源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第一章 柏木の物語(一)

第六段 女三の宮、出家を決意

【現代語訳】2
「世の中の無常な有様を見ていると、生い先も短く何となく頼りなくて、勤行に励むことが多くなっておりますので、このようなご出産の後は騒がしい気がして参ることができませんが、いかがですか、ご気分はさわやかになりましたか。おいたわしいことです」と言って、御几帳の端からお覗き込みになった。御頭をお上げになって、
「やはり生きられそうにない気が致しますので、こうした私は罪障も重いことで、尼になって、ひょっとしてそのために生き残れるのではないかと試してみて、また死んだとしても、罪障をなくすことができるかと存じます」と、いつものご様子よりはとても大人らしく申し上げなさるので、
「まことに嫌な、縁起でもないお言葉です。どうしてそんなにまでお考えになるのですか。このようなことは、実際恐ろしい事でしょうが、それだからと言って命が永らえないというなら別ですが」と申し上げなさる。ご心中では、
「本当にそのようにお考えになっておっしゃるのならば、出家をさせてお世話申し上げるのも、思いやりのあることだろう。このように連れ添っていても、何かにつけて疎ましくお思いすることになるのがおいたわしいし、自分自身でも気持ちも改められそうになく、辛い仕打ちが折々まじるだろうから、自然と冷淡な態度だと人が見咎めることもあろうことが、まことに困ったことで、院などがお耳になさることも、すべて自分の至らなさからのこととなるであろう。ご病気にかこつけて、そのようにして差し上げようか」などとお考えになるが、また一方では、大変惜しくていたわしく、これほど若く生い先長いお髪を尼姿に削ぎ捨てるのはお気の毒なので、
「やはり強くお考えになるようにして下さい。心配なさることはありますまい。最期かと思われた人も平癒した例が身近にあるので、やはり頼みになる世の中です」などと申し上げなさって、御薬湯を差し上げなさる。とてもひどく青く痩せて、何とも言いようもなく頼りなげな状態で臥せっていらっしゃるご様子は、おっとりしていじらしいので、
「大層な過失があったにしても、心弱く許してしまいそうなご様子だな」と拝見なさる。

 

《夜の訪れは絶えて、昼、顔を出しての対話です。

源氏は、もっともらしい挨拶をしますが、無理もないと思うものの、いかにも白々しい感じです。「御几帳の端からお覗き込みになった」は「つめたい」と『評釈』も言います。

宮は、出家したいと訴えますが、「いつものご様子よりはとても大人らしく申し上げなさる」というところに、彼女のひとつ吹っ切れた、決意が感じられます。

「こうした私は罪障も重い」というのは、「お産で死ぬのは罪が重いと考えられていた」と『集成』は言うのですが、『評釈』は「ほかにこのような話は出てない」と言います。どういうことなのでしょうか。

出家の話は、源氏は、言下に否定しますが、内心では、宮の気持も理解できるので、それも一つの道だろうと考えています。

何と言っても、自分がもはや宮への愛情を取り返すことが出できそうになく、このままに不愉快な生活をするのは自分も煩わしいし、宮にも気の毒だ、そしてそういう不仲は自然と人が気づくことになろうが、そうなれば外聞も悪い、そしてそれは院のお耳に入らずにはいないだろうが、事情をご存じない院は、すべては私の「至らなさ」のせいだと考えられるだろう、いっそ出家をさせてあげた方が、宮にも私にも、いいのかもしれない、…。

と、ここまで考えて、改めて宮を見ると、しかしこの若い姫を尼にしてしまうのは何とも気の毒で、しかも「頼りなげな状態で臥せっていらっしゃるご様子は、おっとりしていじらしい」と、またぞろ好色の気持ちまで湧いてくる始末で、心が定まりません。

ところで、「何かにつけて疎ましくお思いすることになる」の原文は「ことに触れて心置かれたまはむ」と、ちょっと分かりにくい言い回しですが、「『れ』は受身」(『集成』)で、女三の宮が源氏によって心置かれ」なさるのでしょう。『評釈』が「女三が気兼ねするのが気の毒で、とは、いい気なもの」と言っているのは、恐らく、らしくない誤りで、こういうところを見つけると、嬉しくなります。

『評釈』は、このあたり、「いつもと違う女三の宮に、(源氏は)気力で負けている感じである」と女三の宮の切実な思いを重んじていますが、私にはやはり源氏の自己把握の厳しさ、さまざまな現実的な気配りといった、深謀遠慮の方に大人の物語といった読み応えを感じます。》

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第六段 女三の宮、出家を決意~その1

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 宮は、あれほどきゃしゃなお身体で、とても不安で、初めてのご出産が恐しい気がなさったので、御薬湯などもお召し上がりにならず、わが身の辛い運命をこうしたことにつけても心底お悲しみになって、

「いっそのこと、この機会に死んでしまいたい」とお思いになる。

大殿は大変上手に表面を飾って見せていらっしゃるが、まだ生まれたばかりで扱いにくくていらっしゃるので、特別にはお世話申されるというでもないので、年かさの女房などは、
「何とまあ、お冷たくていらっしゃること。おめでたくお生まれになったご様子が、こんなにこわいほどお美しくていらっしゃるのに」と、おいとしみ申し上げるので、小耳におはさみになさて、
「そんなにもよそよそしいことは、これから先もっと増えて行くことになるのだろう」と恨めしく、わが身も辛くて、尼にもなってしまいたい、というお気持ちになられた。
 夜などもこちらにはお寝みにならず、昼間などにちょっとお顔をお見せになる。

 

《女三の宮の「きゃしゃなお身体」については『評釈』も挙げるとおり、「青柳が、ようやく枝垂れ始めたような感じがして、鴬の羽風にも乱れてしまいそうなくらい、弱々しい感じにお見えになる」(若菜下の巻第四章四段)といった様子でした。そして体がそうであるのと同じように、心も子供っぽく、一晩中苦しんだ挙げ句の出産に、すっかりおびえてしまったのでした。

もっとも、分娩の苦しみの中でなら、そういう思いもありそうなことと思われますが、産後ふり返って、そのために薬湯も口にしない、というのは、ちょっと分かりにくい気がします。それほどに怖れが強かったのだと思うべきなのでしょうか。

ともあれ、そのことから、「わが身の辛い運命」を、「心底お悲しみになって」というのは、無理からぬことです。『集成』がその「運命」を、「柏木とのことがあり、源氏にも疎まれているわが身の上」としていますが、柏木とのことは彼女からすれば一片の愛情もない、全くの災難だったわけで、その結果として長く悪阻で苦しみながら、しかもそれによって、畏怖を抱きながら敬愛している源氏からいよいよ疎まれることになり、おまけに今回こういう恐ろしい思いをしなければならなかった、とあっては、まったく立つ瀬が無く、「辛い運命(原文・身の心憂きこと)」というのでは、足りないほどの思いがあるのはよく分かります。

そして、源氏は、人前では「大変上手に表面を飾って見せていらっしゃる」のですが、生まれたばかりの赤子は、なにやら気味悪く思われるのでしょうか、抱き上げようともしない、といった様子です。

男にとって生まれたばかりの赤ん坊は決して心地いいものではありません。本当の我が子なら頑張って抱いてやろうという気もしますが、そうでなければ手を出しかねるのが普通でしょう。ましてここは特殊事情があるのですから、源氏の気持ちも分かる気がします。

事情を知らない「年かさの女房」は、冷たいことだと思うだけですが、そういう様子を「小耳におはさみになって」女三の宮は、これからずっとこういう冷たい関係が続くのだろうと思うと、いっそこの世を捨ててしまいたいと思うようになります。

源氏の最も近い所で、二人の夫人が(そして、第三夫人以下はほとんどいないのですが)、現世を捨てたいと思っているというのです。

そういう姫宮の思いを知らないままに、源氏はこちらへの訪れは、次第に遠くなっていきます。》


第五段 女三の宮、男子を出産

【現代語訳】

 宮は、この日の夕方から苦しそうになさったのだが、それを産気づかれたご様子だとお気づき申した女房たちが騷ぎ立って、大殿にも申し上げたので、驚いてお越しになった。ご心中では、
「ああ、残念なことよ。余計なことを考えないでお世話申すのであったら、おめでたく喜ばしい事であろうに」とお思いになるが、他人には気づかれまいとお考えになるので、験者などを召し、御修法はいつとなく休みなく行われるので、僧侶たちの中で効験あらたかな僧は皆参上して、加持を大騷ぎして差し上げる。
 一晩お苦しみ明かされて、日がさし昇るころお生まれになった。男君とお聞きになると、
「このように内証事が、あいにくなことに大変よく似た顔つきでお生まれになるとは困ったことだ。女なら何かと人目につかず、大勢の人が見ることはないので安心なのだが」とお思いになるが、また一方では、
「しかしまた、このようにつらい疑いがつきまとっていては、世話のいらない男子でいらっしゃったのも好かったことだ。それにしても、不思議なことだよ。自分が一生涯恐ろしいと思っていた事の報いのようだ。この世でこのような思いもかけなかった応報を受けたのだから、来世での罪も少しは軽くなるだろうか」とお思いになる。
 周囲の人は他に誰も知らない事なので、このように特別なお方のご出産で、晩年にお生まれになったご寵愛はきっと大変なものだろうと、思って大事にお世話申し上げる。
 御産屋の儀式は盛大でひと目を驚かす。ご夫人方がさまざまにお祝いなさる御産養、世間一般の折敷、衝重、高坏などの趣向も、特別に競い合っている様子が見えるのであった。
 五日の夜、中宮の御方から、御産婦のお召し上がり物、女房のところにも、身分相応の饗応の物を、公式のお祝いとして盛大に調えさせなさった。御粥、屯食を五十具、あちらこちらの饗応は、六条院の下部、院庁の召次所の下々の者たちまで、堂々としたなさり方であった。中宮の宮司、大夫をはじめとして、冷泉院の殿上人が、皆参上した。
 お七夜は、帝から、それも公事で行われた。致仕の大臣などは、格別念を入れてご奉仕なさるはずのところだが、最近は何を考えるお気持ちのゆとりもなく、一通りのお祝いだけがあった。
 親王方、上達部などが、大勢お祝いに参上する。表向きのお祝いの様子にも、世にまたとないほど立派にお世話して差し上げなさるが、大殿のご心中に、辛くお思いになることがあって、そう大して賑やかなお祝いもしてお上げにならず、管弦のお遊びなどはなかったのであった。

 

《さて、一方六条院では、とうとう女三の宮の出産がありました。柏木にそっくりな男の子だったと言います。後に「薫」と呼ばれて物語の中心人物の一人となる人です。

冷泉帝のお生まれの時も「とても驚くほど珍しいまでに生き写しでいらっしゃる顔形は、紛うはずもない」(紅葉賀の巻第三章第二段1節)とありましたが、実際は生まれたばかりの子供の顔が、親に似ているなどということは、お世辞の挨拶代わりに言われることはあっても、実際にそうであるということは、普通にはなかなか見られないことではないでしょうか。

ともあれ、周囲は大喜びし、大騒ぎなのですが、源氏はその陰でひとりさまざまに思いを巡らさなくてはなりませんでした。

女の子だったら人目に付かず育てられようものを、しかしそういう危うい立場の姫のいっさいの世話は私がしなくてはならなかっただろう、が、男の子だったから大方は自分で何とか切り開いて行けるかも知れない…。

それにしても巡り合わせの不思議さ、「自分が一生涯恐ろしいと思っていた事の報いのようだ。この世でこのような思いもかけなかった応報を受けた」ことだ、と、ここまでは、さもありなんと読めるのですが、その後に、「のだから、来世での罪も、少しは軽くなるだろうか」と思ったというのは、何とも打算的で驚かされます。

「源氏は、すべてを、自分にいいように解釈しようと努めるのだ」と『評釈』もいいますが、しかし実は、ここはそうではなくて、それほどにこのことによって現世で受ける今後の苦しみの大きさを予感しての言葉とも思われます。

そんな源氏のさまざまな思いをよそに、周囲は、「(源氏の正室という)特別なお方のご出産で、晩年にお生まれになったご寵愛はきっと大変なものだろう」と、一途にお祝いの騒動ですが、その分余計に、源氏の心に刺さった棘が密かに傷みます。「そう大して賑やかなお祝いもしてお上げにならず」、つまりは型どおりだけの催しだったようです。

初めの源氏の思いについて「他人には気づかれまいとお考えになる」とあることに、『評釈』が「すると、このいっさいは、どうして知れたのだ。…そんな疑惑はもたずに読み続ける読者でなくては」と言います。確かにそうなのですが、これまでたくさんの登場人物のそれぞれの心内語がふんだんに出てきたこの物語をここまで読んできて、いまさらそんなことを思う読者はいないでしょう。現代文学ではないのですから。》

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第四段 女三の宮の返歌を見る~その2

【現代語訳】2
「いやもう、この煙だけがこの世の思い出であろう。はかないことであった」と、ますますお泣きになって、お返事を臥せったまま筆を休め休めしてお書きになる。言葉の続きもおぼつかなく、筆跡も妙な鳥の脚跡のようになって、
「 行方なき空の煙となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ

(行く方もない空の煙となったとしても、思うお方のあたりは離れまいと思う)
 夕方は特にお眺め下さい。咎め立て申されるお方の目も、今はもうお気になさらずに、甲斐のないことですが、せめて憐みだけは絶えずお懸け下さい」などと乱れ書きして、気分の悪さがつのって来たので、
「もうよい。あまり夜が更けないうちに、お帰りになって、このように最期のような様子であったと申し上げて下さい。今となって、人が変だと感づいたりもしようかと、自分の死んだ後まで心に掛けるのは情けないことだ。どのような前世からの因縁で、このような思いが心に取り憑いたのだろうか」と、泣き泣きいざってお入りになったので、

「いつもは、いつまでも前に座らせて、とりとめもない話までもさせたい様子でおられたのに、お言葉の数も少ないままに」、と思うと悲しくてならないので、帰ってしまうこともできない。

ご様子を乳母も話して、ひどく泣きうろたえる。

大臣などがご心配される有様は大変なものである。
「昨日今日と少し好かったのだが、どうしてたいそう弱々しくお見えなのだろう」とお騷ぎになる。
「いいえもう、生きていられそうにないようです」と申し上げなさって、ご自身もお泣きになる。

 

《女三の宮から一緒に煙になろうと言ってもらえれば、今の柏木には、これ以上の言葉はありません。しかし「煙」が最後の「この世の思い出」とは、なんと「はかないことであった」かと、改めて涙に暮れる柏木ですが、さっそく返事をしたためます。

しかし、もはや彼には起き上がる力もなく、かつて玉鬘宛の恋文を源氏に「筆跡はとても見事で、…書き方も当世風でしゃれて」いる、と評された(胡蝶の巻第二章第二段)ものが、今や「言葉の続きもおぼつかなく、筆跡も妙な鳥の脚跡のよう」な「乱れ書き」です。それにしても、源氏の目など気にせずに、とは、自分がそのゆえにこのように追いつめられているのに、よく言ったものです。せめてもの密かな反抗というところでしょうか。

もうよい、帰れと言って、彼は、「いざって」やっとのことで部屋に入ります。

後を見送る小侍従は、これが最後かも知れないという気もして、にわかに立つこともできません。

ひとりぽつんと思いに耽る彼女のところに、乳母(小侍従の伯母にあたります・若菜下の巻第七章第一段)が出てきたのでしょうか、もちろん事の次第は知らないままにでしょうが、日ごろの柏木の様子を語り、二人はそれぞれの思いで一緒に泣きます。

「大臣などが、…」以下は、柏木が部屋に帰っての場面ということなのでしょう。「昨日今日と、少し好かった」というのも親の欲目でしょうか、今は体を動かしてぐったりしている息子を見て、折角の種々の祈祷の甲斐もなさそうで、案じて声を掛けますが、柏木の返事は、もはやすっかり諦めた感じです。》

 
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第四段 女三の宮の返歌を見る~その1

【現代語訳】1
 宮も何かとただ恥ずかしく顔向けできない思いでおられる、という様子を話す。そのようにうち沈んで、面やつれしていらっしゃるだろうご様子が、目の前にありありと拝見できるような気がして想像されなさるので、本当に抜け出した霊魂があちらに行き通うのだろうかなどと、ますます気分もひどくなるので、
「今となってはもう宮の御事はいっさい申し上げまい。この世はこうしてはかなく過ぎてしまったが、未来永劫の成仏する障りになるかもしれないと思うと、つらいことだ。気にかかるお産の事を、せめてご無事に済んだとお聞き申しておきたいものだ。見た夢をひとり胸に収めて他に語る相手もいないのが、たいそう堪らないことだよ」などと、あれこれと思い詰めていらっしゃる執着の深いことを、一方では嫌で恐ろしく思うが、おいたわしい気持ちは抑え難く、この人もひどく泣く。
 紙燭を取り寄せて、お返事を御覧になると、ご筆跡もたいそう弱々しいが、きれいにお書きになって、
「お気の毒に聞いていますが、どうしてお便りもできましょう。ただお察しするばかりです。お歌に『残らむ』とありますが、
  立ち添ひて消えやしなまし憂きことを思ひ乱るる煙くらべに

(私も一緒に煙となって消えてしまいたいほどです、辛いことを思い嘆く悩みの競い

に)
 後に残れようはずもありません」とだけあるのを、しみじみともったいないと思う。


《侍従から、姫宮の居場所の無いような思いでいる様子を聞くと、柏木には、やつれた姿が「目の前にありありと」浮かんで、本当に自分の魂が六条院に飛んで見ているような気がします。

柏木の言葉の「つらいことだ(原文・いとほしき)」は、自分の成仏についてとも、女三の宮のこととも取れます。「気の毒だ」という訳もあって(『評釈』)、それだと相手を思い遣っていることになりますが、後の、せめて安産と聞いて死にたい、という気持への繋がりを見れば、自分のことかとも思われます。

「見た夢」は、姫宮との逢瀬の時に見た猫の夢(若菜下の巻第七章第六段2節)のことで、柏木は、女三の宮の身籠もった子が自分の子であることの証しであるはずなのですが、それを知るのは結局源氏だけ(侍従も知ってはいるのですが、柏木にとっては人の数に入りません)で、当然それは伏せられるだろうから、自分は罰だけを受けて、その他のことは何もなかった、さらに言えばそれが罰であったことさえも知られないことになってしまうということを嘆いて「思い詰めて」います。確かにそれは恐ろしく、また無念なことで、それを聞く小侍従は、その執着の深さを恐ろしく思いながら、それも我が導きによってのことと思えば、さまざまな思いの涙がこぼれます。

姫宮の返事の手紙の「どうしてお便りもできましょう(『集成』訳)」の原文は「いかでかは」だけで、下は省略の形です。『評釈』、渋谷訳、『谷崎』は「見舞いにいかれません」です。

しかし、この場合、姫君が見舞いに出かけて行くというのは、相手が親でもない限り無さそうなことですし、「お便り」は、現に書いているのですから、どうも変です。何か、本当に言葉に詰まって省略したような趣さえします。要するに、私は何もできません、ということではあるでしょうが。

姫宮の返しの歌は、「一緒に煙となりたい」というもので、おまけに「後に残れようはずはありません」と添えられて、一読、まるで相思相愛の悲恋の返事です。柏木は「しみじみともったいないと思」ってしまいます。

姫宮としては、ただ現在の自分の、死んでしまいたいという思いを詠んだだけということなのでしょうか、あるいは、こういう時はこのように詠むものとよんだのでしょうか、それならこれもまた、この姫宮の幼さ、未熟さということになります。『の論』の「柏木の生と死」はそれとはまったく別に、「無残な運命を自分にもたらした柏木に対する深い恨み、激しい抗議の思いもこめられていると解すべきではないか」と言っていて、そう言われると、たしかにそういう強く迫って来る趣があることも確かです。》

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