源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第五章 光る源氏の物語(三)

第四段 女楽終了、禄を賜う

【現代語訳】

 この若君たちが、とてもかわいらしく笛を吹き立てて、一生懸命になっているのを、おかわいがりになって、
「眠たくなっているだろうに。今夜の音楽の遊びは長くはしないで、ほんの少しのところでと思っていたが。やめるのには惜しい楽の音色が、甲乙をつけがたいのを、聞き分けるほどに耳がよくないので愚図愚図しているうちに、たいそう夜が更けてしまった。気のつかないことであった」と言って、笙の笛を吹く君に杯をお差しになって、お召物を脱いでお与えになる。横笛の君には、こちらから、織物の細長に袴などの仰々しくないふうに形ばかりにして、大将の君には宮の御方から杯を差し出して、宮のご装束を一領をお与え申し上げなさるのを、大殿は、
「妙なことだね。師匠の私にこそ、さっそくご褒美を下さってよいものなのに。情ないことだ」とおっしゃるので、宮のおいであそばす御几帳の側から、御笛を差し上げる。微笑みなさってお取りになる。たいそう見事な高麗笛である。少し吹き鳴らしなさると、皆お帰りになるところであったが、大将が立ち止まりなさって、ご子息の持っておいでの笛を取って、たいそう素晴らしく吹き鳴らしなさったのが実に見事に聞こえたので、どなたも、皆ご奏法を直接受け継がれたお手並みがみな実にまたなくすばらしくて、ご自分の音楽の才能がめったにないほどだという気がなさるのであった。

 大将殿は、若君たちをお車に乗せて、月の澄んだ中をご退出なさる。道中、箏の琴が普通とは違ってたいそう素晴らしかった音色が、耳について恋しくお思い出されなさる。
 ご自分の北の方は、亡き大宮がお教え申し上げなさったが、熱心にお習いなさらないうちに、お引き離されておしまいになったので、ゆっくりとも習得なさらず、夫君の前では、恥ずかしがって全然お弾きにならず、何ごともただあっさりと、おっとりとした物腰で、子供の世話を休む暇もなく次々となさるので、風情もなくお思いになる。そうはいっても怒りっぽくて、嫉妬するところは愛嬌があってかわいらしい人柄でいらっしゃるようである。

 

《源氏の孫たちの話です。女御の三の宮(二の宮?)については、すでに語られました。笙の笛の髭黒の三男には源氏からお召し物を、横笛の夕霧の長男には「こちらから(原文・こなたより)」「細長」(貴婦人の表着・『集成』)に袴を添えてご褒美が贈られました。「こなた」とは紫の上ということになっているようです。

夕霧には女三の宮から贈られたのでしたが、源氏が「私にはないのか」とさっそく戯れます。すると女三の宮が見事な高麗笛を贈りました。

禄を頂いた者はそれぞれ次々に帰るということのようで、源氏が頂いた笛をちょっと吹くと、帰りかけていた大将が立ち止まって息子の横笛をとって、「実に見事に」父に合わせました。

琴についてはずいぶん語られてきましたが、夕霧も源氏の笛を見事に受け継いでいたのです。源氏は改めて「ご自分の音楽の才能がめったにないほどだという」ことに満足するのでした。

さて、これで終わっても何も不自然なことはありませんが、この作者は時々場面転換の時に思いがけない人物を登場させます。私は以前、作者を複眼的だと言ったことがありましたが、ここでも普通には思いつかない、夕霧に、彼の正室・雲居の雁を思い出させます。紫の上の素晴らしさを思ったことの続きですから、不自然ではありませんが、読者からは意外感があります。

しかも彼女についての新情報で、彼女はどうやら風雅からは遠く、大変現実的主婦的な女性のようで、子育てに奔走し、夫の女性関係にうるさく焼き餅焼きで、しかもその点を夕霧は不快に思うではなく、「愛嬌があってかわいらしい(原文・愛敬づきて、うつくしき)」と思っている、というわけで、この家庭もどこやら庶民的ながら、いい関係のようです。

源氏一族は、その端々までとりあえずは満ち足りているようです。

しかし私たちは、紫の上が、こうして何気ないふうに女三の宮と同席しながら、一方で今が引き際と考えて出家を源氏に願い出(第二章第二段)、その後もそのことを思いながら重ねては言い出しにくい気持でいた(第三章第一段)ことを忘れることはできません。

それはあたかも、昔、源氏が艶やかに紅葉の賀の舞を披露している背後に、彼の子を身ごもった藤壺の女御の怖れと苦悩があった(紅葉賀の巻)、あの構図によく似ています。あの話はさいわい二人だけの秘密として露見することのないままに、かえって源氏の栄華に向かっていったのでしたが、…。

投じられた小石の作った波紋(第三章第二段)は、実は決してあのまま消えたわけではなかったのです。》

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第三段 源氏、葛城を謡う

【現代語訳】

 女御の君は箏の御琴を紫の上にお譲り申し上げて、ものに寄りかかって横におなりになったので、和琴を大殿の御前に差し上げて、寛いだ音楽の遊びになった。「葛城」を演奏なさる。明るくおもしろい。大殿が繰り返しお謡いになるお声は、何にも喩えようがなく魅力的で素晴らしい。月がだんだんと高く上って行くにつれて、花の色も香も一段と引き立てられて、いかにも優雅な趣である。

箏の琴は、女御のお爪音はとてもかわいらしげにやさしく、母君のご奏法の感じが加わって「揺」の音が深く、たいそう澄んで聞こえたが、こちらのご奏法はまた様子が違って、緩やかに美しく、聞く人が感に堪えず気もそぞろになるくらい魅力的で、「輪」の手などすべていかにもたいそう才気あふれたお琴の音色である。
 「返り声」にすべて調子が変わって、「律」の「掻き合わせ」の数々が親しみやすく華やかな中にも、琴の琴は「五箇の調べ」をたくさんある弾き方の中で、注意して必ずお弾きにならなければならない「五、六の発刺」を、たいそう見事に澄んでお弾きになる。まったくおかしなところはなく、たいそうよく澄んで聞こえる。
 春秋どの季節の物にも調和する調べなので、それぞれに相応しくお弾きになる。そのお心配りはお教え申し上げたものと違わず、たいそうよく会得していらっしゃるのを、たいそう可憐で晴れがましくお思い申し上げになる。

 

《作者が女御の君を横にならせたのは、源氏に「葛城」を歌わせたかったからなのでしょうか。「葛城」は催馬楽、俗謡で和琴で伴奏するのにふさわしいものでしょう。紫の上が和琴を源氏に渡すきっかけを作るために、身重の女御の君を都合よく横にならせたわけです。「葛城」の歌詞には「… しかしてば 国ぞ栄えんや 我家らぞ 富せんや …」という一節があり、源氏にここを「何にも喩えようがなく情がこもっていて素晴らしい」調子で歌わせたかったのだと思います。

それはまさしく今の彼自身の境遇で、何ひとつ不足なことのない、「この世をば我が世とぞ思ふ…」と詠んだ道長のような気持でいるのでしょう。

源氏の歌に紫の上が箏の琴を合わせます。

明石の御方は、例によって遠慮して一歩下がり、そこには加わらないで静かに控えているのでしょう。

この上なく穏やかで満ち足りた一家の団欒の姿です。
 『構想と鑑賞』は、ここまでの多くの人々の演奏について「これだけの人を比較しつつ、鮮やかに書き分けているのは、作者の音感覚がいかに勝れていたかを表す」と言い、また源氏によって語られた作者の音楽談義の造詣の深さに感心しながら、「ただ当時の音楽の分かりにくい今日で、それが微細であればあるほど縁遠いもののように感じられる」と残念がっています。

第二段 琴の論

【現代語訳】

「何事もそれぞれの専門について習い学べば才芸というものはどれも際限ないとだんだんと思われてくるもので、自分で満足できるほど限度なく習得することは実に難しいことだけれども、いや何、その奥義を究めた人は今の世にほとんどいないのだから、一部分だけでも無難に習得したような人はその一面で満足してもよいのだが、琴(きん)の琴というのはやはりやっかいなもので、手の触れにくいものなのだ。
 この琴は、ほんとうに奏法どおりに習得した昔の人は天地を揺るがし鬼神の心を柔らげて、すべての楽器の音がこれに従って、悲しみの深い者も喜びに変わり、賎しく貧しい者も高貴な身となり、財宝を得て、世に認められるといった人が多かったのだ。わが国に弾き伝わる初めまで、深くこの琴を会得した人は、長年見知らぬ国で過ごし生命を投げうって、この琴を習得しようとさまよったのだが、それですら、完全に習得し得るのは難しいことだった。

なるほど確かに、明らかに空の月や星を動かしたり、時節でない霜や雪を降らせたり、雲や雷を騒がしたりした例は、遠い昔の世にはあったということだ。このようこの上もない楽器で、その伝法どおりに習得する人がめったになく、末世だからであろうか、どこにその当時の一部分が伝わり残っていようか。

けれども、やはりあの鬼神が耳を留め、傾聴したことに始まる琴だからであろうか、なまはんかに稽古して、思いどおりにならなかったという例があってから後は、これを弾く人は禍があるとかいう難癖をつけて、面倒なままに、今ではめったに弾き伝える人がいないとか。実に残念なことである。
 琴の音以外では、どの絃楽器をもって音律を調える基準とできようか。

なるほど、すべての事が衰えて行くことはたやすくなって行く世の中で、一人故国を離れて、志を立てて、唐土、高麗と、この世をさまよい歩き、親子と別れることになるのは、世の中の変わり者となってしまうということだろう。どうして、それほどまでせずとも、やはりこの道をだいたい知る程度の一端だけでも知らないでいられようか。

一つの調べを弾きこなす事さえ、量り知れない難しいものであるという。いわんや、多くの調べ、面倒な曲目が多いので、熱中していた盛りには、この世にあらん限りのわが国に伝わっている楽譜という楽譜のすべてを広く見比べて、しまいには、師匠とすべき人もなくなるまで好んで習得したが、やはり昔の名人にはかないそうにない。ましてこれから後というと、伝授すべき子孫がいないのが何とも心寂しいことだ」などとおっしゃるので、大将は、なるほどまことに残念にも恥ずかしいとお思いになる。
「この御子たちの中で、望みどおりにご成人なさる方がおいでなら、その方が大きくなった時に、それもその時まで生きていることがあったら、いかほどでもない私の技のすべてをも伝授申し上げよう。三の宮は、今からその才能がありそうにお見えになるから」などとおっしゃると、明石の君はたいそう面目に思って涙ぐんで聞いていらっしゃった。

 

《源氏が、真面目な顔になって、琴(きん)の琴の話を始めました。まさか廂の間と簀子と御簾を隔てて、というわけではないでしょう。源氏が簀子に出てきて、息子と並んで階に坐って、といった図を考えたい気がしますが、ちょっと庶民的すぎるでしょうか。

 さて、彼はかつて故父帝の教えとして、貴人たるもの、何ごともその道において極めることを考えてはならぬ、という美学を語ったことがありました(絵合の巻第四章第一段、玉鬘の巻第五章第三段)が、事この琴の話となると、そうではないようです。

 ひとたび「ほんとうに奏法どおりに習得した」人は、天地鬼神を動かし、富貴思いのままとなることができるけれども、その反面、「琴(きん)の琴というのはやはりやっかいなもので、」、習得が難しくて、「一人故国を離れて、志を立てて、唐土、高麗と、この世をさまよい歩き、親子と別れる」というようなことも必要になるのだが、その上で「(生半可に)これを弾く人は、禍がある」と言われるようなもので、「その伝法どおりに習得する人がめったにな」い代物であるのだと、源氏は言います。

 それでも、いや、だからこそでしょうか、彼は「熱中していた盛りには、この世にあらん限りの、わが国に伝わっている楽譜という楽譜のすべてを広く見比べて」習得を志したようですが、結局「やはり昔の名人には、かないそうにない」というところまでしか行っていないと述懐します。

 さいわい彼は、それでも「禍」を被るというようなことはなかったようで、今こうしているのですが、ということは、つまり彼が当代の第一人者(もっとも彼は何につけてもそうなのですが)ということになります。

 その彼の技を「三の宮」に伝えたいと考えています。もう夕霧では駄目ということなのでしょう。いきなり名指しされて明石の御方はうれしさに涙ぐんでいます。

 ところで、第三章第四段2節でも触れましたが、この「三の宮」のところ、『集成』は「後の匂宮である」と注していますが、『評釈』は「二の宮」として、「三の宮はまだ生まれていない」と言います。両方の底本があるようです。》

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第一段 音楽の春秋論~その2

【現代語訳】2

大将は、
「その事を申し上げようと思っておりましたが、よくも弁えぬくせに偉そうに言うのもどうかと存じまして。古い昔の勝れた時代を聞き比べていないからでしょうか、衛門督の和琴、兵部卿宮の御琵琶などは、最近の珍しく勝れた例に引くようです。

 なるほどまたとない演奏者ですが、今夜お聞きしました楽の音色が、皆同じように耳を驚かしましたのは、やはりこのように特別のことでもない御催しとかねがね思って油断しておりました気持ちが不意をつかれて騒ぐのでしょう。唱歌など、とてもお付き合いしにくうございました。
 和琴は、あの太政大臣だけが、このように臨機応変に巧みに操った音色などを思いのままに掻き立てていらっしゃるのは、とても格別上手でいらっしゃいましたが、なかなか飛び抜けて上手には弾けないものですのに、まことに勝れて調子が整ってございました」と、お誉め申し上げなさる。
「いや、それほど大した弾き方ではないが、特別に立派なようにお誉めになるね」とおっしゃって、得意顔に微笑んでいらっしゃる。
「なるほど、悪くはない弟子たちだ。琵琶は私が口出しするようなことは何もないが、そうは言っても、どことなく違うはずだ。思いがけない所で初めて聞いた時、珍しい楽の音色だという気がしたが、その時からは、また格段上達しているからな」と、強引に自分の手柄のように自慢なさるので、女房たちはそっとつつきあう。

 

《夕霧はこれまで何につけても、源氏からこのように判断を求められるというようなことは、ほとんどありませんでした。それが、今、今日の出来映えをどう思うかというおたずねです。

源氏は、今日の催しがうまくいって、いい気持ちなのでしょう。婦人たちの演奏も素晴らしかったが、息子が興が乗ったらしく、思いも懸けないことに自分の「唱歌」に合わせて歌っていた(第四章第三段)し、先ほどの春秋論もなかなかのことを言ってのけた、どうやらこの子もそれなりのものになってきたらしいと、考えたのでしょうか、その子が今日の演奏をどのように聴いたのか、聞いてみようという気になったようです。

夕霧もまた、一人前に扱われたらしいという喜びもあったでしょうか、待っていましたとばかりに語ります。

気軽な家庭内の音楽会と思っていましたのに、四人の方の演奏はまったく驚くばかりでしたと、まずその感動を語りましたが、これは挨拶としては、なかなかうまい出だしで、この人は父親が考えているよりも、こういう一般的社交性では優れているようです。さすがはかつて太政大臣が「はっきりと人より抜きん出て大人びておられる点では、父の大臣(源氏)よりも勝っているくらいだ」と褒めた(藤の裏葉の巻第一章第四段)だけのことはあります。そういうことは父にはなかなか分からないものです。

もっとも、この日、彼の耳に残ったのは、紫の上の和琴の音ばかりだったようなのです。彼は他のことには触れず、ただ憧れの義母の演奏を、当代の名手と源氏も認める太政大臣に匹敵すると絶賛します。

源氏はその返事に満足して、逆に自分が直接教えたわけではない明石の御方の琵琶の見事さを取り上げますが、しかしそれも自分の傍に来てから一層うまくなったのだと、自分の無言の影響力をさりげなく仄めかして、その得意そうな様子が女房たちの笑いを誘います。そこにいる誰にとってもほのぼのとした幸せな夕暮れです。》

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第一段 音楽の春秋論~その1

【現代語訳】1

 夜が更けて行く様子が冷え冷えと感じられる。臥待の月がわずかに顔を出したのを、
「おぼつかない光だ、春の朧月夜は。秋の情趣は、やはりまたこのような楽器の音色に虫の声を合わせたのが、何とも言えず、この上ない響きが深まるような気がするものだ」とおっしゃると、大将の君が、
「秋の夜の曇りない月には、すべてのものがくっきりと見えて、琴や笛の音色もすっきりと澄んだ気はしますが、やはり特別に作り出したような空模様や草花の露も、いろいろと目移りし気が散って、限界がございます。
 春の空のぼんやりとした霞の間から朧に霞んだ月の光に、静かに笛を吹き合わせたようなのには、どうして秋が及びましょうか。笛の音色なども、優艶に澄みきることはありません。
 女性は春をあわれぶと、昔の人が言っておりましたが、なるほど、そのようでございます。やさしく音色が調和する点では、春の夕暮が格別でございます」と申し上げなさると、
「いや、この議論だがね。昔から皆が判断しかねた事を、末の世の劣った者が結論を出すのは難しいことだろう。楽器の調べや曲目などは、なるほど律を二の次にしているが、しかるべきことだ」などとおっしゃって、
「どうだろう。現在、演奏上手の評判の高いその人あの人を帝の御前などで度々試みさせあそばすのに、勝れた者は数少なくなったようだが、その一流と思っている名人たちも、どれほども習得し得ていないのであろうか、このような何でもないご婦人方の中で一緒に弾いたとしても、格別に勝れているようには思われない。
 何年もこのように引き籠もって過ごしていると、耳も少し変になったのだろうか、残念なことだ。妙に、人々の才能は、ちょっと習い覚えた芸事でも、見栄えがして他より勝れていることだ。あの御前の管弦の御遊などに、一流の名手として選ばれた人々の誰それと比較したらどうであろうか」とおっしゃるので、

 

《途中ですが、一度区切ります。

源氏は、婦人たちの几帳巡礼を終わって座り直したのでしょう、夕霧に、せっかくこういう催しをするのなら、秋にすればよかったかな、と語りかけてみました。

夕霧は、いえ、春でよかったですよと、長々と応じます。「これは主宰者源氏への挨拶であると共に、春の上である紫の上を弁護したものである」と『評釈』が言います。

源氏は、春秋の優劣は「末の世の劣った」我々には難しいとしながら、「律を二の次にしているが、しかるべきことであろう」(『評釈』が「律 短調。呂(長調)に対する。律は秋、呂は春」と注しています)と、あっさり自分の感想を引っ込めて、息子の意見に同調したようです。

満座の中での父と子の格調高い話にみなが聞き耳を立て、息子の見事な異論の挨拶に感心しながら、次の父の反応が心配になり、思わず身を乗り出す気持だったところに、父のさらりとした、おおらかな態度に、また感心しほっとした、というところでしょうか。

源氏にしてみれば、「『春ではどうも…』とポーズを取って夕霧を打診してみたところ、どうも話し相手にできそうである」(『評釈』)と認めることができました。そこで、ところで、と、今日の女楽の講評を始めました。こちらの方が本題なのです。

今日のこの六条院の夫人方の演奏は、帝の前での高名な人たちによる演奏に少しも引けを取らなかった、あの「ちょっと習い覚えた芸事」(暗に女三の宮のことを指すのでしょうか)でさえも、他の人とは違うようだが、私の耳が悪くなったのだろうか、と夕霧に問いかけます。》

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