源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第十一章 明石の物語(二)

第三段 尼君と御方の感懐~その2

【現代語訳】2

御方もひどく泣いて、
「人より優れた将来のことなど、思ってもいません。物の数にも入らない身には、何ごとも晴れがましく生きがいのあるはずもないとはいうものの、悲しい行き別れの恰好で生死の様子も分からずに終わってしまうことだけが残念です。
 すべてのことは、そうした因縁がおありだった方のためと思われます。そんなふうに山奥に入ってしまわれたなら、人の命ははかないものですから、そのままお亡くなりになったら、何にもなりません」と言って、一晩中しみじみとしたお話をし合って夜をお明かしになる。

「昨日も、大殿の君が、私があちらにいると御覧になっていらっしゃったのに、急にこっそり隠れたようなのも、軽々しく見えましょう。私自身は、何も遠慮することはないのです。このように若宮にお付きになっている女御のためにお気の毒で、思いのままに身を振る舞いにくいのです」と言って、暗いうちにお帰りになった。
「若宮はどうしていらっしゃいますか。どうしたらお目にかかれるでしょうか」と言ってまたも泣く。
「すぐにお目にかかれましょう。女御の君も、とても懐かしくお思い出しになってはお口になさるようです。院も、お話のついでに、もし世の中が思うとおりに行くならば、縁起でもないことを言うようだが、尼君がその時まで生き永らえていらして欲しいと、おっしゃっているようでした。どのようにお考えになってのことなのでしょうか」とおっしゃると、再び笑い顔になって、
「さあ、それだからこそ、喜びも悲しみもまたと例のない運命なのです」と言って喜ぶ。

この文箱を持たせて女御の方の許に参上なさった。

 

《悲しいことは御方も同じです。尼君が、あなたのお蔭で光栄に浴したが、と言った(前節)ので、御方も、自分も今のこの光栄よりも父を失う悲しみが大きいと、口を切ります。

そういう光栄が喜ばしいのは、「そうした因縁がおありだった方」、つまり父がいればこそのもので、喜んでくれる父がいなければ、「何にもなりません」と、嘆きます。

しかし、都にいてはそれもすべて繰り言、二人は手紙を前にただその繰り言や父の思い出話を交わすしかなく、「大殿の君」には伝えずに来たようで、夜が明けてどこに行ったのかと問われるようでは、いかにも軽い振る舞い、御方自身はいいとしても、女御の顔が立ちませんから、源氏が若君を見に来る前に女御の側に帰らなくてはなりません。

ひとりぼっちになる尼君が、また若君に会いたいと泣くので、御方は、源氏が「もし世の中が思うとおりに行くならば」、まためでたい姿を見て貰えようから、長生きをして貰いたいと言っていたことを伝えて慰めます。

御方は、源氏が考えていることを知らぬ態ですが、どうやら、この若君が東宮になることを言っているようです。

「縁起でもないこと(原文・ゆゆしきかね言)」は、尼君の寿命の話をするから(『集成』)とも、帝の位に関わることだから(『評釈』)とも言います。

源氏が心遣いをしてくれていることが分かり、またひ孫のめでたい将来を聞かされて、尼君の気持は一度に晴れるのでした。かつて、大井の邸で姫を六条院に手放すことを躊躇う娘の御方を厳しく説得した(薄雲の巻第一章第二段2節)、あの強く賢明な母の姿は今はなく、すっかりお婆さんになっていて、それを御方が、自分の娘のための勤めとの板挟みになりながら、優しく世話をしている、といった様子です。》

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第三段 尼君と御方の感懐

【現代語訳】1

 明石御方は、南の御殿にいらっしゃったが、「このようなお手紙がありました」と、伝えて来たので、人目に立たないようにしてお越しになった。

重々しく振る舞って、さしたる用件がなければ、行き来しお会いなさることは難しいのだが、「つらいことがあって」と聞いて、気がかりなので、こっそりといらっしゃると、とてもたいそう悲しそうな様子で座っていらっしゃった。
 灯りを近くに引き寄せて、この手紙を御覧になると、なるほど涙を堰き止めることができないのだった。他人ならば何とも感じないことでも、まず、昔から今までのことを思い出して恋しいとお思い続けていらっしゃるお心には、「二度と会えずに終わってしまうのだ」と、思って御覧になると、ひどく何とも言いようがない。
 涙をおとめになることもできず、この夢物語を一方では将来頼もしく思われ、
「それでは、偏屈な考えで私をあんなにもとんでもない身にして不安にさまよわせなさると一時は気持ちが迷ったこともあるが、それは、このような当てにならない夢に望みをかけて、高い理想を持っていらっしゃったのだ」と、やっとお分りになる。

尼君は、長くかかって気を静めて、
「あなたのお蔭で、嬉しく光栄なことも、身に余るほどに又とない運勢だと思っております。でも、悲しく胸の晴れない思いも、人一倍多くあったことでした。
 取るに足らぬ身ながらも、長く住み馴れた都を捨てて、あの国にうらぶれ住んでいたのでさえ、普通の人と違った運命であると思っておりましたが、生きている間に別れ別れになり、離れて住まなければならない夫婦の縁とは思っておりませんで、同じ蓮の花の上に住むことができることに望みを託して歳月を送って来て、急にあのような思いもかけない御事が出てきて捨てた都に帰って来ましたが、その甲斐あった御事を拝見して喜ぶものの、もう一方には、気がかりで悲しいことが付きまとって離れないのを、とうとうこのように再び会うことなく離れたまま、一生の別れとなってしまったのが残念に思われます。
 宮仕えをしていた時でさえ、普通の人と違った性質のため、世をすねているようでしたが、まだ若かった私たちは頼りにし合って、それぞれまたとなく深く約束し合っていたので、お互いに本当に頼りにしていました。どのようなわけで、このような便りの通じる近い所でありながら、こうして別れてしまったのでしょう」と言い続けて、たいそう悲しげに泣き顔をしていらっしゃる。

 

《前段までの入道の手紙の内容を、読者は御方と一緒に読んでいるものとばかり思っていましたが、実は尼君の所に届いたようで、彼女は母に呼ばれて、これから読むことになります。

途中の、「他人ならば何とも感じないことでも(原文・よその人は、何とも目とどむまじきことの)」とあるのが分かりにくく思われますが、次の「昔から今までの」父親との数々の思い出の、その一つ一つの小ささを言っているのでしょうか。

彼女は、父が自分に掛けた願いがそういう因縁のあるものだったのかと、初めてその真相を知り、別れの悲しみはもちろんひととおりではありませんでしたが、その一方で、自分たちの(中でも、主として姫の)今の栄光が神仏の加護の上にあることだったことも分かって、改めて「将来頼もしく思われ」て、ありがたい気持にもなりました。

それにしても、彼女が父の目論見について「偏屈な考えで私をあんなにもとんでもない身にして不安にさまよわせなさると一時は気持ちが迷ったこともある(原文・ひが心にて、わが身をさしもあるまじきさまにあくがらしたまふと、中ごろ思ひただよはれし)」と思ったというのは、ちょっと意外です。

『評釈』はこの言葉をまともに受けて、「(父が)源氏と結婚させようと工作を始めた時には、正気かしらと疑った」と言いますが、しかし彼女自身、まだ源氏に会う前、すでに「身分相応の結婚などまったくしたくない」(須磨の巻第三章第六段2節)と考えていましたし、結ばれた後には「自分のような女がいるということをお知りになり訪ねてくださるにつけて、自然と涙ぐまれ」(明石の巻第二章第七段2節)たほどに本気で源氏に心惹かれていたのでしたから、その後、明石での源氏との別れや、上京して暫くの心細いわび住まいなど、辛いことは多くあったにせよ、それはあながち父親の「偏屈な考え」だけのせいとも言えなさそうです。

これは恐らく作者が、入道の描いた望みがどれほど桁外れのものであったか、を強調しようとしての筆の勢いというところではないかと思われます。

この人は、父親の期待するような娘に育っていましたが、だからといって、父親の考えに翻弄されるだけようなヤワな女性では、決してなかったのです。

尼君の言葉は痛切です。「まだ若かった私たちは頼りにし合って、それぞれまたとなく深く約束し合っていたので、お互いに本当に頼りにして」生きていたのに、何があったのか、都を離れることになり、遠くはないとは言え、流罪地にもされる明石などという「うらぶれ」たところに住むだけでも、とんでもないことだと思ったのに、源氏の君に会うことになり、ついには娘について都に一人舞い戻り、つらい暮らしを堪えて、ようやく願ってもない光栄に浴すことになったかと思えば、今度は年取ってその遠くはないところにいる夫と生きたままの永訣となるなど、一体私の一生は何だったのだろう、…。》

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第二段 尼君への手紙

【現代語訳】

「寿命の尽きる月日を、決してお心にかけてなさるな。昔から皆が染めておいた喪服なども、お召しになるな。ただ自分は神仏の権化とお思いになって、この老法師のためには功徳をお作り下さい。現世の楽しみを味わうにつけても、来世をお忘れなさるな。
 願っております極楽にさえ行きつけましたら、きっと再び会うことがありましょう。この世以外の世界に行き着いて、早く会おうとお考えなさい」
 そして、あの社に立てた多くの願文類を、大きな沈の文箱に、しっかり封をして差し上げなさっていた。
 尼君には、格別のことも書いてなく、ただ、
「今月の十四日に、草の庵を出まして、深い山に入ります。役にも立たない身は、熊や狼にでも施してしまいましょう。あなたは、やはり望みどおりの御代になるのをお見届けなさい。極楽浄土で、再びお会いすることがありましょう」とだけある。

尼君がこの手紙を見て、その使いの大徳に尋ねると、
「このお手紙をお書きになって、三日目に、あの人跡絶えた山奥にお移りになったことでした。拙僧らも、そのお見送りに麓まではお供しましたが、皆お帰しになって、僧一人と童二人だけをお供にお連れなさいました。今は最後とご出家なさった時に、悲しみの極みと存じましたが、さらに悲しいことが残っていたのでした。
 長年勤行の合間合間にものに寄りかかりながら、掻き鳴らしていらっしゃった琴の御琴と琵琶をお取り寄せなさって、少しお弾きなさっては、仏にお別れ申されて、御堂に喜捨なさいました。その他の物も、大抵は寄進なさって、その残りを御弟子たち六十何人、親しい者たちばかりお仕えしていましたが、身分に応じて全てお分けになって、その上でなお残っているものを、都の方々の分としてお送り申し上げたのです。
 今は最後と引き籠もり、あの遥かな山の雲霞の中にお入りになってしまわれた空っぽのお跡にとどまって悲しく思っている人々は多くございます」などと、この大徳も子供の時に都から下った人で、老僧となって残っているのだが、まことにしみじみと心細く思っていた。

仏の御弟子の偉い聖僧でさえ、霊鷲山を十分に信じていながら、それでもやはり釈迦入滅の時の悲しみは深いものであったが、まして尼君の悲しいと思っていらっしゃることは限りない。

 

《ここの初めは娘への手紙の追伸です。自分の死んだ日も尋ねるな、喪に服す必要もない、ただ自分の極楽往生を祈るがよい、そこにはきっと私が待っているだろう、…。

何とも厳しい戒めであり、覚悟ですが、その裏にひたすら娘を思う愛情が溢れているように読めるように思います。

『光る』が「丸谷・この手紙がなかなかの名文で、いかにもこういう男はこういうときにこういう手紙を書くだろうなという感じがする」と言っています。

そして最後に尼君への手紙ですが、これはほんの短いものでした。

「自分一人で数多くの願を立て」(前段)たとありましたから、入道はこれまで夢のことは誰にも話していないようで、尼君も例外ではないでしょうから、彼女としては、昔から、その事情は分からないままに、しかしわが夫が何か大きなことを思いつめているらしいことは承知しており、明石で別れた時には、これからどうしようとしているかということは、もう全てが分かっていた、ということではないでしょうか。そう信じる故の入道の短い手紙なのだ、と思って読みたいところです。

後はいつそれを決行するか、それだけは知らせておこう、という便りです。

娘が仏の思し召しにかなうことができるようになった今、わが身はもう必要のないもの、熊・狼にくれてやればいい、それはあたかも、自身、老いて力を失った獣のような生き方です。

この時「熊や狼にでも施してしまいましょう」は、一見悲壮な決意のように見えますが、彼の場合、実はそうではなくて、もともと生きるのが下手な人が、それ故の淪落感を背負いながら、おまけに仏から大変な重荷を背負わされて、しかしそれに従って懸命に生きた挙げ句、その全てを完全に果たして、むしろすっかり肩の荷を下ろして、かろがろと山に入って行く、少なくとも尼君にそうだと思わせようとした気持を表した、軽い戯れの言葉と読みたい気がします。

 作者はどうしてそういう境地を想像し、また創造し得たのでしょうか。六条御息所によって、あの「女性の業」を思い描き定着させた得た人は、あるいはその救いとして、この人物を必死に思い描いたのかも知れません。

それにしても、わざわざ「三月十四日」と特定の日を言ったのは、不思議です。この日の意味は何でしょうか。

御子の生まれたのは「三月十日過ぎのころ」、「どうして知ったのか。あらかじめ人を派遣してあったかとさえ思われる速さ」(『評釈』)です。「ここ数年というものは、…お手紙を差し上げたり戴いたりしないでおります」(前節)と言っていますから、それも変ですが、ともあれ、入道がその日をいかに待ちわびていたかを示しているとは言えるでしょう。》


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第一段 明石入道、明石の御方へ手紙を贈る~その2

【現代語訳】2
「ここ数年というものは、同じこの世にうろうろと生きてきましたが、何の何の、生きながら別世界に生まれ変わったように考えることにしまして、格別変わった事がない限りは、お手紙を差し上げたり戴いたりしないでおります。
 仮名の手紙を拝見するのは、時間がかかって念仏も怠けるようで、無益と考えて、お手紙を差し上げませんでしたが、人伝てに承りますと、姫君は東宮に御入内なさって、男宮がご誕生なさったとのこと、心から喜び申します。
 そのわけは、私自身このようなつまらない山伏の身で、今さらこの世での栄達を願うのではありません。

過ぎ去った昔の何年かの間、未練がましく六時の勤めにも、ただあなたの御事を心にかけ続けて、自分の極楽往生の願いはさしおいて願ってきました。
 あなたがお生まれになろうとした、その年の二月のある日の夜の夢に見たことは、私が須弥山を右手に捧げ持っている、その山の左右から、月と日の光が明るくさし出して世の中を照らす、私自身は山の下の蔭に隠れてその光に当たらない、山を広い海の上に浮かべ置いて、小さい舟に乗って西の方角を指して漕いで行く、というものでした。
 夢から覚めてその朝から、物の数でもないわが身にも期待する所が出て来ましたけれども、どのようなことによって、そんな大変な幸運を待ち受けることができようかと、心中に思っていましたところ、そのころからあなたが孕まれなさって以来今まで、世俗の書物を見ましても、また仏典の真意を求めました中にも、夢を信じるべきことが多くありましたので、賎しい身の懐の内ながらも、恐れ多く大切にお育て申し上げましたけれども、力の及ばない身に思案にあまって、このような田舎に下ったのでした。
 そしてまたこの国で沈淪しまして、老の身で都に二度と帰るまいと諦めをつけて、この浦に長年おりましたその間も、あなたに期待をおかけ申していましたので、自分一人で数多くの願を立てました。そのお礼参りが、無事にできるような願いどおりの運勢に巡り合われたのです。
 姫君が国母とおなりになって、願いが叶いなさったあかつきには、住吉の御社をはじめとして、お礼参りをなさい。もはや何を疑うことがありましょうか。
 この一つの願いが近い将来に叶うことになったので、遥か西方の十万億土を隔てた極楽の九品の蓮台の上の往生の願いも確実になりましたので、今はただ阿弥陀仏が蓮台を持っての来迎を待つ間、その夕べまで水も草も清らかな山の奥で勤行しようと思いまして、入山致します。
  光いでむ暁ちかくなりにけり今ぞ見し世の夢語りする

(日の出近い暁となったことよ、今初めて昔見た夢の話をするのです)」
とあって、月日が書いてある。

 

《明石入道の長い手紙で、「初めの「何の何の(原文・何かは)」は「『何かは聞かむ』ほうっておこう」(『評釈』)の意で、出家の身でなお「この世にうろうろと生きて」いることを、恥じながら開き直ろうとしている気持を言っているということのようです。

「仮名の手紙を拝見するのは…」と言っていますが、確かに、私たちでも仮名文字だけの文章は読みにくいのですから、漢文に馴れた人にはなおさらと思われます。しかし、妻子の手紙に対してそのように言うのは、その事情以上に、彼の世を離れたいという強い意志が感じられます。

さて、手紙の本題です。実は彼は、あるとき大変な夢を見たと言います。それは、須弥山(「仏教の世界観で、世界の中心にあり、大海中に聳える山」(『集成』))を右の手に捧げて(「女は、右をつかさどるとされるところから、明石の上を生むこと」(同))、「その山の左右から月と日の光が明るくさし出して世の中を照らす」(「月は皇后、日は帝を喩えるところから、明石の上により皇后、東宮が生まれる予兆」(同))という、大変な夢でした。

そうして間もなく、母が身ごもり、果たせるかな、女であるあなたがお産まれになった、そこで自分は何としてでもあなたをそういう立場に据えるべく、努めることにした。「力の及ばない身に思案にあまって」というのは、そのためには財力が足らなかったということのようです。

昔、良清が語った(若紫の巻第一章第二段2節)ところによれば、彼は都で「近衛の中将」(従四位下相当の官)だったのですが、その頃は「(貴族や官人の給与の)財源が、九世紀後半にはすでに慢性的な窮乏をきたして」おり「中下級官人に対しては数年にわたって延滞するというような事態すら生じていた」(『人物論』所収「明石入道の人物造型」)ということで、入内などということには莫大な資金が必要でしょうから、これでは到底入内を覗うようなことにはならないでしょう(こうした現実の財政の窮乏からみると、物語の中での源氏周辺の生活はあまりに華麗に思えるのですが、当時の所得格差は、あるいは身分以上に苛烈だったということなのでしょうか、あるいは、ノスタルジーから古きよき時代に舞台を設定したということなのでしょうか)。

ともあれ、中央官庁の窮乏に対して「受領となることが巨富を得る道であったことについては、いまさら縷説を要しまい」(同)と言われるほどであったようで(加えて、一徹偏屈であったらしい入道にとっては宮仕えが面白くないものであったこともあったのでしょうか)、思いきって「このような田舎に下った」ということなのでした。その播磨の国は幸いに大国であり、しかも産業、交易の盛んな地で、彼はそこで名を捨て実を取って、莫大な資産を手にすることができ、それを背景に娘のために「自分一人で数多くの願を立て」たのだった、というわけです。

その願いがかなった以上、あの夢のお告げにあったように「私自身は山の下の蔭に隠れて、その光に当たらない、山を広い海の上に浮かべ置いて、小さい舟に乗って、西の方角を指して漕いで行く」のが仏の示された道であり、また、彼自身としても望ましい道だったでしょう。

それにしても、あの若紫の巻の時から、作者はこの手紙の内容を予定していたように見える自然な話で、構想上当然のこととは言え、みごとな人物造型です。作者として、大きな関心を持った実在の人があったのではないか、などと思ってみます。》

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第一段 明石入道、明石の御方へ手紙を送る~その1

【現代語訳】1
 あの明石でもこのようなお話を伝え聞いて、あのような出家の心にも、たいそう嬉しく思われたので、
「今は、この世から心安らかな気持ちで離れて行くことができよう」と弟子たちに言って、この家を寺にして、周辺の田などといったものはみなその寺の所領にすることにして、この国の奥の郡で、人も行かないような深い山があるのをかねてより所有していたものの、あそこに籠もった後は再び人に見られることもあるまいと考えて、ほんの少し気がかりなことが残っていたので今までとどまっていたが、今はもう大丈夫と仏神をお頼み申して移ったのであった。
 最近の数年間は、都に特別の事でなくては、使いを差し上げることもしないでいた。都からお下しになる使者ぐらいには言づけて、ほんの一行の便りなりと、尼君はしかるべき折のお返事をしていたのであった。

俗世を離れる最後に、手紙を書いて御方に差し上げなさる。


《明石の御方の上京の時(松風の巻)に別れて以来の、久々の入道の消息です。

 彼は、あの後自邸を寺に変えてしまっていて、さらに山奥に住まうところを準備していて、いつかそこに籠もろうと考えていたようなのです。

そして今、彼は姫君の男御子出産というめでたい話を伝え聞いて、もはや現世に思い残すことなしと、その「人も行かないような深い山」に「仏神をお頼み申して移」ることにしたのでした。

一別以来、妻子とは、ほとんど音信も無かったようですが、いよいよその「俗世を離れる」というその前に、娘の「御方」に手紙を書きます。

彼は、その昔、「名家に生まれながら、その立場に馴染めず、みずから降格を願い出て都を去った」(松風の巻第一章第四段)のでしたが、ここで、その秘密の幾分かが明かされることになります。》

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