになって、お気づきになることがある。

 

《子供たちの声で賑やかな寝殿から、源氏と夕霧は東の対に一緒に行って、のんびりとした父子の話です。

落葉宮を尋ねた話をすると、源氏は「ほほ笑んで(原文・ほほゑみて)」聞いていました。ここ、『集成』は「にやにやして」と訳していて、そうすると夕霧の自分でも気づいていない(であろうと思われる)下心を、第三者的に面白がって見ている感じで、以下の源氏の教訓の真面目な調子と合わないように思います。『評釈』の「にこにこと」、『谷崎』の「ほほえんで」の方がいいようです。

源氏は落葉宮が想夫恋を弾いたことをいささか軽率だと思ったようで、一言批判しておいて、あわせて夕霧に「きれいな気持ちで」関わるようにと、もっともらしい訓戒です。

読者は当然あなたに言う資格はなかろうと思いますが、夕霧の「他人へのお説教だけはしっかりしたものだが」、という内心の声がおかしく、しかし格別反撥というのではなくて、このあたり、どちらが主役か、と思わせる、大人の対応です。

そして夕霧は、内心の思いだけでなく、父の懸念について説明(反論?)もします。これまで源氏の前ではほとんどその話を承るばかりだった彼も、いつのまにか大きく成長していたようです。

「当座だけのいたわりで終わったら」あらぬ疑いを受けるだろう、というのも、実直な彼らしい考え方で、色めいた気持ではなければ長続きするのだ、と言っているようです。源氏の花散里や末摘花を思い描いているのでしょうか。

あわせて宮の弁護も忘れません。「想夫恋」を宮の方から弾いたのなら、寂しさを訴えて慰めてほしいと言った形になるでしょうが、自分の方から弾いたのに対してちょっと合わせただけだから、場に合った感じでなかなか好かったですよ。…。

それにしても、「何事も、人次第、事柄次第の事でございましょう」は、父親に対してちょっと生意気というか、背伸びした感じで、大人びたふうな言葉がかえって彼の若者らしさ、未熟さを感じさせます。

しかし、彼としてうまく話ができたという気持で、やおら膝を進めて、本題の笛の話をしたのでした。》

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第二段 夕霧、薫をしみじみと見る

【現代語訳】

「見苦しく失礼な公卿のお席だ。あちらへ」とおっしゃって、お渡りになろうとすると、宮たちがまとわりついて、まったくお離れにならない。

宮の若君は宮たちとご同列に扱うべきではないとご心中にはお考えになるが、かえってそのお気持ちを、母宮が自責の気持ちから気を回されることだろうと、これもまたご性分で、お気の毒に思われなさるので、とてもかわいい者として大切にお扱い申し上げなさる。

 大将は、この若君を「まだよく見る機会がなかったことよ」とお思いになって、御簾の間からお顔をお出しになったところを、花の枝が枯れて落ちているのを取って、お見せ申してお呼びなさると、走っていらっしゃった。
 二藍の直衣だけを着て、たいそう色白で光輝いてつやつやとかわいらしいことは、皇子たちよりもいっそう肌理こまかで整って、まるまると太り清らかである。何となくそう思って見るせいか、眼差しなど、この子はもう少ししっかりして才走った様子は衛門督以上だが、目尻の切れが美しく輝いている様子などは、とてもよく似ていらっしゃる。
 口もとが、特別にはなやかな感じがして、ほほ笑んでいるところなどは、「自分がちょっと見てそう思ったせいなのか、大殿はきっとお気づきであろう」と、ますますご心中が知りたい。
 宮たちは、そう思って見るせいで気高くもみえるものの、世間普通のかわいらしい子供とお見えになるのだが、この君は、とても上品な一方、特別に美しい様子なので、比較申し上げながら、
「何と、かわいそうな。もし自分の疑いが本当なら、父大臣があれほどすっかり気落ちしていらっしゃって、『子供だと名乗って出て来る人さえいないことよ。形見と思って世話する者でもせめて遺してくれ』と、泣き焦がれていらっしゃるのに、お知らせ申し上げないのも罪なことではないか」などと思うが、

「いや、どうしてそんなことがありえよう」と、やはり納得がゆかず、推測のしようもない。気立てまでが優しくおとなしくて、懐いてお遊びになるので、とてもかわいらしく思われる。

 

《さっきまでは、明石の女御の三の宮と二宮の話でしたが、ここから二人はどこかに行ってしまったのか、「宮の若君」・薫の話になります。

「宮たちとご同列に扱うべきではない」と源氏が考えていたとあるのが、なるほどと思わされるところで、母・女三の宮と源氏の間の子供(実際は柏木との間の、ですが)は、臣下であって二人の宮とは身分が違うということでしょう。私たちには新鮮な知識です。

が、源氏がそう扱っては、今度は女三の宮が、源氏の実の子でないから差別されているのだと思って心を傷めるだろうと、そちらが心配になります。

こういう行き違いは、お互いが同じレベルの人なら話し合えば容易に解消することなのですが、女三の宮は源氏に対して負い目があり、しかも心幼い人ですから、言われれば黙って受け入れるしかなく、その分不満がくすぶるでしょう。

この上宮を苦しめるのは、今の場合かわいそうで、そういう問題を引き起こさないためには、源氏は、本当はよくないことだが、と思いながら、「とても大切にお扱い申し上げ」るしかありません。

さて、夕霧は、この子に興味津々です。もちろん、「まだよく見る機会がなかった」からだけではありません。彼は、ひょっとして、という気持を持っています。いい機会を得てよく見てみると、どうも柏木によく似ているように見えます。本当かと思いながら見ると、かえってますます「目尻が」「口もとが」と、いろいろ具体的に似ているように思えてきます。  

おまけに「とても上品な一方で、特別に美しい様子」を見ると、舅の大臣の気持ちも思い出されて、胸が騒ぎます。

どうやら彼にはもうほとんど確信に近いようですが、それでも、いや、まさか、という気もして、父の方が気になりながら、落ち着かない心のまま、懐いてくる薫を相手に遊んでいる夕霧です。》

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第一段 夕霧、六条院を訪問

【現代語訳】

 大将の君も、夢をお思い出しになると、
「この笛は厄介なものだな。故人が執着していた笛が、納まるべき所ではないところに女方から伝わるのは意味のないことだ。どのように思ったことだろうか。この世で物の数にも思っていなかったことも、あの臨終の際に一心に恨めしく思ったり、あるいは残念に思ったりする気持にこだわって、無明長夜の闇に迷うということだ。こういうことだからこそ、どのようなことにも執着は持つまいと思うのだ」などとお考え続けなさって、愛宕で誦経をおさせになる。

また、故人が帰依していた寺にもおさせになって、
「この笛をわざわざそういう由緒の深い物としてお譲り下さったのに、すぐにお寺に納めるのも、供養になるとはいうものの、あまりにあっけなさすぎよう」と思って、六条院に参上なさった。
 女御の御方にいらっしゃる時なのであった。三の宮は三歳ほどで、親王の中でもかわいらしくいらっしゃるのを、こちらにまた特別に引き取ってお住ませなさっているのであった。走っておいでになって、
「大将よ、宮をお抱き申して、あちらへ連れていらっしゃい」と、自分に敬語をつけて、とても甘えておっしゃるので、ほほ笑んで、
「ここへおいでなさい。どうして御簾の前を行けましょうか。たいそう無作法でしょう」と言って、お抱き申してお座りになると、
「誰も見ていないよ。私が、顔を隠そう。さあさあ」と言って、お袖で顔をお隠しになるので、とてもかわいらしいので、お連れ申し上げなさる。

 こちらでも二の宮が、若君とご一緒になって遊んでいらっしゃるのを、あやしておいでなのであった。隅の間の所にお下ろし申し上げなさるのを、二の宮が見つけなさって、
「私も大将に抱かれたい」とおっしゃるのを、三の宮は、
「私の大将なのだから」と言って、お放しにならない。院も御覧になって、
「たいそうお行儀の悪いお二方ですね。帝の御身近の警護の人を、自分の随身にしようと争いなさるとは。三の宮が特にいじわるでいらっしゃいます。いつも兄宮に負けまいとなさる」とおたしなめ申して仲裁なさる。大将も笑って、
「二の宮は、すっかりお兄様らしく弟君に譲って上げるお気持ちが十分におありのようです。お年のわりには、こわいほどご立派にお見えになります」などと申し上げなさる。ほほ笑んで、どちらもとてもかわいらしいとお思い申し上げていらっしゃった。

《前の段から数日後ということでしょうか、夕霧は夢のことを思い出して笛の処置を考えます。「大将の君も」の「も」が不審ですが、柏木は不満に思っているらしいし、夕霧にしても、というようなことでしょうか。

彼はとりあえず念入りに供養をしておいて、父に相談しようと六条院に持って行きます。

源氏は、女三の宮とは気まずくなり、紫の上が病がちでもあるので、普段は紫の上の東の対にいるようで、まずそこに行ってみると、源氏は明石の女御との所(寝殿の東面)に行って留守でした。代わりに、いつからかそこに住まわせている明石の女御の三の宮(後に、彼の衣に焚きしめた香の匂いの素晴らしさからと思われますが、匂宮と呼ばれる人です)が飛び出してきて、彼に甘えます。子供に好かれる人であるようで、こうしたことは初めての光景ですが、彼が子供への気配りもうまかった人であったかということでしょう。

彼は、その三の宮を抱いて求められるままに女御の所に行きました。するとそこに女御の二の宮(匂宮の兄)がいて、隣の西面(女三の宮の居所)から来ていた若君(薫)と遊んでいました。その二の宮が匂宮を抱いた夕霧を見つけると、二人での夕霧の奪い合いになってしまいました。

ちなみに女御腹の長子である東宮は数え年十歳、そのすぐ下に女一の宮があって(この人も紫の上のところで養育されています・若菜下の巻第三章第一段)、匂宮は数え年で「三歳ほど」とありますから、二の宮はその二人の間の歳、薫は二歳です。

こうした幼い子供が走り回る様は、源氏が紫の上を初めて見た時(若紫の巻第一章第三段)以来久々ですが、あの時同様に、こちらの場面も、それぞれがいかにも子供らしい振る舞いで、その言葉など、まるで聞こえるように溌剌と感じられます。

ただ、前の場合は物語上不可欠の場面だったのに対して、こちらはそういう意味では必ずしも必要なエピソードではありません。が、そのことは逆に、作者としてぜひ書いてみたい場面だったのだろうと思わせます。ここにあるような実際の場面を作者は見たことがあって、心に残っていたのではないでしょうか。何にしてもこの作者は子供を描くことに巧みですし、また好きだったようです。》

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第六段 夢に柏木現れ出る

【現代語訳】

 少し寝入りなさった夢に、あの衛門督が、まるで生前の袿姿で側に座って、この笛を取って見ている。夢の中にも、故人が厄介にもこの笛の音を求めて来たのだと思っていると、
「 笛竹に吹き寄る風のことならば末の世長きねに伝へなむ

(この笛の音に吹き寄る風は、同じことなら私の子孫に伝えて欲しいものだ)
 思っていたのとは違うことになった」と言うので、尋ねようと思った時に、若君が寝ぼけておびえてお泣きになるお声に、目が覚めておしまいになった。
 この若君がひどくお泣きになって乳を吐いたりなさるので、乳母も起き騷ぎ、母上も明かりを近くに取り寄せさせなさって、額髪を耳に挟んでせわしげに世話して抱いていらっしゃる。とてもよく太って、ふっくらとした美しい胸を開けて、乳などをお含ませになる。お子もとてもかわいらしくいらっしゃる若君なので、色白で美しく見えるが、お乳はまったく出ないのを、気休めにあやしていらっしゃる。
 男君も側にお寄りになって、

「どうしたのだ」などとおっしゃる。

魔除の撤米をし米を散らかしなどして、とり騒いでいるので、夢の情趣もどこかへ行ってしまうことであろう。
「苦しそうに見えますわ。若い人のような恰好でうろつきなさって、夜更けのお月見に格子なども上げなさったので、例の物の怪が入って来たのでしょう」などと、とても若く美しい顔をして、恨み言をおっしゃるので、にっこりして、
「おかしな物の怪の案内人だ。私が格子を上げなかったら、道がなくて、おっしゃる通り入って来られなかったでしょう。大勢の子持ちの母親におなりになるにつれて、思慮深く立派なことをおっしゃるようにおなりになった」と言って、ちらりと御覧になる目つきが、たいそう気後れするほど立派なので、それ以上は何ともおっしゃらず、
「お出になって下さい。みっともない恰好ですから」と言って、明るい灯をさすがに恥ずかしがっていらっしゃる様子も悪くない。ほんとうにこの若君は苦しがって、一晩中泣きむずかって夜をお明かしになった。

 

《贈られた笛をじっと見ている、夢の中の柏木を見て、夕霧がすぐに、これは笛を取り返しに来たのだと思ったというのがちょっと意外ですが、彼自身も受け取る時に、自分には不相応なものと思ってだいぶ断ったのでしたから、内心に負い目があって、律儀な彼としては、素直な思いと言えるかもしれません。

また、そういう柏木を「厄介に(原文・わづらはしう)」思ったというのも、友人だった相手に対する感慨としては意外ですが、実務的に事を運びたい彼としては、これも素直な思いとも言えそうです。

歌の「ことならば」は、「連語・コトはゴト(如)と同根。同じことならば」(『辞典』)の意、「ね」は「根」で、子孫を暗示するということで、彼はこの笛を自分の子供に伝えたかったのだ、と言っているようです。

夕霧は、それは誰のことかと尋ねようと思ったのですが、脇の子供が寝ぼけて騒ぎが起こって、夢は消えてしまいました。

そこから後は、一転して再び「自然主義小説」の場面です。

普通、子育てには乳母を置くのではなかったかと思うのですが、雲居の雁は自分の乳で子供を育て、自分で世話をしているようで、ちょっと意外です。「額髪を耳に挟んで」というのはかいがいしくていいようですが、当時としては「家事一点張りで、額の髪を耳挟みがちにして飾り気のない主婦で、ひたすら世帯じみた」(帚木の巻第一章第三段4節)女性は困る、とされた姿です。

泣いている子に、出ないながら乳をふくませている様子は家庭的ないい姿で、「ふっくらとした美しい胸」など健康的でもあり、なかなかどうして魅力的でもありますが、大丈夫かと声をかけて夕霧が寄っていこうとして見ると、魔除けの米を撒いたりして、そうぞうしく、まったく「夢の情趣もどこかへ行ってしまう」感じです。

夕霧は、遅い帰りに嫌みを言う妻をなだめ、見苦しい格好だから出ていって下さいという妻と一緒に一晩中泣いている子をあやして過ごしたようです。
 この場面、流れとしては、この後この笛の処置を縁に話が進むのですが、この何とも言えないほほえましい庶民的な糧の挿話が印象的です。》

 
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