源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第十三章 女三の宮の物語(一)

第五段 唐猫、御簾を引き開ける

【現代語訳】
 猫は、まだよく人に馴れていないのであろうか、綱がたいそう長く付けてあったのを物に引っかけてまつわりついてしまったのを逃げようとして引っぱるうちに、御簾の端がたいそうはっきりと中が見えるほど引き開けられたのを、すぐに直す女房もいない。その柱の側にいた人々も、慌てているらしい様子で誰も手を出せないでいる。

 几帳の側から少し奥まった所に、袿姿で立っていらっしゃる方がいる。階から西の二間の東の端なので、隠れようもなくすっかり見通すことができる。
 紅梅襲であろうか、濃い色から薄い色へ、次々と何枚も重ねた色の移りもはなやかで、綴じ本の小口のように見えて、桜襲の織物の細長なのであろう。お髪が裾までくっきりと見えるところは、糸を縒りかけたように靡いて、裾がふさふさと切り揃えられているのは、とてもかわいい感じで、七、八寸ほど身丈に余っていらっしゃる。お召し物の裾が長く余って、とても細く小柄で、姿つきや髪のふりかかっていらっしゃる横顔は、何とも言いようがないほど気高くかわいらしげである。夕日の光なのではっきり見えず、奥暗い感じがするのも、とても物足りなく残念である。
 蹴鞠に夢中になっている若公達の、花の散るのを惜しんでもいられないといった様子を見ようとして、女房たちは、まる見えとなっているのを直ぐには気がつかないのであろう。猫がひどく鳴くので、振り返りなさった顔つきや仕種などは、とてもおっとりとして、若くかわいい方だと、直感された。

 大将は、たいそうはらはらしていたが、近寄るのもかえって身分に相応しくないので、ただ気づかせようとして咳ばらいなさったので、すっとお入りになる。実は自分自身もとても残念な気持ちがなさったが、猫の綱を放したので、溜息をもらさずにはいられない。
 ましてあれほど夢中になっている衛門督は、胸がいっぱいになって、他の誰でもない、大勢の中ではっきりと目立つ袿姿からも、他人と間違いようもなかったご様子など、心に忘れられなく思われる。
 何気ない顔を装っていたが、「当然見ていたにちがいない」と、大将は困った事になったという気がなさる。

たまらない気持ちの慰めに、猫を招き寄せて抱き上げてみると、とてもよい匂いがして、かわいらしく鳴くのも慕わしい方に思いなぞらえられるとは、好色がましいことであるよ。


《源氏の晩年を決定づける運命的な場面です。

柏木が、あれほど願っていた女三の宮の姿を垣間見てしまったのです。綱の付いた猫が飛び出したというのは偶然ですが、この女三の宮付きの女房たちの様子(「しっかりした年輩の者たちは少なく、若くて美人でただもう華やかに振る舞って気取っている者がとても多く」・第一段)なら、いつかは何かの折にこういうことになったでしょう。

『評釈』が、「統制がない。女三の宮は女房連を抑えていないのである」と怒りますが、もともと「姫宮は、驚くほど気がかりで、頼りなくお見えでいらっしゃる」(第二章第二段)というのですから、それはとうてい望むべくもありません。

それにしても、「たいそうはっきりと中が見える」ほどなのに、「すぐに直す女房もいない」という無能ぶりは、ここでは絶対の要件なので、ここまでの女房たちの設定(第一段など)は、周到な準備だったと思わせます。

さて、夕霧と柏木には、猫が引き上げた御簾の向こうに、「袿姿で立っていらっしゃる方」が、こともあろうに「隠れようもなくすっかり」見えました。「(袿姿は)上着の代わりに袿を着たくつろぎ姿。表着、裳、唐衣を着けた女房姿と区別される」(『集成』)ということで、それは紛れもなく姫宮ですが、そういう端近に出てきているというのも、また、立っているというのも、姫としての作法に大きく外れた振る舞いです。

しかしその姫の姿自体は、さすがに、衣裳も折りに合った見事なもので、髪も黒く長く、「とても細く小柄で、姿つきや髪のふりかかっていらっしゃる横顔は、何とも言いようがないほど気高くかわいらしげ」だったのでした。

後に「とても物足りなく残念である」とありますから、この描写は柏木の目を通してのものということになります。この一目で彼は心を奪われてしまいました。

同時に夕霧も同じ姿を見ましたが、彼は、まっ先にまずいと感じて、しかしまさか大将が御簾を下ろすというような作業のために動くわけにも行きませんので、咳払いでそれと知らせました。

それでやっと女房が御簾を下ろします。彼も内心、惜しい気もしたのですが、それよりも柏木が見たに違いないことを思って、厄介なことにならなければよいがと思います。

一方、突然の僥倖によって心を奪われ柏木は、綱を放された猫を呼び寄せて、抱き上げると、「とてもよい匂いがして(姫の移り香でしょう)、かわいらしく鳴く」ので、目を閉じると、とは書かれていませんが、まるで姫宮を抱いているような思いになります。まことに「好色がましいことであるよ(原文・好きずきしきや)」です。

ところで、『光る』がこの二匹の猫について「大野・これ、二匹がどう縛られていたんだろう」と疑問を呈しています。そして「丸谷・かなりの作家でもこういうところを詳しく書くのはむずかしいんです」ということで、どうもよく分からないということで終わっています。》

 

第四段 南邸で蹴鞠を催す

【現代語訳】
 趣のある庭の木立がたいそう霞に包まれたところに、色とりどりに蕾のほころびているたくさんの花の木やわずかに芽のふいた木の蔭で、このように何でもない遊びだが、上手下手の違いがあるのを競い合っては、自分も負けまいと思っている面々の中で、衛門督がほんのお付き合いの顔で参加なさった脚さばきに並ぶ人はいなかった。お顔もたいそう美しく優雅な物腰の人が、気配りを十分して、それでいてくだけた様子であるのは魅力的である。
 御階の柱間に面した桜の木蔭に寄っていって、人々が花のことも忘れて熱中しているのを、大殿も兵部卿宮も隅の高欄に出て御覧になる。

 たいそう手慣れた技の数々が見られて、回が重なるにつれて、身分の高い人も無礼講となって、冠の額際が少し弛んで来る。

大将の君も、ご身分の高さを考えればいつにない羽目の外しようだと思われるが、見た目には、人より一段と若く美しくて、桜の直衣の少し柔らかくなっているのを召して、指貫の裾の方が少し膨らんでいるのを、心もち引き上げていらっしゃった。軽々しくは見えず、感じよく寛いだ姿に、花びらが雪のように降りかかるので、ちょっと見上げて、撓んだ枝を少し折って、御階の中段辺りにお座りになった。

督の君も続いて、
「花がしきりに散るようですね。『桜は避きて(桜は避けて散らさないでほしいものだ)』ですよ」などとおっしゃりながら、宮の御前の方を横目に見やると、いつものようにしまりのない様子で、色とりどりの袖口がこぼれ出ている御簾の端々や透影などが、春に供える幣袋かと思われて見える。

御几帳類を無造作に方寄せてあって、端近に女房たちが世間ずれしているように見えるところに、唐猫でとても小さくてかわいらしいのを、ちょっと大きな猫が追いかけて、急に御簾の端から走り出すと、女房たちは恐がって騷ぎ立て、ざわざわと身じろぎし、動き回る様子や衣ずれの音がやかましいほどに思われる。

《「前段で「場所柄により人柄による」と言ったので、話はそちらに向かいます。

場所は申し分のない六条院の庭、うららかな晩春の芽吹いた木々の下、興じるのは貴公子たち、東面の高欄には源氏たちが、ギャラリーよろしく並んで眺めています。

元来、「けまりをするのは若者で、それも官位の低い者」(『評釈』)なのだそうですが、若者たちの間では、一度始まると官位関係なく飛び入りが現れるのはありそうなことで、それも源氏に「どうして飛び出して行かないのか」(前段)とけしかけられれば、なお一層で、それによっていっそう遊びは盛りあがります。

蹴鞠の服装は狩衣が通常のようですが、ここで夕霧は貴族の平常服とされる「直衣」とありますから、例えば、ポロシャツ姿でバスケットボール(前段を参照下さい)に興じる若者たちの中に、スーツとは言わないまでも、ワイシャツにネクタイで混じっているということでしょうか、いかにも飛び入りの感じです。柏木もきっと同じ姿なのでしょう。

夕霧と並んで高貴な柏木がこういう下賤な(?)遊びに堪能だというのは意外とも思われますが、天性の運動神経のよさでしょうか。

夕霧が一休みと、一汗かいた格好で衣服もほどよく乱れ、若々しい顔が一層紅潮して、桜の小枝を手に、という姿の好さで、階段に腰を下ろしました。

そこに柏木も寄ってきます。

階段は寝殿の正面中央、さりげない会話を交わしながら、実は二人の関心は、御簾の蔭からこちらの賑やかな遊びを眺めているに違いない女三の宮のいるこの寝殿の西面に向いています。

その宮の女房は「しっかりした年輩の者たちは少な」い(第一段)ので、「御几帳類を無造作に片寄せてあって」、どうやら部屋の中がちらちら見えそうな案配、そこに子猫とそれを追いかけてじゃれているもう一匹の猫が部屋から飛び出してきました、と、話は蹴鞠とは別の方に進んでいきます。

次の若菜下の巻では宮中の猫の話が出てきます(第一章第二段)が、そこで『集成』が「宮廷、貴顕の家での猫の愛玩は当時の流行であった」と注しています。》

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第三段 貴公子たち、六条院に集い遊ぶ

【現代語訳】
 三月のころの空がうららかに晴れた日、六条の院に、兵部卿宮や衛門督などが参上なさった。大殿がお出ましになって、お話などなさる。
「静かな生活は、このごろ大変に退屈で気の紛れることがないね。公私とも平穏無事だ。何をして今日一日を暮らせばよかろうか」などとおっしゃって、
「今朝、大将が来ていたが、どこに行ったのだろうか。何とも手持ち無沙汰で、いつものように、小弓を射させて見物すればよかったことだ。お好きらしい若い人たちが見えていたが、惜しいことに帰ってしまったかな」と、お尋ねさせなさる。
「大将の君は、東の町で人々と大勢して、蹴鞠をさせて御覧になっていらっしゃる」とお聞きになって、
「無作法な遊びだが、それでも派手で気の利いた遊びだ。どれ、こちらで」といって、お言葉が伝えられたので、参上なさった。若い公達といった人々が多くいたのであった。
「鞠をお持たせになったか。誰々が来ているか」とお尋ねになる。
「誰それがおります」
「こちらへ来ませんか」とおっしゃって、寝殿の東面、桐壺の女御が若宮をお連れ申して参上していらっしゃっている折なので、こちらはひっそりしていた。

遣水などの合流する所が広々としていて、趣のある場所を探して勢揃いする。

太政大臣のご子息たちの頭弁、兵衛佐、大夫の君など、年輩者もまた若い者も、それぞれに他の人より立派な方ばかりでいらっしゃる。

 だんだん日が暮れかかって行き、「風が吹かず、絶好の日だ」と興じて、弁君も我慢できずに仲間に入ったので、大殿が、
「弁官までが落ち着いていられないようだから、上達部であっても、若い近衛府司たちは、どうして飛び出して行かないのか。それくらいの年では、変に見てばかりいるのは、残念に思われたことだ。とはいえ、とても騒々しいな。この遊びの有様はな」などとおっしゃると、大将も督君も、みなお下りになって、何ともいえない美しい桜の花の蔭で、あちこち動きなさる夕映えの姿は、たいそう美しい。決して体裁よくなく、騒々しく落ち着きのない遊びのようだが、場所柄により人柄によるのであった。

 

《明石の女御が御子を出産したその月の、末ごろにでもなるのでしょう、晩春のうららかな日、「兵部卿宮や衛門督など」が源氏の所にご機嫌伺いにやって来ました。ここはそういう時にそういう雅な人々の集う邸なのですが、この時、中に、密かに女三の宮に心をよせる柏木もいました。今日やって来たのも、なにがしかの期待があるのかも知れません。

そうでなくても物憂い晩春、しかも「源氏は準太上天皇で、政治の実務には携わらない」(『集成』)ので、至って退屈をしていた時でしたから、彼は話を交わしながら、ふと夕霧でもいたら、小弓見物でもできように、と思い付きました。

その夕霧は、花散里の東の邸にいましたが、ここにも仲間が来ていて、蹴鞠をさせて遊んでいるとのこと、それなら、こちらでやったらどうか、と源氏が誘ったので、みなで源氏のいる南の邸にやってきます。

ちょうど寝殿の東の間の明石の女御は若宮を連れて東宮に行っていて留守なので、そこの庭でやることになりました。

みんなで東の邸に見に行くという選択もなくはなかったのですが、そうしないで呼び寄せるところからの設定を源氏がしたわけです。

客もこちらにおり、源氏が最上位者ですから、こちらに来なさいと言うのは、至って自然な流れなのですが、しかし自分自身のふとした思いつきと小さな選択が、彼の晩年をこれまでとはまったく違うものにしてしまう、大事件の引き金になる出来事を自ら呼び寄せることになってしまったというのは、運命のいたずらと言うしかありません。

シェイクスピア劇の人々の多くがそうであるように、人が自ら意志する行動によって、その意志に反して、知らぬ間に運命の糸に絡め取られて滅んでいくドラマを、悲劇というのだというのは、おこがましいながら私の考えですが、爛漫の春の花の下でいずれ劣らぬ貴公子たちが優雅な遊びに喜々として興じる、今のこの庭には、そんな暗い陰はどんなに探してもないように見えます。

ところで、蹴鞠という遊びが、当時は大人たちから「無作法な遊びだが、それでも派手で気の利いた遊び」、「とても騒々しいな。この遊びの有様は」と見られていたというのは面白いことです。狩衣、指貫姿で、脚で鞠を蹴上げるなどという振る舞いは見方によっては過度にエネルギッシュで、当時としてはどこか貴族性を逸脱した遊びで、映画『ウエストサイド物語』のバスケットボールのような、固定した階級社会に内向する若者の憂鬱をぶつけるというような危険な、ともすれば若者の暴走に火を付けるような遊び、といった一面を持っていたのか、などと妄想してしまいます。

ともあれ、源氏が若者世界に取り込まれたきっかけとなった場面ではあります。》

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第二段 柏木、女三の宮に執心

【現代語訳】
 衛門督の君も、朱雀院に常に参上し、常日頃親しく伺候していらっしゃった方なので、この宮を父帝が大切になさっていらっしゃったご意向など詳細に拝見していて、いろいろなご縁談があったころから申し出ていて、「院におかせられても、出過ぎた者とはおっしゃっていない」と聞いていたのだったが、このようにご降嫁になったことは大変に残念で、胸の痛む心地がするので、やはり諦めることができない。
 そのころから親しくなっていた女房の口から、ご様子なども伝え聞きくのを慰めにしているのは、はかないことであった。
「対の上のご寵愛には、やはり負けていらっしゃって」と、世間が噂しているのを聞くと、
「恐れ多いことだが、そのような辛い思いはおさせ申さなかっただろうに。いかにも、そのような高いご身分の相手には、相応しくないだろうが」と、いつもこの小侍従という御乳母子を責めたてて、
「世の中は無常なものだから、大殿の君が、もともと抱いていらしたご出家をお遂げなさったら」と、怠りなく機会を窺っているのであった。

 

《この章は、前段で夕霧の女三の宮に対する強い関心から語り始められましたが、実はこの後の話は、章の副題にあるとおり、この段から始まる、太政大臣の嫡男・衛門督(後の「柏木」の巻の主人公であることによって、後世、柏木と呼ばれる人。ここから彼をそう呼ぶことにします)の女三の宮への接近の長い物語の発端になって、源氏晩年の大問題を引き起こすことになります。

夕霧については、朱雀院も婿候補の一人として考えに加えてさえいたのでしたし、またその女三の宮は降嫁して来てごく身近にいるのですから、彼が関心を抱くのは、至って自然なことと言えます。

その自然なところから筆を起こしておいて、その人と一、二を競う当代きっての貴公子のもう一方に話を進めるという手順は、第三章第三段で話した『世界』の言う「虚構の、いわば必然的な自己運動」の一端かと思われ、うまい持って行き方だと思われます。

さて、その柏木は、こちらも女三の宮の婿候補には挙がったものの、叔母の朧月夜の尚侍を動員してまでの一族挙げての運動(第二章第五段)にも関わらず、「まだ年齢が若くて、あまりに軽い地位だ」(同第四段)ということで候補から外されたのでしたが、彼自身は「高貴な女性をという願いが強くて、独身で過ごしながら、たいそう沈着に理想を高く持している態度が誰よりも抜きんでてい」る(同)ということで、それで言えばこの姫宮はこの上ない方ですから、いったんそういう思いが宿れば、思いが募るのも無理からぬところです。なにしろ帝のご希望で尚侍に決まった人を、大将が横取りするということさえあったのですから、このくらいの希望は驚くに足らないでしょう。

加えて、その愛しく思う姫宮が、六条院に降嫁した後不遇な立場にあるという話を聞かされると、自分ならそんな扱いはしない、もっと幸福にしてさし上げられるという気持も加わって、ますます同情心と共に思いはかき立てられ、源氏が早く出家してしまわないかと、願うほどなのでした。

もっとも、「怠りなく機会を窺っているのであった(原文・たゆみなく思ひありきけり)」という思い詰めぶりは、これまでの柏木の控えめな振る舞いと齟齬すると考えるのが一般のようです(『の論』所収「蹴鞠の日―柏木登場」など)が、そこはとりあえず若さということにしておきましょう。柏木はこの時、二十三歳といったところです。》

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第一段 夕霧の女三の宮への思い

【現代語訳】

 大将の君は、この姫宮の御事を考えなかったわけでもないので、身近においであそばすのをとても平気ではいられず、普通のお世話にかこつけて、こちらには何か御用がある時にはいつも参上して、自然と雰囲気や様子を見聞きなさると、とても若くおっとりしていらっしゃるばかりで、表向きの格式だけは堂々として世の前例にもなりそうなくらい大事に申し上げなさっているが、実際はそう大して際立って奥ゆかしくは思われず、女房なども、しっかりした年輩の者たちは少なく、若くて美人でただもう華やかに振る舞って気取っている者がとても多く、数えきれないほど多く集まっていて何の苦労もないお住まいとはいえ、どのような事でも騒がず落ち着いている女房は、心の中がはっきりと見えないものであるから、わが身に人知れない悩みを持っていても、また真実楽しげに万事思い通りに行っているらしい人たちの中にいると、はたの人に引かれて、同じ気分や態度に調子を合わせるもので、ただ一日中、子供じみた遊びや戯れ事に熱中している童女の様子など、院は、まことに感心しないと御覧になることもあるが、一律に世間の事を断じたりなさらないご性格なので、このような事も勝手にさせて、そのようなこともしたいのだろうと、大目に御覧になって、叱って改めさせることはなさらず、ご本人のお振る舞いだけは、十分よくお教え申し上げなさるので、少しは取り繕っていらっしゃった。

 このようなことを、大将の君も、
「なるほど、立派な方はなかなかいないものだな。紫の上のお心がけや態度は、長年たつけれども、何かと噂に出て見えたり聞こえたりするところはなく、もの静かな点を第一として、何と言っても心やさしく人をないがしろにせず、自分自身も気品高く、奥ゆかしくしていらっしゃることよ」と、垣間見した面影をたいそう忘れ難く思い出されるのであった。
 自分の北の方についても、かわいいとお思いになる気持は強いのだが、しっかりして人に勝れた才覚などはお持ちでない方である。

もう安心だ、今は大丈夫と見慣れているために気が緩んで、やはりこのようにいろいろな方がお集まりになっていらっしゃる様子が、それぞれにご立派でいらっしゃるのを、内心密かに関心を捨て切れないでいるところに、特にこの宮は、「ご身分を考えるにつけてもこの上なく格別のお生まれなのに、特別のご寵愛でもなく、世間体を飾っているだけのことだ」とお見受けする。特に大それた考えではないが、

「拝見する機会があるだろうか」と、関心をお寄せになっていらっしゃった。

 

《さて、明石一家の喜びと悲しみの物語の裏で(いや、そちらの方が裏なのかも知れませんが)、女三の宮を巡る人々の密かな思いが揺れ動いていました。

夕霧が、すでに父の正室となったこの姫宮への関心を、依然としてくすぶらせていたのです。前段で明石の御方がふともらした「表向きのお扱いだけはご立派で、お渡りになるのも、そう十分でないらしい」という独り言のつながりでしょうか、物語はそちらの方に向かって進むことになります。

夕霧はかつて紫の上をちらと見て、一時すっかり心を奪われた格好でした(野分の巻第二段)が、今度はこの姫宮です。

もっとも、姫宮に対する彼の評価はなかなか厳しいものでした。

ずいぶん長い、一息の文章ですが、たどってみると、彼女自身が「とても若くおっとりしていらっしゃるばかりで(原文・いと若くおほどきたまへる一筋にて)」(「おほどき」は子供っぽい素直さを言う言葉のようです)あって、「際立って奥ゆかしくは思われ」ないのですが、それだけでなく、お付きの大勢の女房たちも、「若くて美人でただもう華やかに振る舞って気取っている者」ばかりで、それでも中に「どのような事でも騒がず落ち着いている女房」もいるにはいるのですが、周囲のそういう雰囲気の中では自分の思いなどは表に出さず調子を合わせて力を発揮せず、童女たちに至っては「一日中、子供じみた遊びや戯れ事に熱中している」といった案配です。

源氏は、姫宮の周囲のそういう様子を見ながら、何も言いません。「一律に世間の事を断じたりなさらないご性格なので」と、その理由を説明しますが、ちょっと唐突な性格設定で、今更の感があります。むしろ、これまでの源氏の周囲は、彼がそんなことに口に出さなくても、文句のない状態におのずとできあがっていたのだが、この女房たちは、宮様付きということで姫宮に従ってやって来て、六条院という場の空気の読めないギャルたちの治外法権のような状況ができあがったのだ、とでも言った方がよさそうです。

女房にはそうでありながら、源氏は「ご本人のお振る舞いだけは、十分よくお教え申し上げなさる」というのですが、それは無理な注文というものではないでしょうか。

ともあれ夕霧は、総じて「立派な方(女性)はなかなかいないものだな」というのが、結論で、改めて、やはり紫の上は、とまたしても義母を思い出します。

ひるがえって、自分の妻の雲居の雁は、と言えば、こちらもどうもどれほど芳しいわけでもない、それにもうすっかり妻の座に納まっていて、「もう安心である」、そこで身近におられる六条院の、それぞれに魅力的な夫人方に目が行くのですが、そうなると、やはり目新しく、何と言っても若い女三の宮のことが気になります。

源氏の扱いは、丁重ではあるが、実の籠もらないことは明らかなようで、「どういう方だから、こういうことになるだろう。自分の目で見てみたい(『評釈』)という気持になってきます。

こうして彼の女三の宮への気持ちをなぞってみると、どうもすっきりと話が通りませんが、若者らしい興味本位の浮気心と言いますか、おっかなびっくりと言いますか、いかにも彼らしく、おずおずと首を伸ばして様子を覗うといった感じです。》

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