【現代語訳】
「ここ幾月、それぞれにご心配でいらっしゃるということをお聞きしてご案じ申しておりましたが、春ごろから、普段も病んでおりました脚気という病気がひどくなって苦しみまして、しっかり立ち歩くこともできませず、日が経つにつれて臥せってしまいまして、内裏などにも参内せず、世間と絶縁したようにして家に籠もっておりました。
院のお年がちょうどにおなりになる年で、誰よりもきちんと数えてお祝いをして差し上げようということを致仕の大臣が思い立って申されましたが、『冠を挂け、車を惜しまず捨てて官職を退いた身で、進み出てお祝い申し上げるようなのも身の置き所がない。なるほどそなたは身分が低いと言っても、自分と同じように深い気持ちは持っていよう。その気持ちを御覧に入れるがよい』と、促し申されることがございましたので、重病をなんとか押して、参上いたしました。
このごろは、院は、ますますひっそりとしたご様子に世間のことはお捨てになって、盛大なお祝いの儀式をお待ち受け申されることは、お望みではありますまいと拝察いたしましたが、いろいろなことを簡略にあそばして、静かなお話し合いを心からお望みであるのを叶えて差し上げるのが、上策かと存じられます」と申し上げなさったので、盛大であったと聞いた御賀の事を、女二の宮の事として言わないのは、大したものだとお思いになる。
「ただこれだけです。簡略にした様子に世間の人は浅薄に思うに違いないが、さすがによく分かっておっしゃるので、やはりこれでよかったと、ますます安心に思われます。大将は朝廷の方ではだんだん一人前になって来たようだが、このように風雅な方面は、もともと性に合わないのであろうか。
あの院は、どのような事でもお心得のないことはほとんどない中でも、音楽の方面には御熱心で、まことに御立派に精通していらっしゃるから、そのように世をお捨てになっているようだが、静かにお心を澄まして音楽をお聞きになることは、このような時にこそ心遣いすべきでしょう。
あの大将と一緒に面倒を見て、舞の子供たちの心構えや嗜みをよく教えて下さい。音楽の師などというものは、ただ自分の専門についてはともかくも、他はまったくどうしようもないものです」などと、たいそう打ち解けてお頼みになるので、嬉しいけれども、辛く身の縮む思いがして、口数少なくこの御前を早く去りたいと思うので、いつものようにこまごまと申し上げず、やっとの思いで下がった。
東の御殿で、大将が用意なさった楽人や舞人の装束のことなどをさらに重ねて指図をお加えになる。できるかぎり立派になさっていた上に、ますます細やかな心づかいが加わるのも、なるほどこの道には、まことに深い人でいらっしゃるようである。
《「柏木の挨拶は立派である」と『評釈』が保証しますが、なるほど、きちんとしたものです。「お返事もすぐには申し上げられない」(前段)とありましたが、胸の内にそれほどのおびえを抱きながら、これだけのことを言うのは、容易なことではないでしょう。彼が懸命に背筋を伸ばして頑張っている気持を思い遣ると、痛々しいような気がします。
無沙汰の弁明はそれとして、「院のお年が…」は、十月に妻の落葉宮と院の賀に参上したときの話です。二の宮の賀とすると、三の宮の賀が遅れたことに繋がるところから、父のことにしたのが配慮がきいているところと『評釈』が解説します。父・大臣は「母の大宮との関係で朱雀院のいとこに当たり、北の方四の君は朱雀院の母弘徽殿の大后の妹であり、長男の柏木は二の宮の婿である」(『集成』)から、先に立って「誰よりも人一倍しっかりと数えてお祝いをして差し上げよう」と考えても不思議ではない、というわけです。
その際、父はすでに職を辞しているので自分が代理で行ったということにします。あくまでも二の宮は出しません。
「このごろは、院は、…」以下は、その時の院のご様子から彼の意見を語ったものです。
この度のあなた様の賀は、いくらでも「盛大なお祝いの儀式」をなさることがおできになるのでしょうが、あの時の院のご様子からして、「思うとおりにもできず、型通りに精進料理を差し上げる予定」(前段)という、「諸事簡略にあそばして、静かなお話し合いを心からお望みであるのを叶えて差し上げる」方が、かえってよろしいのではないでしょうか。
源氏は、「盛大であったと聞いた(二の宮の)御賀の事」を何も言わないで、しかも父大臣のことにして話すのを、「大したものだとお思いになる」のでした。そして、息子の夕霧はこういう方面はどうも不調法のようで任せられないとまで話して、親しく音楽の指導を頼みます。その言い方は、本当に期待しているようで、呼ばないのは「皆が変だと思うに違いない」から呼んだ(第五段)という感じではなくなっています。
柏木の方は、必要なことをともかく言い終えて、冷や汗三斗の思いで、早々に御前を下がりました。下がって音楽の指導を始めれば、さすがの技量、夕霧が用意したところに「さらに重ねて指図をお加えになる」くらいです。この人は、本当は立派な人なのです。》