【現代語訳】
猫は、まだよく人に馴れていないのであろうか、綱がたいそう長く付けてあったのを物に引っかけてまつわりついてしまったのを逃げようとして引っぱるうちに、御簾の端がたいそうはっきりと中が見えるほど引き開けられたのを、すぐに直す女房もいない。その柱の側にいた人々も、慌てているらしい様子で誰も手を出せないでいる。
几帳の側から少し奥まった所に、袿姿で立っていらっしゃる方がいる。階から西の二間の東の端なので、隠れようもなくすっかり見通すことができる。
紅梅襲であろうか、濃い色から薄い色へ、次々と何枚も重ねた色の移りもはなやかで、綴じ本の小口のように見えて、桜襲の織物の細長なのであろう。お髪が裾までくっきりと見えるところは、糸を縒りかけたように靡いて、裾がふさふさと切り揃えられているのは、とてもかわいい感じで、七、八寸ほど身丈に余っていらっしゃる。お召し物の裾が長く余って、とても細く小柄で、姿つきや髪のふりかかっていらっしゃる横顔は、何とも言いようがないほど気高くかわいらしげである。夕日の光なのではっきり見えず、奥暗い感じがするのも、とても物足りなく残念である。
蹴鞠に夢中になっている若公達の、花の散るのを惜しんでもいられないといった様子を見ようとして、女房たちは、まる見えとなっているのを直ぐには気がつかないのであろう。猫がひどく鳴くので、振り返りなさった顔つきや仕種などは、とてもおっとりとして、若くかわいい方だと、直感された。
大将は、たいそうはらはらしていたが、近寄るのもかえって身分に相応しくないので、ただ気づかせようとして咳ばらいなさったので、すっとお入りになる。実は自分自身もとても残念な気持ちがなさったが、猫の綱を放したので、溜息をもらさずにはいられない。
ましてあれほど夢中になっている衛門督は、胸がいっぱいになって、他の誰でもない、大勢の中ではっきりと目立つ袿姿からも、他人と間違いようもなかったご様子など、心に忘れられなく思われる。
何気ない顔を装っていたが、「当然見ていたにちがいない」と、大将は困った事になったという気がなさる。
たまらない気持ちの慰めに、猫を招き寄せて抱き上げてみると、とてもよい匂いがして、かわいらしく鳴くのも慕わしい方に思いなぞらえられるとは、好色がましいことであるよ。
《源氏の晩年を決定づける運命的な場面です。 柏木が、あれほど願っていた女三の宮の姿を垣間見てしまったのです。綱の付いた猫が飛び出したというのは偶然ですが、この女三の宮付きの女房たちの様子(「しっかりした年輩の者たちは少なく、若くて美人でただもう華やかに振る舞って気取っている者がとても多く」・第一段)なら、いつかは何かの折にこういうことになったでしょう。 『評釈』が、「統制がない。女三の宮は女房連を抑えていないのである」と怒りますが、もともと「姫宮は、驚くほど気がかりで、頼りなくお見えでいらっしゃる」(第二章第二段)というのですから、それはとうてい望むべくもありません。 それにしても、「たいそうはっきりと中が見える」ほどなのに、「すぐに直す女房もいない」という無能ぶりは、ここでは絶対の要件なので、ここまでの女房たちの設定(第一段など)は、周到な準備だったと思わせます。 さて、夕霧と柏木には、猫が引き上げた御簾の向こうに、「袿姿で立っていらっしゃる方」が、こともあろうに「隠れようもなくすっかり」見えました。「(袿姿は)上着の代わりに袿を着たくつろぎ姿。表着、裳、唐衣を着けた女房姿と区別される」(『集成』)ということで、それは紛れもなく姫宮ですが、そういう端近に出てきているというのも、また、立っているというのも、姫としての作法に大きく外れた振る舞いです。 しかしその姫の姿自体は、さすがに、衣裳も折りに合った見事なもので、髪も黒く長く、「とても細く小柄で、姿つきや髪のふりかかっていらっしゃる横顔は、何とも言いようがないほど気高くかわいらしげ」だったのでした。 後に「とても物足りなく残念である」とありますから、この描写は柏木の目を通してのものということになります。この一目で彼は心を奪われてしまいました。 同時に夕霧も同じ姿を見ましたが、彼は、まっ先にまずいと感じて、しかしまさか大将が御簾を下ろすというような作業のために動くわけにも行きませんので、咳払いでそれと知らせました。 それでやっと女房が御簾を下ろします。彼も内心、惜しい気もしたのですが、それよりも柏木が見たに違いないことを思って、厄介なことにならなければよいがと思います。 一方、突然の僥倖によって心を奪われ柏木は、綱を放された猫を呼び寄せて、抱き上げると、「とてもよい匂いがして(姫の移り香でしょう)、かわいらしく鳴く」ので、目を閉じると、とは書かれていませんが、まるで姫宮を抱いているような思いになります。まことに「好色がましいことであるよ(原文・好きずきしきや)」です。 ところで、『光る』がこの二匹の猫について「大野・これ、二匹がどう縛られていたんだろう」と疑問を呈しています。そして「丸谷・かなりの作家でもこういうところを詳しく書くのはむずかしいんです」ということで、どうもよく分からないということで終わっています。》