【現代語訳】
督の君は、宮以上にかえって逢瀬を遂げたばかりに苦しさがまさって、寝ても起きても日を暮らしかねていらっしゃる。祭の日などは、見物に先を争って行く公達が連れ立って誘うが、気分がすぐれないように振る舞って、物思いに沈んで横になっていらっしゃる。
女宮を大事にしているふうにお扱い申し上げて、ほとんど親しくお逢い申されることもなさらず、ご自分の部屋に離れて籠もって、何をするともなく心細く物思いに耽っていらっしゃるところに、女童が持っている葵を御覧になって、
「 くやしくぞつみをかしける葵草神のゆるせるかざしならぬに
(悔しい事に罪を犯してしまったことよ、神が許した仲ではないのに)」
と思うにつけても、まことになまじ逢わないほうがましな思いである。
世間のにぎやかな車の音などをよそ事のように聞いて、我から招いた物思いに、一日が長く思われる。
女宮も、このような様子のつまらなさそうなのがお分かりになるので、どのような事情とはお分かりにならないが、居心地悪く心外なことと思われるにつけ、面白くなくお思いなのであった。
女房などは、見物に皆出かけて、人少なでのんびりしているので、物思いに耽って、箏の琴をやさしく弾くともなしに弾いていらっしゃるご様子も、内親王だけあって気品があって優雅だが、
「同じ皇女を頂くなら、もう一段及ばなかった運命よ」と、今なお思われる。
「 もろかづら落葉を何にひろひけむ名はむつまじきかざしなれども
(劣った落葉のような方をどうして娶ったのだろう、同じ院のご姉妹ではあるが)」
と遊び半分に書いているのは、まこと失礼な蔭口である。
《柏木の苦しさ(不安と怖れ)は、源氏のお叱りを恐れているだけの子供っぽい姫宮とは違っていました。
姫宮の方は、あれでも宮家の姫君で、今や二品の位でもあって(第三章第一段)、当人の思いはともかく、源氏としても一目置かねばならない立場です。
それに比べて柏木は、地位は高く後ろ盾は太政大臣と言っても、あくまで宮仕えの身、準太上天皇で、しかも実質的な権勢を誇る源氏の顔色は、何は措いても覗わなければなりません。機嫌を損じれば死活問題ともなります。
もともとここまでの罪を犯すつもりなどなく、ただ身近に逢いたいと思っていただけだった(第四段2節)のですが、なまじ逢ったばかりに、その時自分の中にわき起こった衝動に圧されて大きな一線を越えてしまったことが悔やまれてなりません。
彼には、自らの罪悪感と現実的な立場の危うさという両方の怖れがあります。
時は初夏、葵祭を迎えて都中が浮き立っている時ですが、彼だけは到底そんな気分にはなれません。
『構想と鑑賞』は「まだ露見したわけでもないのに、このようにくよくよする所に、柏木の善良さが出ている」と言いながら、「源氏などは父帝の后を犯し、子まで生まして知らぬ顔をして、父帝と親しくするだけのずぶとさがあった」と言います。確かに、源氏の藤壺とのことへの怖れは、帝の前で御子を抱いた時に「恐ろしくもかたじけなくも嬉しくもあわれにも、あちこちと揺れ動く思い」(紅葉の賀の巻第三章第三段1節)とありましたが、密通自体に対する後悔はありませんでした。二人の地位の違いは決定的でしょうし、また当時源氏は十八歳、今三十一歳の柏木と分別にも違いがあるでしょう。柏木の方が普通の感覚と思われ、その「苦しさ」の方が私たちにはよく分かる気がします。
さて、こうなると、彼はもう、女宮(正室・女二の宮)のことなどには目も向きません。一応正室としての扱いはしますが、形ばかり、祭の葵(逢う日)を見ても、逢ったばかりに罪を作ったと思われるばかり、といったありさまです。
女宮も、そんな夫の上の空の様子に気がつくと、その理由はわからないままに、もともと「身分の低い更衣腹でいらっしゃった」(第七章第一段)彼女としては、自分のせいのような気がして居心地悪く、女房たちが祭に出払った後は所在なく、手すさびの琴をつま弾きます。その様子は「内親王だけあって高貴で優雅」なのですが、柏木の目には、あの三の宮に比べて、同じ「もろかずら」でもこちらは「落ち葉」のようにしか見えません。彼はこっそりとひどいいたずら書きをしながら、罪悪感と不安と、そしてかすかな喜びに心を揺らせています。
この女二の宮は、この歌によって後世「落葉宮」とかなり不名誉な名を与えられて、しかし、少し後から一つの大きなエピソードの主役を務めることになります。》