源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第七章 柏木の物語(二)

第八段 柏木と女二の宮の夫婦仲

【現代語訳】

 督の君は、宮以上にかえって逢瀬を遂げたばかりに苦しさがまさって、寝ても起きても日を暮らしかねていらっしゃる。祭の日などは、見物に先を争って行く公達が連れ立って誘うが、気分がすぐれないように振る舞って、物思いに沈んで横になっていらっしゃる。
 女宮を大事にしているふうにお扱い申し上げて、ほとんど親しくお逢い申されることもなさらず、ご自分の部屋に離れて籠もって、何をするともなく心細く物思いに耽っていらっしゃるところに、女童が持っている葵を御覧になって、
「 くやしくぞつみをかしける葵草神のゆるせるかざしならぬに

(悔しい事に罪を犯してしまったことよ、神が許した仲ではないのに)」
と思うにつけても、まことになまじ逢わないほうがましな思いである。
 世間のにぎやかな車の音などをよそ事のように聞いて、我から招いた物思いに、一日が長く思われる。
 女宮も、このような様子のつまらなさそうなのがお分かりになるので、どのような事情とはお分かりにならないが、居心地悪く心外なことと思われるにつけ、面白くなくお思いなのであった。
 女房などは、見物に皆出かけて、人少なでのんびりしているので、物思いに耽って、箏の琴をやさしく弾くともなしに弾いていらっしゃるご様子も、内親王だけあって気品があって優雅だが、

「同じ皇女を頂くなら、もう一段及ばなかった運命よ」と、今なお思われる。
「 もろかづら落葉を何にひろひけむ名はむつまじきかざしなれども

(劣った落葉のような方をどうして娶ったのだろう、同じ院のご姉妹ではあるが)」
と遊び半分に書いているのは、まこと失礼な蔭口である。

 

《柏木の苦しさ(不安と怖れ)は、源氏のお叱りを恐れているだけの子供っぽい姫宮とは違っていました。

姫宮の方は、あれでも宮家の姫君で、今や二品の位でもあって(第三章第一段)、当人の思いはともかく、源氏としても一目置かねばならない立場です。

それに比べて柏木は、地位は高く後ろ盾は太政大臣と言っても、あくまで宮仕えの身、準太上天皇で、しかも実質的な権勢を誇る源氏の顔色は、何は措いても覗わなければなりません。機嫌を損じれば死活問題ともなります。

もともとここまでの罪を犯すつもりなどなく、ただ身近に逢いたいと思っていただけだった(第四段2節)のですが、なまじ逢ったばかりに、その時自分の中にわき起こった衝動に圧されて大きな一線を越えてしまったことが悔やまれてなりません。

彼には、自らの罪悪感と現実的な立場の危うさという両方の怖れがあります。

時は初夏、葵祭を迎えて都中が浮き立っている時ですが、彼だけは到底そんな気分にはなれません。

『構想と鑑賞』は「まだ露見したわけでもないのに、このようにくよくよする所に、柏木の善良さが出ている」と言いながら、「源氏などは父帝の后を犯し、子まで生まして知らぬ顔をして、父帝と親しくするだけのずぶとさがあった」と言います。確かに、源氏の藤壺とのことへの怖れは、帝の前で御子を抱いた時に「恐ろしくもかたじけなくも嬉しくもあわれにも、あちこちと揺れ動く思い」(紅葉の賀の巻第三章第三段1節)とありましたが、密通自体に対する後悔はありませんでした。二人の地位の違いは決定的でしょうし、また当時源氏は十八歳、今三十一歳の柏木と分別にも違いがあるでしょう。柏木の方が普通の感覚と思われ、その「苦しさ」の方が私たちにはよく分かる気がします。

さて、こうなると、彼はもう、女宮(正室・女二の宮)のことなどには目も向きません。一応正室としての扱いはしますが、形ばかり、祭の葵(逢う日)を見ても、逢ったばかりに罪を作ったと思われるばかり、といったありさまです。

女宮も、そんな夫の上の空の様子に気がつくと、その理由はわからないままに、もともと「身分の低い更衣腹でいらっしゃった」(第七章第一段)彼女としては、自分のせいのような気がして居心地悪く、女房たちが祭に出払った後は所在なく、手すさびの琴をつま弾きます。その様子は「内親王だけあって高貴で優雅」なのですが、柏木の目には、あの三の宮に比べて、同じ「もろかずら」でもこちらは「落ち葉」のようにしか見えません。彼はこっそりとひどいいたずら書きをしながら、罪悪感と不安と、そしてかすかな喜びに心を揺らせています。

この女二の宮は、この歌によって後世「落葉宮」とかなり不名誉な名を与えられて、しかし、少し後から一つの大きなエピソードの主役を務めることになります。》

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第七段 柏木と女三の宮の罪の恐れ

【現代語訳】

 女宮のお側にもお帰りにならないで、大殿へこっそりとおいでになった。横にはなったが目も合わず、あの見た夢も当たるかどうか難しいことを思うにつけても、あの夢の中の猫の様子が、とても恋しく思い出される。
「それにしても大変な過ちを犯したものだな。この世に生きて行くことさえ、恥ずかしくなってしまった」と恐ろしく、何となく身もすくむ思いがして、出歩きなどもなさらない。女のお身にとっては言うまでもないが、自分を考えてもまことにあるまじき事という中でも恐ろしく思われるので、思うようにも出歩くことができない。
 帝のお妃との間に間違いを起こして、それが評判になったような時に、これほど苦しい思いをするなら、そのために死ぬことも苦しくないことだろう。それほどひどい罪に当たらなくても、この院に睨まれ申すことは、まことに恐ろしく目も合わせられない気がする。
 この上ない高貴な身分の女性とは申し上げても、少し世慣れた所もあって、表面は優雅でおっとりしていても心根はそうでもない所がある人は、あれやこれやの男の言葉に靡いて情けをお交わしなさる例もあるのだが、この方は深い思慮もおありでないが、ひたすら恐がりなさるご性質なので、もう今にも誰かが見つけたり聞きつけたりしたかのように、目も上げられず、後ろめたくお思いでいらっしゃるので、明るい所へお出になることさえおできにならず、まことに情けないわが身の上だと、自分自身思い知られているようだ。
 ご気分がすぐれないとあったので、大殿はお聞きになって、たいそうお心をお尽くしになるご看病に加えて、またどうしたことかとお驚きになってお渡りになった。
 どこそこと苦しそうな事もお見えにならず、とてもひどく恥ずかしがり沈み込んで、まともにお顔をお合わせ申されないのを、

「長くなった絶え間を恨めしくお思いになっていらっしゃるのか」と、お気の毒に思って、あちらのご病状などをお話し申し上げなさって、
「もう最期かも知れません。今になって薄情な態度だと思われまいと思いましてね。幼いころからお世話して来て、放って置けないので、このように幾月も何もかもうち忘れて看病して来たのですよ。いつかこの時期が過ぎたら、きっとお見直し頂けるでしょう」などと申し上げなさる。このようにお気づきでないのも、お気の毒にも心苦しくもお思いになって、宮は人知れずつい涙が込み上げてくる。

 

《柏木は一条の妻の所には帰らず、三条の父の屋敷に帰って布団にもぐり込みます。まだ興奮冷めやらず、ということでしょうか、「目も合わず」眠るどころではないままに、さまざまに思い乱れています。

 彼は、思えば思うほど大変なことをしてしまったという気がして、源氏に知られたらどうなることかと恐ろしく、家に籠もってしまいます。

 姫宮は、と言えば、こちらも、他の何ごともなく、ただ源氏に知られることだけが恐ろしくて、部屋に籠もってしまいました。

ところで、ここは、いろいろわかりにくい点のあるところです。

まず、初めのあたりの柏木の考えたことについて、「あの見た夢が…(原文・見つる夢のさだかに合はむことも難きをさへ思ふに、かの猫のありしさま、いと恋しく思ひ出でらる)」が、よく分かりません。「難しい」と思ったというのは、そうあってくれればよいのに、と思ったというように感じられますが、起こしたことだけでも大変なことと思っているの、子供ができてほしいなどと思うはずはないように思われます。

それに、「懐妊することも難しい」と思うと、どうして、その夢の中の猫のさまが「恋しく思い出される」のでしょうか。単に、猫が二人の新しい関係の象徴として「恋しく」思われるということなのでしょうか。

もう一つ、「帝のお妃との間に間違いを起こして、…」(A)と、「この院に睨まれ申すことは…」(B)は、どうつながるのでしょうか。Aで死罪になるのは「死ぬことも苦しくない」、つまり仕方がないが(まさか、本望だというのではありますまい)、Aほどの大罪ではないけれども、Bも居場所がないほど同じように恐ろしいということなのでしょうか。

また、姫宮についても、紫の上の看病をしていた源氏が、こちらもお加減がよくないと知らせを受けて飛んで来て、姫宮の不興の様子を自分の無沙汰のせいだろうと考えて慰めると、その勘違いに、宮が「お気の毒にも心苦しくもお思いになっ」た(原文・いとほしく、心苦しくおぼされて)、と、思いやりに近い気持を抱くというのが、「ひたすら恐がりなさるご性質」というのではなくて、一人前の妻の思いのように感じられて、不似合いな気もします。

そういうことはいろいろありますが、ここは柏木と女三の宮それぞれが不安と怖れにうちふるえて部屋に籠もっているのだという、当たり前の話として取りあえず納得して、先に行きます。

その話は次の段まで続きますが、その後、物語はしばらく、そういう二人を脇に置いて、別の話に進んでいきます。》

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第六段 後朝の別れ

【現代語訳】

 夜が明けてゆく様子であるが、帰って行きようもなく、かえって逢わないほうがましであったほどである。
「いったいどうしたらよいのでしょう。ひどくお憎みになっていらっしゃるので、再びお話し申し上げることも難しいでしょうに、ただ一言お声をお聞かせ下さい」と、さまざまに申し上げて困らせるのも煩わしく情けなくて、何もまったくおっしゃることができないでおられるので、
「しまいには、薄気味悪くさえなってしまいます。他にこのような例はありますまい」と、まことに辛いとお思い申し上げて、
「そういうことなら生きていても無駄のようですね。いっそ死んでしまいましょう。生きていたいからこそ、こうしてお逢いもしたのです。今晩限りの命と思うとたいそう辛うございます。少しでもお心を開いて下さるならば、それを引き換えにして命を捨てもしましょうが」と言って、抱いて外へ出るので、しまいにはどうするのだろうと、呆然としていらっしゃる。

 隅の間の屏風を広げて妻戸を押し開けると、渡殿の南の戸の昨夜入った所がまだ開いたままになっているが、まだ夜明け前の暗いころなのであろう、ちらっと拝見しようとの気があるので、格子を静かに引き上げて、
「このように、まことに辛い無情なお仕打ちなので、正気も消え失せてしまいました。少しでも気持ちを落ち着けよとお思いならば、せめて一言かわいそうにとおっしゃって下さい」と脅し申し上げるのを、とんでもないとお思いになって、何かおっしゃろうとなさったが、体が震えて、ほんとうに子供っぽいご様子である。
 夜がどんどん明けて行くので、とても気が急かれて、
「しみじみとした夢語りも申し上げたいのですが、このようにお憎みになっていらっしゃっては。そうは言っても、やがてお思い当たりなさることもございましょう」と言って、気ぜわしく出て行く明けぐれは、秋の空よりも物思いをさせるのである。
「 おきてゆく空も知らねば明けぐれにいづくの露のかかる袖なり

(起きて帰って行く先も分からない明けぐれに、どこから露がかかって袖が濡れるの

でしょう)」
と、袖を引き出して訴え申し上げるので、帰って行くのだろうと、少しほっとなさって、
「 明けぐれの空に憂き身は消えななむ夢なりけりと見てもやむべく

(明けぐれの空にこの身は消えてしまいたいものです、夢であったと思って済まされ

るように)」
と、力弱くおっしゃる声が、若々しくかわいらしいのを、聞きも果てないようにして出てしまったが、その魂はほんとうに身を離れて後に残った気がする。

 

《柏木は、思いは遂げたものの、まだ宮の気持を聞いていませんし、実は顔もきちんとは見ていないので、このままでは帰るに帰れない気持ですが、一方で夜明けが近づき、人に知られないで返らなくてはなりません。あまりにつらく、ほとんど後悔する気持ちです。

何とか一言を聞こうと、繰り返し嘆願しますが、姫宮は、そういう言葉がただ「煩わしく」、また、わが身が「情けなく」て、さめざめと泣いているばかりで、まったく口を利くことができないでいます。

姫宮は、どうやら柏木のことを考えているのではなかったようなのです。

彼女が正気に返って一番先に考えたのは「院(源氏)にも、今はどうしてお目にかかることができようか」ということで、それを思って「まるで子供のようにお泣きにな」った(前段)のでした。つまり彼女は源氏に叱られるのではないか、ということで胸も頭もいっぱいで、そこには柏木の言葉などの入り込む余地は、とてもありそうにありません。

どうしても一言が聞けない柏木は、とうとう姫宮を抱き上げて外に出ようとします。意外な行動で、姫宮は「どうするのだろうと、呆然として」いますし、読者もどうするつもりかと思いますが、声が聞かせてもらえないなら、せめて明るいところで姿を見たいということのようです。ずいぶん危険な振る舞いですが、柏木も動顛して、本当に「正気も消え失せて」いるのでしょうか。

ここで彼は「渡殿の南の戸の昨夜入った所がまだ開いたままになっている」のを見ます。『集成』はこれを「まだ外の暗いことが察しられる、という文面」と言いますが、それよりもこの時柏木は、自分が昨夜何をしたのかということを、例えば監視カメラの映像を見せられるように見せつけられた思いがしたのではないでしょうか。

彼は、廂の間から妻戸を開けて、明けぐれの薄明かりの中で身を震わせている姫宮の「子供っぽい」様子を見ます。

その間にもどんどん夜明けが近づいて、もう帰るしかありません。ほんの一言言葉が交わせれば、という気持だったのが、思いがけない大変なことをしてしまって、しかもその後の後味の悪さに、心をそこに残したまま、柏木は帰っていきます。

ところで、それぞれに気が動顛しているように見える二人が、それでもなお、別れに歌を詠み交わす、というのは、どうも理解しがたく思われます。

『光る』が、特に女三の宮について「丸谷・一つには、ここで歌を返せば、この男は帰ってくれる、という気持もあるけれども、…こういう時には散文としての日常会話よりも、むしろ和歌の方がまだしも楽なんですね。儀式性にこと寄せて型でいくから口にしやすい」と言いますが、当時の男女はこういう時に本当に歌を詠み交わしたのでしょうか。

例えば江戸歌舞伎の胸の空くような小気味いい啖呵に、現実生活では到底そういう名台詞など思いも及ばない町人が、それを聞いて日ごろの溜飲を下げたと言われるように、こういう時にこういう歌が交わせたら、という、ドラマの中だけのことではなかったか、と思うのですが。》

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第五段 柏木、猫の夢を見る

【現代語訳】

 ほんのちょっとまどろんだとも思われない夢の中に、あの手なずけた猫がとてもかわいらしく鳴いてやって来たのを、この宮にお返し申し上げようとして自分が連れて来たように思われたが、どうしてお返し申し上げたのだろうと思っているうちに、目が覚めて、どうしてあんな夢を見たのだろうと思う。
 宮は、あまりにも意外なことで、現実のことというお気持ちにもなられないので、胸がふさがる思いで、途方に暮れていらっしゃるところに、
「やはりこのように逃れられないご宿縁が、浅くなかったのだとお思い下さい。自分の心ながら、正気でないように、思われます。」

あの覚えのなかった御簾の端を猫の綱が引いた夕方のこともお話し申し上げた。
「なるほど、そういうこともあったような気がする」と残念で、前世からの宿縁が辛い御身の上なのであった。

「院にも、今はどうしてお目にかかることができようか」と悲しく心細くて、まるで子供のようにお泣きになるのを、まことに恐れ多く、いとしいと拝見して、相手のお涙までを拭う袖は、ますます露けさがまさるばかりである。

 

《「ほんのちょっとまどろんだとも思われない」は、「この前後、宮との間に密通があったことを暗示」(『集成』)しているというのは、成り行き上、分かりやすいところです。そしてこういう時に「獣を夢見るは懐胎の相なり」と古書にあるそうです(同)。

 朱雀院から源氏への二つの願い出、女三の宮の降嫁と、その姫宮に最後に一度会いたいという頼みは、たまたま六条院に投げ込まれた二つの小石となって、その起こした波紋が、とうとうここまで大きな波となってしまいました。

 夢の中のような通り過ぎて、この二人が出会ったのは、大変なことをしてしまったという恐怖と狼狽でした。

 『構想と鑑賞』は、こうした事件が起こったのは「柏木の異常な宮への恋慕」と、小侍従の至らなさと、宮のあまりに子供じみた対応にある、と言いますが、もし本当にこの物語をそのように異例の出来事の偶然の結果というふうに読むなら、そんな物語のために、これほどの大部な著述は必要なかったでしょう。

 例えばこの事件は、源氏と藤壺の事件に重なるものですが、源氏に比べて柏木の思いが特に異常だとは言えないでしょうし、小侍従と王命婦にも大差なく、こういう手引きをする女房はしばしばいたでしょう。藤壺はこの姫宮のように子供じみてはいませんでしたが、それでも事件は起こってしまいました。

ここは『評釈』の言うように、「貴婦人は力で制することはしない。力でむかわれれば征せられるだけ」なのだと思って読むところでしょう。

そして、それよりも、幾度も言って来ましたが、投げられた小石が水面に波紋を広げるように自然に(つまり、避けがたく)この事件に到り着くという、人間誰しもが背負わなければならないさまざまな運命というものの不思議な力、人生の摂理の逃れがたさ、あるいは人間の愚かしさ、その悲喜劇性、とでも言うべきものを巧みに描き出した、ここに至る物語の展開に見られる構想の面白さに目を向けたいと思います。

そもそも(と言うと偉そうですが)物語の展開とは、その物語の中で生起する前後二つの事件の差違、高低差(例えば身近に芥川龍之介『鼻』で言えば、その冒頭と結末の鼻が長いという事実に対する内供自身の思いと周囲の人々の思いそれぞれの差違、高低差)を指すというのが基本形と言えるでしょうから、私たちはこれからこの事件の行く末を、一方で、朱雀院が愛娘を源氏に降嫁させるという些か不自然な、ほんのちょっとした石ころが起こした波紋の中に浮沈する人々の物語であることを絶えず思い出しながら、辿っていくことが必要になります。そこでは、三十年ほど前のあの源氏と藤壺の事件(若紫の巻第二章第一段)が、別の相貌をもって見えてくるはずです。》

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第四段 小侍従、柏木を導き入れる~その2

【現代語訳】1

「人数の者ではありませんが、まことにこんなにまでも軽蔑されるべき身の上ではないと存ぜずにはいられません。
 昔から身分不相応の思いがございましたのを、ひたすら秘めたままにしておきましたならば心の中に朽ちて過ぎてしまったでしょうが、かえって少し願いを申し上げさせていただいて、院におかれてもお耳にお入れになられたところまったく問題にならないように仰せにはならなかったので、望みを繋ぎ始めまして、身分が一段劣っていたがために誰よりも深くお慕いしていた気持ちを無駄なものにしてしまったことだと残念に思うようになりました気持ちが、すべて今では甲斐のないことと思い返しはいたしますが、どれほど深く取りついてしまったのか、年月と共に残念にも辛いとも気味悪くも悲しくも、さまざまに深く思いがつのることに堪えかねて、このように大それた振る舞いをお目にかけてしまいましたのも、一方ではまことに思慮浅く恥ずかしいので、これ以上大それた罪を重ねようという気持ちはまったくございません」と言い続けるうちに、この人だったのだとお分りになると、まことに不届きで恐ろしいことに思われて、何もお返事なさらない。
「まことにごもっともなことですが、世間に例のないことではございませんのに、又とないほどの無情なご仕打ちならばまことに残念で、かえって向こう見ずな気持ちも起こりましょう。せめて不憫な者よとだけでもおっしゃって下されば、その言葉を承って退出しましょう」と、さまざまに申し上げなさる。

 はたから想像すると威厳があって、馴れ馴れしくお逢い申し上げるのもこちらが気の引けるように思われるようなお方なので、

「ただこのように思い詰めているほんの一部を申し上げて、なまじ色めいた振る舞いはしないでおこう」と思っていたが、実際それほど気品高く恥ずかしくなるような様子ではなくて、やさしくかわいらしくて、どこまでももの柔らかな感じにお見えになるご様子で、上品で美しく思えることは、誰とも違う感じでいらっしゃるのであった。
 賢明にも自制していた分別も消えて、

「どこへなりとも連れて行ってお隠し申して、自分もこの世を捨てて姿を隠してしまいたい」とまで思い乱れた。


《驚きと怖れで震えて身を引くようにしている女三の宮を、柏木は懸命に口説きます。

ずっと以前から長い間あなたをひそかにお慕いしていましたが、それはそのまま心の中で朽ちるはずでした、ところが、婿候補に名乗りを上げることができたことで、望みを繋ぎ始めて、それが身分が少し低いだけで駄目になってみると、大変残念に思われて、かえってもう思いが止まらなくなって、とうとう今こうして「大それた振る舞い(原文・おほけなきさま)」をしてしまいました、しかし「これ以上大それた罪を重ねようという気持ちはまったくございません」、…。

『光る』は、この口説きが「あまりに非論理的」と言うのですが、かねて「高貴な女性をという願いが強くて、独身で過ごし」ていた(若菜上の巻第二章第四段)という誇り高い人なら、いささか動機不純ではあっても、ありそうなことのように思われます。

彼は自分の気持ちを率直に語っているのでしょう。ところが、女三の宮は気が動顛してしまったのでしょう、何を言っていいのか分からず、ただおびえて黙って震えています。

柏木は重ねて、ここで冷たくされたら「かえって向こう見ずな気持ちも起こりましょう」と脅迫めいたことを言って、ただ一言、「不憫な者よ(原文・あはれ)」とお言葉を頂ければ、それで「退出いたします」と迫ります。

言いながら姫宮を見ると、予想していたような源氏の正室といった重々しさがなくて、「やさしくかわいらしくて、どこまでももの柔らかな感じ」に見えて、もっと近づいてもいいような気がしてきました。そして、彼は宮から一言を引き出そうと掻き抱いて語っているうちに、「賢明にも自制していた分別も消えて」しまったのでした。

若者らしい、自然な成り行きと言わざるを得ないでしょう。》

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