源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第四章 光る源氏の物語(二)

第五段 夕霧の感想

【現代語訳】

 この方もあの方も、たしなみ深いご様子を聞いたり見たりなさると、大将もたいへんに中を御覧になりたくお思いになる。対の上が、昔見た時よりも、ずっと美しくなっていらっしゃるだろう様子が見たいので、心が落ち着かない。
「宮を、もう少し運勢がよかったなら、自分の妻としてお世話申し上げられたであろうに、まったくゆっくり構えていたのが悔やまれることだ。院は、度々そのように水を向けられ、蔭でおっしゃっていられたものを」と残念に思うが、少し軽率なようにお見えになるご様子に、軽くお思い申すと言うのではないが、それほど心は動かなかった。
 こちらの御方を、何事につけても手の届くすべなく、高嶺の花として長年過ごして来たので、

「ただ何とかして、義理の親子の関係として、好意をお寄せ申している気持ちをお見せ申し上げたい」と、そのことばかりが残念に嘆かわしいのであった。むやみな、あってはならない大それた考えなどはまったくおありではなく、実に立派に振る舞っていらっしゃった。

 

《源氏が女性たちのところを覗き歩いている様子を簀子で感じながらの夕霧の思い、ということなのでしょうか。

彼は、中の女性たちの様子を想像します。といっても、女御は幼なじみのようによく知った仲ですし、明石の御方は彼からすれば身分卑しい出とあってでしょうか、結局関心は紫の上と、女三の宮です。

しかし、姫宮については、あの蹴鞠の日のいかにも軽率な振る舞いが第一印象として記憶に鮮明で、すでにその関心も遠のき、薄らいでいるようで、何と言っても、野分の折に垣間見た(野分の巻第一章第二段)、紫の上の姿に優る人はないように思われるのでした。

それにしても、あれはもう十一年前のことになりますから、当時二十八歳だったその人が「昔見た時よりも、ずっと美しくなっていらっしゃるだろう(原文・見しをりよりも、ねびまさりたまへらむ)」と思う感覚は、ちょっとあり得ない気がするのですが、どんなものでしょうか。

ともかく彼は、義母を理想の女性として思い描き、自分の好意を伝えたいのですが、その機会がないことを改めて嘆く思いです。この時、源氏の藤壺に対するような思いを決して抱かないというのが、この人の、この物語の中での普通の人である所以です。

『評釈』がここで、この夕霧のキャラクターを細かく分析して「理性が感情の上に立つような人間は、その冷静な頭が明確に物の良否(紫の上と女三の宮の上下)を区別する」と言いますが、それが普通の人間なのであって、ちょっといい女性を見れば、それがどういう立場の人であろうと声を掛けずにはいられないという、この物語の多くの男性の方が、私たちから見れば、ずいぶん特異に見えます。

もちろん、だからこそ物語が成り立ち、面白いのですが、その中でこの夕霧のような理性の人の存在は、女性からすればもの足らない点はあるにしても、「実に立派に振る舞っていらっしゃった(原文・いとよくもてをさめたまへり)」という点で、その役割もあるというものです。》

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第四段 女四人を花に喩える

【現代語訳】

 月の出が遅いころなので、灯籠をあちらこちらに懸けて、明かりをゆおうどよい具合に灯させていらっしゃる。
 宮の御方をお覗きになると、他の誰よりも一段と小さくかわいらしげで、ただお召し物だけがあるという感じがする。匂い立つような美しさは劣って、ただとても上品に美しく、二月の二十日頃の青柳がようやく枝垂れ始めたような感じがして、鴬の羽風にも乱れてしまいそうなくらいか弱くお見えになる。桜襲の細長に、御髪は左右からこぼれかかって、柳の糸のようである。
 この方こそはこの上ないご身分の方のご様子というものだろうと見えるが、女御の君は、同じような優美なお姿で、今少し匂い立つような美しさがあって、物腰が奥ゆかしく風情のあるご様子でいらっしゃって、美しく咲きこぼれている藤の花が夏にかかって、他に並ぶ花がなく、朝日に輝いているような感じでいらっしゃった。
 とは言え、とてもふっくらとしたころにおなりになって、ご気分もすぐれない時期でいらっしゃったので、お琴も押しやって脇息に寄りかかっていらっしゃる。小柄なお身体でなよなよとしていらっしゃるが、ご脇息は並の大きさなので、無理に背伸びしている感じで、特別に小さく作って上げたいと見えるのが、とてもおかわいらしげにお見えになるのであった。
 紅梅襲のお召物にお髪がかかってさらさらと美しくて、灯台の光に映し出されたお姿が、またとなくかわいらしげだが、紫の上は、葡萄染であろうか、色の濃い小袿に薄蘇芳襲の細長で、お髪がたまっている様子はたっぷりとゆるやかで、背丈などちょうどよいぐらいで姿形は申し分なく、辺り一面に美しさが満ちあふれている感じがして、花と言ったら桜に喩えても、やはり衆に抜ん出た様子は、格別の風情でいらっしゃる。
 このような方々の中で、明石の御方は圧倒されてしまうところだが、まったくそのようなことはなく、振る舞いなどもしゃれていてこちらが恥ずかしくなるくらいで、心の底を覗いてみたいほどの深い様子で、どことなく上品で優雅に見える。
 柳の織物の細長に、萌黄であろうか小袿を着て、羅の裳の目立たないのを付けて、格別に控えめにしていたが、その様子は、思いなしか立派で、軽んじられない。
 高麗の青地の錦で縁どりした敷物に、まともに座らず、琵琶をちょっと置いて、ほんの心持ばかり弾きかけて、しなやかに使いこなした撥の扱いようは、音色を聞くやいなや、また比類なく親しみやすい感じがして、「五月待つ花橘」のようで、花も実もともに折り取った薫りのように思われる。

 

《今度は四人の女性の美人比べです。源氏がそれぞれの几帳の中を覗いて歩いているのだと『評釈』が言います。しかし、何をしに歩くのでしょうか。読者へのサービスなのでしょうか。

それぞれの女性が花に喩えられます。宮の御方は「青柳が、ようやく枝垂れ始めたような感じ」(花ではありませんが)、女御の君は「美しく咲きこぼれている藤の花」、紫の上は「桜」、明石の御方は「五月待つ花橘」と言われます。

以前、夕霧が六条院の同じ女性たちを花に喩えたことがありました。あの時も、紫の上を、やはり桜に(野分の巻第一章第二段)、明石の姫君(今の女御)をこれも同じく藤の花に(同第三章第二段)、そして今ここにはいませんが、玉鬘を山吹に喩えていました(同第二章第四段)。

紫の上と女御について、十年の間を置いて父子が同じ女性に同じ喩えをするのは、読者としては驚きですが、作者にとっては動かし難い喩えなのでしょう。

しかし、野分の巻のところでも言いましたが、十五歳の少年ならともかく、今や壮年を過ぎようかという男に、女性を花に喩えさせるというのは、いかがなものかという気がします。いかにも女性的な発想で、美しいと言おうとしていることは解りますが、あまり理解しやすい表し方ではないように思います。

その中で、女三の宮を青柳に喩えたのは印象的で、いかにもまだ初々しく、未成熟な感じを思わせます。ふと、『伊豆の踊子』で踊り子を若桐に喩えた場面を思い出しますが、彼女の場合は無垢な処女性を示していて、そういう美しさを感じさせますが、この姫の場合はすでに二十歳を越えていて、曲がりなりにも夫人であるのですから、精神的にいささか問題があるのではないかという危惧を持ちます。その上、「小さくかわいらしげで、ただお召し物だけがあるという感じがする」となると、身体的な問題もあるのか、と思ったりして、それらのことと、「ただとても上品に美しく」と、どうつなげてイメージすればいいのか、ちょっと戸惑いを感じてしまいます。》

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第三段 女四人による合奏

【現代語訳】

 大将はたいそう緊張して、帝の御前での大がかりな改まった御試楽がある以上に今日の気づかいは格別に大変だという気がなさったので、鮮やかなお直衣に香の沁みたお召し物で、袖に特に香をたきしめて、身繕いを整えて参上なさるころ、日はすっかり暮れてしまった。
 趣深い夕暮の空に、花は去年の残雪が思い出されて枝も撓むほどに咲き乱れている。緩やかに吹く風に、何とも言えず素晴らしく匂っている御簾の内の薫りも一緒に漂って、鴬を誘い出すしるべにできそうな、たいそう素晴らしい御殿辺りの匂いである。

御簾の下から箏の御琴の裾を少しさし出して、
「失礼なようだが、この絃を調律して、調子をみて下さい。ここには他の親しくない人を入れることはできないものだから」とおっしゃるので、礼儀正しくお受け取りになる態度や心づかいも行き届いていて立派で、「壱越調」の音に発の緒を合わせて、すぐには弾いてもみずに控えていらっしゃるので、
「やはり、調子合わせの曲ぐらいは一曲、興をそがないように」とおっしゃるので、
「まったく今日の演奏会のお相手に仲間入りできるような腕前は、自信がございませんから」と、思わせぶりな態度をなさる。
「もっともなことだが、女楽の相手もできずに逃げ出したと、噂される方が不名誉だぞ」と言ってお笑いになる。
 調絃を終わって、興をそそる程度に調子合わせだけを弾いて、お返しになった。このお孫の君たちが、とてもかわいらしい宿直姿で笛を吹き合わせている音色は、まだ幼い感じだが、将来性があって、素晴らしく聞こえる。

 それぞれのお琴の調絃が終わって合奏なさる時、どれも皆優劣つけがたい中で、琵琶は特別に上手という感じで、神々しい感じの撥さばきで、音色が澄みきって美しく聞こえる。
 和琴に大将も耳を留めていらっしゃるが、やさしく魅力的な爪弾きに、掻き返した音色が珍しく当世風で、まったくこの頃名の通った名人たちがものものしく掻き立てた曲や調子に負けず、華やかで、「大和琴にもこのような弾き方があったのか」と感嘆される。深いお嗜みのほどがはっきりと分かって素晴らしいので、大殿はご安心なさって、またとない方だとお思い申し上げなさる。
 箏のお琴は、他の楽器の音色の合間合間に頼りなげに時々聞こえて来るといった性質の音色のものなので、可憐で優美一筋に聞こえる。
 琴の琴は、やはり未熟ではあるが、習っていらっしゃる最中なので、あぶなげなくたいそう良く他の楽器の音色に響き合って、「随分と上手になったお琴の音色だな」と、大将はお聞きになる。拍子をとって唱歌なさる。

院も、時々扇を打ち鳴らして一緒に唱歌なさるお声は、昔よりもはるかに美しく、少し声が太く堂々とした感じが加わって聞こえる。大将も声はたいそう勝れていらっしゃる方で、夜が静かになって行くにつれて、何とも言いようのない優雅な夜の音楽会である。

 

《ご婦人方も緊張して待っているのですが、夕霧の方も、普段源氏から呼ばれただけも緊張しているように見えるくらいですから、今日は名だたる四人の貴婦人が揃っておられる場であるとあって、とびきりの緊張で、精一杯の身繕いで出かけました。

そのためにずいぶん遅くなってしまったのでしたが、着いたのは、折りもよい春の夕暮れ、いい香りがあたりに漂っています。「(香の)薫りも一緒になって」とありますから、「花」は梅の花、後に「鴬を誘い出すしるべ」ともあります。ただ、梅の花が「枝も撓むほどに咲き乱れている」というのは、ちょっと似合わない気がしますが、まあいいことにしましょう。

「御簾の下から箏の御琴の裾を少しさし出して」は、夕霧が簀子にいて、源氏が、廂の間との境の御簾の下から、ということのようです。

調弦したら、そのまま琴を返すのではなくて、普通軽く一曲奏するものなのだそうです(『評釈』)が、「すぐには弾いてもみずに控えていらっしゃる」と、少しぎこちない間ができました。

そこで源氏が催促します。一度は辞退し、二度目に応じるのがゆかしいところで、源氏もその振る舞いに満足して「お笑いになる」のでした。「このお孫の君たち」(髭黒と夕霧の息子)が、その「調子合わせ」の曲に笛を添えます。いつもながらですが、絵になる風景です。

さて、前座が終わって、いよいよ本番の合奏が行われたのでしたが、まっ先に明石の御方の琵琶が讃えられました。次いで、紫の上の和琴について最も多くが語られ、源氏は改めてこの人の素晴らしさを思います。

曲に興が乗った父子が声を合わせて「唱歌」する声がまたとなく美しく聞こえる中で、静かに夜が更けていきます。》

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第二段 孫君たちと夕霧を召す

【現代語訳】

 今日の拍子合わせの役には子供を召そうとうことで、右の大殿の三郎君で尚侍の君の御腹の兄君に笙の笛、左大将の御太郎君に横笛と吹かせて、簀子に伺候おさせになる。
 内側には御茵を並べてお琴を御方々に差し上げる。秘蔵の御琴類をいくつも、立派な紺地の袋に入れてあるのを取り出して、明石の御方に琵琶、紫の上に和琴、女御の君に琴(キン)のお琴、宮には、このような仰々しい琴はまだお弾きになれないかと心配なので、いつもの手馴れていらっしゃる琴を調弦して差し上げなさる。
「箏のお琴は、弛むというわけではないが、やはり、このように合奏する時の調子によって、琴柱の位置がずれるものだ。よくその点を考慮して調弦すべきだが、女性の力ではしっかりと張ることはできまい。やはり大将を呼んだ方がよさそうだ。この笛を吹く者たちも、まだ幼いようで、拍子を合わせるには頼りにならない」とお笑いになって、
「大将、こちらに」とお呼びになるので、御方々はきまり悪く思って、緊張していらっしゃる。

明石の君を除いては、どなたも皆捨てがたいお弟子たちなので、お気を遣われて、大将がお聞きになるので、難点がないようにとお思いになる。
「女御は、ふだん主上がお聞きあそばすにも、楽器に合わせながら弾き馴れていらっしゃるので安心だが、和琴は、たいして変化のない音色なのだが奏法に決まった型がなくて、かえって女性は弾き方にまごつくに違いないのだ。春の琴の音色は、おおよそ合奏して聞くものであるから、他の楽器と合わないところが出て来ようかしら」と、何となく気がかりにお思いになる。

 

《「拍子合わせ」は「調子をそろえる役の意であろう。笛を合奏の軸にする」(『集成』)ということのようですが、それでは笛の方が主になるようで、よく分かりません。オーケストラのチューニングのオーボエの役割というようなことなのでしょうか。それに二人というのは、ちょっと変ですが…。

「内側」は、簀子から見てのことで、廂の間、そこに「御茵」(敷物)を敷いて、それぞれのお琴が置かれて、四人の貴婦人が座につきます。

並べられた琴の三台は源氏の秘蔵品のようですが、女三の宮だけは、それはまだ手に余るとあって、普段使い慣れたものが置かれます。どうも前の、あなた程度の人はなかなかいないという話(第三章第五段)と話が合わないように思われます。間接的に、源氏がいかに桁外れに名手だったということになりますが、それはまあ、そういうことだったのだ、ということで通過します。

中で、箏の琴の合奏用の調弦が女性ではできないということで、夕霧を呼んでそれをさせることにしました。さて、男性が、それも名に負う貴公子が来るとあって、座に緊張が走ります。

そこから後の話は、ちょっと解りにくく思われ、特に、「春の琴は」以下は「古来不審とされている」(『集成』)ところだそうです。

夕霧が来るのを待つ間に源氏が思ったことという格好で、教え子たちが、今や一人前になってきた息子の前で恥を掻かねばよいが、という心配のようです。明石の御方の琵琶は父入道が鍛えたもので、自分が教えたものではないし、女御は帝のお側にいて合奏の経験が豊富だから大丈夫、問題は定型のない和琴(即興性が強いということでしょうか、ジャズ的なもの?)と、源氏から見れば技術未だしの姫宮の箏の琴です。

自分の教え子がその成果を人前で披露するのを脇で見るのは、教えた者にとっては経験しないと分かりにくい大きなプレッシャーですが、源氏のような大変立派な父親が自分の妻二人について息子に品定めをされることに、やはり不安を感じているというのは、なかなか面白い光景です。それなら呼ばなければいいようなものですが、そこはまた一方で、どうだと、聞かせたい気持ちもあるのでしょうか。》

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第一段 六条院の女楽

【現代語訳】

 正月の二十日のころになると、空模様もうららかで風が温かく吹いて、御前の梅の花も盛りになって行く。他の多くの花の木もみな蕾がふくらんで、一面に霞んでいた。
「来月になったら、ご準備が近づいて何かと落ち着かないだろうし、合奏なさる琴の音も試楽のように人が噂するだろうから、今の静かなころに合奏なさってごらんなさい」とおっしゃって、寝殿にお迎え申し上げなさる。
 お供に、我も我もと合奏を聞きたく参上したがるが、音楽の方面に疎い者は、残させなさって、少し年は取っていても、心得のある者だけを選んで伺候させなさる。

女童は、器量の良い四人、赤色の表着に桜襲の汗衫、薄紫色の織紋様の袙、浮紋の上の袴に、紅の打ってある衣装で、容姿、態度などのすぐれている者たちだけをお召しになっている。

女御の御方にも、お部屋の飾り付けなど、常より一層に改めたころの明るさなので、それぞれ競争し合って、華美を尽くしている衣装は、鮮やかなこと、またとない。
 童女は、青色の表着に蘇芳の汗衫、唐綾の表袴、袙は山吹色の唐の綺を、お揃いで着ていた。

明石の御方のは、仰々しくならず、紅梅襲が二人、桜襲が二人、いずれも青磁色ばかりで、袙は濃紫や薄紫、打目の模様が何とも言えず素晴らしいのを着せていらっしゃる。
 宮の御方でも、このようにお集まりになるとお聞きになって、女童の容姿だけは特別に整えさせていらっしゃった。青丹の表着に柳襲の汗衫、葡萄染の袙など、格別趣向を凝らして目新しい様子ではないが、全体の雰囲気が、立派で気品があることまでが、まことに並ぶものがない。

廂の中の御障子を取り外して、あちらとこちらと御几帳だけを境にして、中の間には、院がお座りになるための御座所を設けてあった。

 

《そうこうしている間に年もかわり、二十日ほどになります。朱雀院のお祝いも、あと二十日ほどに迫っています。

その頃、源氏は思い立った「女楽」を催すことにしました。もともとが紫の上が聞きたいと言ったことからのもので、あまり本番の祝いの日に近くなると、上自身も、また周囲も準備にいそがしく、それに人々が、すわ、試楽かと騒ぐだろう、今のうちに、というわけで、その日、上を「寝殿にお迎え申し上げなさる」のでした。

上が、選りすぐりのお供と共に寝殿に入ると、その東面は、里下がりしている明石の女御の部屋です。「(正月なので)常より一層に改めたころの明るさ」の中で、女御と共に、「鮮やかなこと、またとない」衣裳の女房たちが待ち受け、明石の御方も、例によって控えめに、しかし落ちついた様子で品よく控えています。

西面が姫宮の居所、こちらは女童の衣裳だけは「特別」ですが、その他は「目新しい様子ではない」のですが、それでも、さすがは生まれの好さでしょうか、「全体の雰囲気が、立派で気品がある」佇まいです。

ここでは、本人の様子は語られなくて、四人の夫人がお側に連れている童女のことばかりが大きく取り上げられているのが気になりますが、ご本人は言うに及ばないといったところでしょうか。

さて、演奏の場所は、寝殿の南廂の間に設けられます。中の襖障子を取り払って、東西に長い部屋ができ、そこに四人のいずれ劣らぬ美しい今日の楽人が、それぞれ「御几帳だけを境にして」揃いました。そしてその中央が源氏の御座所とされます。》

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