源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第八章 紫の上の物語(二)

第五段 紫の上、小康を得る

【現代語訳】

 五月などはこれまで以上に晴々しくない空模様で、すっきりした気分におなりになれないものの、以前よりは少し良い状態である。けれども、やはりずっと絶えることなくお苦しみが続いている。
 物の怪の罪障を救えるような仏事として、毎日法華経を一部ずつ供養させなさる。毎日何やかやと尊い供養をおさせになる。御枕元近くでも、不断の御読経を声の尊い人ばかりを選んでおさせになる。物の怪が正体を現すようになってからは、時々悲しげなことを言うが、まったくこの物の怪がすっかり消え去ったというわけではない。
 いよいよ暑くなると息も絶え絶えになって、ますますご衰弱なさるので、何とも言いようがないほどお嘆きになる。意識もないようなご病状の中でも、このようなご様子をお気の毒に拝見なさって、
「この世から亡くなっても、私自身には少しも残念だと思われることはありませんが、これほどご心痛のようなので、自分の亡骸をお目にかけるのも、いかにも思いやりのないことだから」と、気力を奮い起こして、お薬湯などを少し召し上がったせいか、六月になってからは、時々頭を枕からお上げになった。

珍しいことと拝見なさるにつけても、やはりとても危なそうなので、六条院にはわずかの間でもお出向きになることができない。

 

《紫の上は、「五戒」を受けたものの、五月、「五月雨(梅雨の長雨)の季節」(『集成』)の鬱陶しい時期とあって、依然としてはっきりしない状態が続きます。

 物の怪の願いに添って、その罪を救えるような仏事がなされ、上を守ろうとしてなのでしょうか、「不断の御読経」(「一定の期間、昼夜間断なく、交替で、『大般若経』『最勝王経』『法華経』などを読経すること」・『集成』)が行われます。

 一方、物の怪の方も「時々悲しげなことを言う」と言います。「未練を断ってもう寄り付くまいといった趣旨のことを言うのであろう」と『集成』が注していて、こちらも、好くないことと分かりながら、わが身の性を抑えあぐねているようです。

 祈祷の効験もあまり明らかでなく、弱っていくので、源氏は大変な嘆きようなのですが、紫の上が自分も「意識もないようなご病状の中で」その源氏の様子を見て、こういう源氏に自分の亡骸を見せるわけにはいかないと、気力を奮い起こして、療養に努めます。

 こうした素直で純粋な紫の上について『構想と鑑賞』が、先に第二段で引いた部分に先立って、次のように解説しています。

「紫の上は運命として、女三の宮の降嫁を甘受せねばならず、そのことのために、源氏を信頼し得ない心持になっても、女三の宮のことは源氏が進んで求めたこととは思わないから、源氏を恨んだり憎んだりはしない。そのなんともできない人間社会のあり方が、更にいえば抜きさしならぬ自分の運命が悲しくて、源氏から離れたいのである。それと共にまた、紫の上が、源氏の同意がない限り出家しようとしないのも、その心の奥底に、源氏に対する愛情が潜んでいる。紫の上にしても、源氏の愛情をなくした地上の生活は考えたくないので、出家の希望はその心理の現れであって、源氏への憎しみは微塵もない。信頼感の喪失は源氏の好色心に対する不信ではあるが、それが宿命的に起っているため、恨み所もなくて、自分の運の拙さを嘆く外ない。」》

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第四段 紫の上、蘇生後に五戒を受く

【現代語訳】
 このように生き返りなさった後はかえって恐ろしくお思いになって、再度いくつもの大変な修法のある限りを追加して行わせなさる。
 在世の人としてさえ気味の悪いご様子だった方が、まして死後には異形のものの姿になっていらっしゃるのだろうことをご想像なさると、まことに気味が悪いので、中宮をお世話申し上げなさることまでがこの際は気が進まず、せんじつめれば女性の身は皆同様に罪障の深いものだと、すべての男女関係が嫌になって、あの他人は聞かなかったお二人の睦言に少しお話し出しになったことを言い出したので、確かにそうだったとお思い出しになると、まことに厄介なことだという気がなさる。
 御髪を下ろしたいと切に願っていらっしゃるので、持戒による功徳もあろうかと考えて、頭の頂を形ばかり鋏を入れて、五戒だけをお受けさせ申し上げなさる。御戒の師が、戒をまもることのすぐれている旨を仏に申すにつけても、しみじみと尊い文句が混じっていて、見苦しいまでお側にお付きになって涙をお拭いになりながら、仏を一緒にお念じ申し上げなさる様子は、この世に又となく立派でいらっしゃる方も、まことにこのようにご心痛になる非常時に当たっては、冷静ではいらっしゃれないものなのであった。
 どのような手立てをしてでも、この方をお救い申しこの世に引き止めておこうとばかり、昼夜お嘆きになっているので、ぼうっとするほどになってお顔も少しお痩せになっていた。

 

《源氏は、かろうじてこの世に引き戻した紫の上に、再びあのような物の怪に取り憑かれてはならないと、可能な限りの祈祷を行わせます。

その一方で、つくづくと、六条御息所の怨念の烈しさを思いました。

「在世の人としてさえ」というのは、生き霊として葵の上に取り憑いたことを言うのですが、その「気味の悪いご様子(原文・むくつけかりし人の御けはひ)」から「…まことに厄介だ」までの御息所評は、地の言葉ではなくて源氏の思いを言ったもので、しかし、それはずいぶん冷たいものです。

彼女がそのようであるしかなかった過半の責めは源氏にあるはずですが、彼はそのことをまったく思っていないようで、まことに身勝手と言うべきで、御息所の物の怪に同情したい気持になります。

最後の「厄介なことだ(原文・わずらはし)」も、源氏が紫の上を慰めるために御息所の悪口を喋った(第六章第三段)のを物の怪が聞いていたことについて言っているのですが、死者の悪口を言うのは一般にも憚られることで、まして自分を利するためにダシに使われては、御息所が不快に思うのも無理ありませんが、これについても、何の反省もありません。

もっとも、源氏は昔から反省ということのない人ですから、今更言っても始まりませんが、ところが同じく女性であるこの作者も、これまでおりおり源氏に辛口の草子地を書いてきたにもかかわらず、ここではその源氏の女性評に何の疑問も挟んでいないようで、ただ物の怪の恐ろしさという角度からしか語られていません。

この作者の姿は、物語の中ではおそらく明石の御方が最も近いのではないかと思うのですが、彼女は、身分はともかくとして、源氏に最後まで大事に思われていたからよかったのですが、もしそれがなかったら、この御息所と同じようになったのではないかと思われます。

ということは、作者にも御息所の怨念に通う思いがあったのではないか、そういう自分に対する怖れとでもいうようなものを感じていたのではないかと思われるのですが、そういう角度から物の怪が描かれることは、まったくありません。

やはり先に第二段で引いた『構想と鑑賞』の「当時の目ざめた女性」という視点は、作者の意識していたものではなくて、後世になってそう読めるという種類のものであるようです。

さて源氏は、紫の上を守るために、とうとう妥協することにしました。出家を、ほんの少しばかり認めようというのです。その儀式の間、彼は愛する妻に「見苦しいまでお側にお付きになって」、身も細るほどに精魂込めて、一緒に祈祷に加わります。やはり作者にとって源氏はあくまで素晴らしい人なのです。》

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第三段 紫の上、死去の噂流れる

【現代語訳】

 このようにお亡くなりになったという噂が世間に広がって、ご弔問に参上なさる方々があるのを、まことに縁起でもなくお思いになる。今日の祭翌日のお帰りの行列の見物にお出かけになった上達部などは、お帰りになる道すがら、このように人が申すので、
「大変な事になったものだ。この世の生甲斐を満喫した幸運な方が、光を失う日だから雨がそぼ降るのであったのだ」と、思いつき言をおっしゃる方もいる。また、
「このようにすべてに満ち足りた方は、必ず長生きできないものだ。『何を桜に(桜は散ってこそ)』という古歌もあることよ。このような方がますます世に長生きをしてこの世の楽しみの限りを尽くしたら、はたの人が困るだろう。これでやっと、二品の宮は本来のご寵愛をお受けになられることだろう。お気の毒に圧倒されていたご寵愛であったから」などと、ひそひそ噂するのであった。
 衛門督は、昨日一日を過ごすのがつらかったことを思って、今日は、弟の方々の左大弁、藤宰相などを車の奥の方に乗せて見物なさった。このように噂しあっているのを聞くにつけても胸がどきりとして、「何か憂き世に久しかるべき」と、独り口ずさんで、あちらの院に皆で参上なさる。不確かなことなので縁起でもないことを言っては、と思って、ただ普通のお見舞いの形で参上したところ、このように人が泣き騒いでいるので、本当だったのだなと、お驚きになった。
 式部卿宮もお越しになって、とてもひどくご悲嘆なさった様子でお入りになる。一般の方々のご弔問もお取り次ぎ申し上げることがおできにならない。大将の君が涙を拭って出ていらっしゃったので、
「いかがですか。縁起でもないふうに皆が申しましたので、信じがたいことで。ただ長い間のご病気と承って嘆いて参上しました」などとおっしゃる。
「大変に重態になって、月日を送っていらっしゃいましたところ、今日の夜明け方から息絶えてしまわれましたが、物の怪の仕業でした。だんだんと息を吹き返されたように聞きまして、今ちょうど皆安心したようですが、まだとても気がかりでなりません。おいたわしい限りです」と言って、本当にひどくお泣きになるご様子である。目も少し腫れている。衛門督は、自分のけしからぬ気持ちに照らしてか、この君が、大して親しい関係でもない継母のご病気を、ひどく悲嘆していらっしゃることだと、目を止める。
 このようにいろいろな方々がお見舞いに参上なさった旨をお聞きになって、
「重病人が急に息を引き取ったふうになったのを、女房たちは冷静さを失って取り乱して騷ぎましたので、私自身も落ちつきをなくして、取り乱しております。後日改めて、このおいでいただいたことにはお礼を申し上げます」とおっしゃった。

督の君は胸がどきりとして、このようなのっぴきならぬ事情がなければ参上できそうになく、何がなし恐ろしい気がするのも、心中後ろめたいところがあるからなのであった。


《紫の上逝去の噂が流れて、人々が「ご弔問」にやって来ます。原文は「御とぶらひ」(『辞典』は「訪」の字を当てて、「心をこめて相手を見舞い慰める意」とします)とありますが、諸注はっきり「弔問」と訳しています。後を読むと生き返るのですから、これで行くと、一人の人の死に、何度も弔問するということになって、ちょっと変だと思うのですが、やはり、書かれているとおり、その都度が「死」そのものであったのでしょうか。

 さて、人の死は人にさまざまことを思わせますし、言わせもします。ここに代表的に挙げられた二つの言葉は、決まり文句でありきたりの感慨をもっともらしく言う人と、傍観者の立場で、幸せな生涯を送った人に対するやっかみから、夭逝という決定的不幸さえも相対化して人の不幸を「蜜の味」として味わおうとする人と、それぞれの意味でなかなか辛辣で、作者が悲しみ一辺倒ではなく、しっかり目配りして書いていることを示していて、大変面白く読めます。

柏木は、二宮のそばにいるのもつらく、祭り見物に出かけることにしましたが、出かけると、先のような容赦ない冷たい噂話を耳にします。紫の上でさえあのように言われるのであれば、自分は一体どう言われることになるのかと思うと、生きていくことが恐ろしい気がしてきます。

彼がそういう気持ちを抱えている一方で、彼の弟たちは源氏邸の悲しみを聞けば、見舞わないわけにも行かず、総領として柏木もそれを避けることはできません。

たまたま紫の上の父・式部卿宮がやって来ますが、悲しみに放心の態で、柏木たちは取り次ぎを頼むこともできない有様、そこに折よく夕霧が出て来たので挨拶をすると、泣きながら義母の様子を話してくれました。

柏木は、彼の義母への憧れなど知る由もありませんから、その悲歎ぶりに驚きます。

多くの弔問客(?)があると聞いて、源氏が挨拶に立ちました。情理の通った挨拶で、柏木はその威厳ある様子に、今はこういうどさくさだから自分がいるとも知られないままにここにいることができたが、自分の所業を思えば、普通の状態では到底顔を合わせることはできそうにないと、改めて震え上がる気持にさせられるのでした。
 彼には、今、耳目に触れるものがみな、自分の犯した過ちを咎めるものに感じられているようなのです。》

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第二段 六条御息所の死霊出現~その2

【現代語訳】2
「中宮の御事につけても、大変に嬉しく有り難いことだと、魂が天翔りながら拝見していますが、明幽境を異にしてしまったので、子の身の上までも深く思われないのでしょうか、やはり、自分自身がひどい方だとお思い申し上げた方への執念が残るものなのでした。
 その中でも、生きているうちに人より軽くお扱いになってお見捨てになったことよりも、仲のよいお方同士のお話の時に、性格が好くなく扱いにくい女であったとおっしゃったのがまことに恨めしくて、今はもう亡くなってしまったのだからとお許し下さって、他人が悪口を言うのでさえ打ち消してかばって戴きたいとさえ思うと、そうふと思っただけで、このように恐ろしい身の上なので、このように大変なことになったのです。
 この方を心底憎いと思い申すことはないのですが、あなたの神仏の加護が強くてとてもご身辺は遠い感じがして、近づき参ることができず、お声さえもかすかに聞くだけでおります。
 今はもう、私の罪障を軽めることをなさって下さい。修法や読経の大声を立てることも、わが身には苦しく情けない炎となってまつわりつくばかりで、まったく尊いお経の声も聞こえないので、まことに悲しい気がします。
 中宮にも、この旨をお伝え申し上げて下さい。決して御宮仕え中に他人と争ったり嫉妬したりする気をお持ちになってなりません。斎宮でいらっしゃったころのご罪障を軽くするような功徳のことを必ずなさるように。ほんとうに残念なことでしたよ」などと、言い続けるが、物の怪に向かってお話なさることも気が引けることなので、物の怪を封じ込めて、紫の上を別の部屋にこっそりお移し申し上げなさる。


《六条御息所の物の怪は、言葉を尽くして逆説的に源氏への思いを語り続けます。

曰く、娘のことよりもあなたへの思いが残っている、女楽のあと紫の上に私の悪口を語ったことが何よりも恨めしい、他人がそれを言うのを止めてくれるのこそがあなたにしてほしいことだったのに、と。

そしてこの後は、どうか「私の罪障を軽めることをなさって下さい」、最後に娘・中宮に我が轍を踏まぬようにと忠告を伝えてほしい、と続けるのです。

このあたり、『構想と鑑賞』が言葉をきわめて、この御息所の執念の意味を語っています。少し長くなりますが、引いておきます。

「思うに御息所の妄執の烈しさの描写は、当時の女性が、男性の好色心によって自由自在に翻弄されて、何の抵抗もできないという悲しい貴族社会の規制の下にあったため、超自然的・悪魔的な力を借りて、男性に対し、はかない抵抗を試みていることを意味するであろう。…但しこれほどの力が生まれたのは、当時の女性が文化的に大いに生長して、男性に対して或意味では勝るとも劣らないものがあったということが、基盤となっている。…御息所はいわば、当時の目ざめた女性の情念の一面を代表するものであり、蜻蛉日記の作者の情念と通ずるものがある。紫の上は源氏の好色心に苦しめられて、当時の社会的良識を以て自己防衛しようとし、御息所は異端的邪念を以て抵抗しようとする。…」

 まったくそういうことだろうと思われますが、しかしこの物語の女性作家は、そういう新しい女性のあり方を的確に捉えてはいたようですが、必ずしもそれを支持する角度から書いているとは言えないように思います。

彼女は「物の怪に向かってお話なさることも、気が引ける」として、源氏にその物の怪を「封じ込め」させてしまいます。

当時の読者は、恐らくそれを当然の措置として読んだのでしょうが、私には、どうも御息所が哀れで、源氏の措置を冷たきに過ぎるもののように思われますが、どうでしょうか。

そして物の怪が取り憑いた憑坐を一室に封じ込めて、その間に紫の上を「別の部屋にこっそりお移し申し上げ」てしまいます。》

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第二段 六条御息所の死霊出現~その1

【現代語訳】1

 ひどく調伏されて、
「他の人は皆去りなさい。院お一方のお耳に申し上げたい。私をこのいく月も調伏し困らせなさるのが情なく辛いので、同じことなら思い知らせてさしあげようと思ったが、そうは言っても死にそうなほど身を粉にして悲嘆に暮れていらっしゃるご様子を拝見すると、今でこそ、このようなあさましい姿に変わっているが、昔の心が残っていればこそこのように参上したので、お気の毒な様子を放って置くことができなくて、とうとう現れ出てしまったことです。決して知られまいと思っていたのに」と言って、髪を振り掛けて泣く様子は、まったく昔御覧になった物の怪の姿と見えた。あの時あまりのことにあきれて恐ろしいことだと心底お思い込みになったのと変わらないのも忌まわしいので、この童女の手を捉えて、じっとさせて、体裁の悪いようにはおさせにならない。
「本当にあなたか。よくない狐などというものの気の狂ったのが、亡くなった人の不名誉になることを言い出すということもあると言うから、はっきりと名乗りをせよ。また誰も知らないようなことで、心にはっきりと思い出されるようなことを言え。そうすれば、少しは信じもしよう」とおっしゃると、ぽろぽろとひどく泣いて、
「 わが身こそあらぬさまなれそれながらそらおぼれする君は君なり

(私はこんな変わりはてた身の上となってしまいましたが、知らないふりをするあな

たは昔のままですね)
 本当にひどい、ひどい」と泣き叫ぶ一方で、そうはいっても恥ずかしがっている様子は昔に変わらず、かえってまことに疎ましい気がして情けないので、何も言わせまいとお思いになる。

 

《その物の怪が語り始めました。言わば病の原因が分かって、後はどう対処するかという問題に移ったということでしょうか。

しかし、それはなかなか対処の難しい物の怪でした。

それは「まったく昔御覧になった物の怪の恰好」だった、ということは、あの葵の上に取り憑いた六条御息所の死霊ということになります。それが、祈祷の厳しさ故ではなくて、「昔の心が残って」いるので、源氏の悲歎を見るに見かねて姿を現したのだと言うのでした。御息所は源氏に対して、かわいさ余って憎さ百倍、最愛の紫の上に取り憑いて死の淵に追い込むことができたのですが、それがうまくいくと、今度は逆にそれを悲しむ源氏がいとおしくて、自分の正体が現されることを厭わず姿を現した、と言うのです。この物の怪の思いは、察するに余りある、何とも切ないもので、その深さは、葵祭の車争い(葵の巻第一章第二段)から二人の破局の場となったあの「野宮の別れ」(賢木の巻第一章第二段)を経て、連綿と繋がっているものです。

物の怪が姿を現したことによって、紫の上は息を吹き返したのですから、物の怪が得たものは、ただ自分の無念の思いを再び源氏に語ることができるということだけです。

しかもそれによって彼女は、源氏からさらにうとましいものと思われることは必定です。彼女に残るものは何もありません。それでも、かの物の怪は姿を現したのです。

源氏はまちがってもそれが六条御息所の霊だなどと人に知れないように配慮して童女をしっかりと抑えながら、それが本当にかの人なのかと問いかけると、直接名乗りこそしないながら、それと明かし、精一杯の恨みを歌にします。「ぽろぽろとひどく泣いて(原文・ほろほろといたく泣きて)」が読む者の心を打ちます。》

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