源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第九章 光る源氏の物語(四)

第三段 勅命による夕霧の饗宴~その2

【現代語訳】2

 例によって、「万歳楽」「賀皇恩」などという舞を形ばかり舞って、太政大臣がおいでになっているので、珍しく湧き立った管弦の御遊に、参会者一同、熱中して演奏していらっしゃった。琵琶は例によって兵部卿宮で、どのような事でも世にも稀な名人でいらっしゃって、またとない出来である。院の御前に琴の御琴、太政大臣が、和琴をお弾きになる。
 長年幾度もお聞きになってきたお耳のせいか、まことに優美にしみじみと感慨深くお感じになって、ご自身の琴の秘術も少しもお隠しにならず、素晴らしい音色が奏でられる。
 昔のお話なども出てきて、今は今で、このような親しいお間柄で、どちらからいっても、仲よくお付き合いなさるはずの親しいご交際などを、気持ちよくお話し申されて、お杯を幾度もお傾けになって、音楽の感興も増す一方で、酔いの余りの感涙を抑えかねていらっしゃる。
 御贈り物として見事な和琴を一つ、お好きでいらっしゃる高麗笛を加えて。紫檀の箱一具に、唐の手本とわが国の草仮名の手本などを入れて、お車まで追いかけて差し上げなさる。御馬を受け取って、右馬寮の官人たちが高麗の楽を演奏して大声を上げる。六衛府の官人の禄などを、大将がお与えになる。
 ご意向から簡素になさって、仰々しいことは今回はご中止なさったが、帝、東宮、上皇、中宮と、次から次へと御縁者の堂々たることは、筆舌に尽くしがたいことなので、やはりこのような晴れの賀宴の折には、素晴らしく思われるのであった。

 大将がただ一人子息としていらっしゃるのを、物足りなく張り合いのない感じがしたが、大勢の人々に抜きん出て、評判も格別で、人柄も並ぶ者がないようでいらっしゃるにつけても、あの母北の方が、伊勢の御息所との確執が深く、互いに争いなさったご運命の結果が現れたのが、それぞれ身の上の違いだったのである。
 その当日のご装束類は、こちらの御方がご用意なさったそうだ。禄などの一通りのことは、三条の北の方がご準備なさったようであった。何かの折節につけたお催し事、内輪の善美事をも、こちらはただ他所事とばかり聞き過していらっしゃるので、どのような事をして、このような立派な方々のお仲間入りなされようかと思われることだったが、大将の君のご縁で、まことに立派に重んじられていらっしゃる。

 

《とうとう作者も「例によって」と書き出すことになりました。「万歳楽」は紫の上が催した祝宴(第一段2節)で、「賀王恩」は藤の裏葉の巻末の行幸の折に舞われました。

まずはそういう公的な舞楽から始まりますが、今回はそれは「形ばかり舞って」となりました。その任に当たっている専門家の舞よりも、参会した方々がそれぞれ管絃の名手であったので、そちらの方に関心が移っていったのです。もちろん太政大臣の配慮によることなのでしょうが、帝が差し向けられた舞手の扱いとしては、いささか粗略に感じられます。

ともあれ、久し振りに太政大臣の和琴、兵部卿の琵琶、源氏の琴の御琴での音楽の語らいがなされ、昔や今のお話が親しく交わされて、宴が終わります。

いくら控えめにしても、並外れた催しになる源氏の権勢ですが、息子が一人しかいないのが寂しい限りで、優れた人物ではありますが、母親同士(六条御息所と葵の上)の諍いで恨みを呑んで身を引いた方の娘が先に出世をした中宮と比べると、因果応報が思われると、語ります。

しかし、その夕霧がいるお陰で、「こちらの御方」(花散里・原文では「こなたの上」とあります、この人が「上」と呼ばれるのは、ここが初めてだったように思います)の出番ができました。そう言えば、この宴は彼女の東北の邸で催されていたのでした。束の間の、ではありますが、彼女にとって生涯でただ一度、そして最も華やいだ一夜だったのです。

さて、女三宮の降嫁という大きな心配ごとをよそに、朧月夜との再会と四十の賀という、源氏の権勢のほどを思わせる話が続きましたが、次にさらにもう一つ、彼にとってのめでたい話が語られます。》

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第三段 勅命による夕霧の饗宴~その1

【現代語訳】1

 帝におかせられては、お思い立ちあそばした事柄を、むげに中止できまいとお思いになって、中納言に御依頼あそばした。そのころの右大将が病気になって職をお退きになったので、この中納言に、御賀に際して喜びを加えてやろうとお思いあそばして、急に右大将におさせあそばした。
 院もお礼申し上げなさるものの、
「とても、このような急に身に余る昇進は、早すぎる気が致します」とご謙遜申し上げなさる。
 東北の町にご準備を整えなさって目立たないようになさったが、今日はやはり儀式の様子も格別で、あちこちでの饗応なども、内蔵寮や穀倉院からご奉仕をおさせになった。
 屯食などは公式の作り方で頭中将が宣旨を承って、親王たち五人、左右の大臣、大納言が二人、中納言が三人、参議が五人で、殿上人は例によって内裏も東宮も院も、残る人は少ない。

お座席やご調度類などは、太政大臣が詳細に勅旨を承ってご準備なさっている。今日は、勅命があっておいでになった。院もたいそう恐縮申されて、お座席にご着席になる。
 母屋のお座席に向かい合って、大臣のお座席がある。たいそう美々しく堂々と太って、この大臣は、今が盛りの威厳があるようにお見えである。
 主人の院は、今もなお若々しい源氏の君とお見えである。御屏風四帖に、帝が御自身でお書きあそばした唐の綾の薄緂の地に、下絵の様子など、尋常一様であるはずがない。美しい春秋の作り絵などよりも、この御屏風のお筆の跡の輝く様子は、目も眩む思いがし、御宸筆と思うせいでいっそう素晴らしかったのであった。
 置物の御厨子、絃楽器、管楽器など、蔵人所から頂戴なさった。右大将のご威勢も、たいそう堂々たるものにおなりになったので、それも加わって、今日の儀式はまことに格別である。御馬四十疋、左右の馬寮、六衛府の官人が、上の者から順々に馬を引き並べるうちに、日がすっかり暮れた。

 

《とうとう帝が乗り出して来られました。これまで幾度か源氏の辞退を受けて思いとどまってこられたようでしたので、読者としてはさすがにもうないかと思わされていましたが、ここに至って、夕霧を介しての祝賀で、彼にはその労のために右大将の位が与えられて、中納言と兼務となります。

花散里の邸に万端の準備がしつらえられ、「内蔵寮や穀倉院から、ご奉仕をおさせにな」り、「頭中将が宣旨を承って」、宮中に「残る人は少ない」といった案配で参列します。

さらに祝賀の席は太政大臣がわざわざ出向いて差配し、また臨席します。

『評釈』が「お道具類」(「御屏風四帖」、「置物の御厨子、絃楽器、管楽器など」を指すのでしょうか)について「一つ一つ趣を変えていることに注意されたい。一つ一つ前よりも立派になっていくことに、予想外のものになっていくことに注意されたい」と言います。

もうこれで祝賀も四回目になりますので、その違いのよく分からないものにとっては、またかという感を拭えませんが、当時の読者は、この少しずつ違っていく繰り返しをきちんと理解して、やはりさすがは帝の催し、さすがは源氏のご威光、という思いで読むことができたのでしょうか。

もっとも一方で、確かに、帝からのなにがしかのことがあって第一人者たる源氏の賀となりとも言えるので、これがなかったら、なにやら画竜点睛を欠くような気もします。とすると、紫の上と中宮の祝賀の話をもう少しうまく簡潔に処理してほしかったということになるでしょうか。

『評釈』だったでしょうか、この作者は大変律儀な人で、読者があのことは、と思いそうなことは皆書き込むというところがある、というようなことを言っていたと思いますが、あるいはここなどもその一端で、あの人ならどんなお祝いをするだろうかという読者の興味の全てに応えようとしたのかも知れません。

ところで、最後の「御馬四十疋…上の者から順々に馬を引き並べる」は、「庭上に」ということです(『集成』)が、宮中からお祝いなどを運んできた馬でしょうか、「上の者から(原文・上より)」がよく分かりません。》

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第二段 秋好中宮の奈良・京の御寺に祈祷

【現代語訳】

 十二月の二十日過ぎのころに、中宮が御退出あそばして、今年の残りの御祈祷に、奈良の京の七大寺に御誦経のため布を四千反、この平安京の四十寺に絹を四百疋分けてお納めあそばす。
 ありがたいご養育をお分かりでいらっしゃって、どのような機会に、深い感謝の気持ちを表して御覧に入れようかとお思いになって、父宮と母御息所とがご存命ならばきっとして差し上げただろう感謝の気持ちも添えてご計画になったのだが、あのようにあえて帝に対してもご辞退申し上げていらっしゃるので、お考えの多くを中止なさった。
「四十の賀ということは、先例を聞きましても、残りの寿命が長い例が少なかったので、今回は、やはり、世間の騷ぎになることをお止めになって、ほんとうに後に寿命を保った時に祝ってください」とあったが、公的催しとなって、やはりたいそう盛大になったのであった。

 宮のいらっしゃる町の寝殿に御準備などをして、前のと特に変わらず、上達部の禄など大饗に準じて、親王たちには特に女装束を、非参議の四位、廷臣たちなどの普通の殿上人には白い細長を一襲と腰差などまで、次々とお与えになる。
 装束はこの上なく善美を尽くして、有名な帯や御佩刀など、故前坊のお形見として御相続なさっているのも、また感慨に堪えないことである。古来第一の宝物として名のある物は、すべて集まって参るような御賀のようである。昔物語にも、引出物を与えることをたいしたこととして一つ一つ数え上げているようであるが、これはとても煩わしいので、ご立派な方々のご贈答の数々は、とても数え上げることができない。

 

《続いて中宮も、源氏の四十の賀を催しました。

奈良や京都の寺に布・絹を納めたのは、もちろんその賀の法要のためで、四千、四百というのはそれにちなむ数字(『集成』)、「一反」は「着物一着分に要する布地」、「一疋は反物二反分」(同)だそうです。なお、「布」は「絹に対し、植物の繊維で織った織物の総称」(『辞典』)です。従って「絹」は動物性の繊維で織ったものとなりそうですが、『辞典』には単に「絹織物」とあるだけです。

この数字だけでも大変なものですが、彼女はその他にお祝いのさまざまな計画を立てていました。その多く源氏に辞退されて、やむなく中止したと言いますが、それでも「公的催しとなって、やはりたいそう盛大になった」のでした。

六条院の中宮の邸で饗宴が催され、参列者に禄が贈られるのですが、「玉鬘の時には賜禄はなく、紫の上の場合は、楽人の禄のみであった」(『集成』)のであって、「親王方にまで禄を賜るのは、玉鬘や紫の上の身分ではできないことであり、ここに中宮としての格がある」と『評釈』が言います。禄も、出せばいいというわけではないようで、なかなか難しいものです。

なお、「十二月の二十日過ぎ」とありますが、『評釈』は二十三日ではなかったかとして、「玉鬘が今年の正月、源氏に若菜をさし上げて四十の賀をお祝いしたのも二十三日のことであったし、紫の上がこの十月にした精進落ちもわざわざ『二十三日』と銘記してある。注釈家の中には二十三日が光源氏の誕生日だったのではないかと言っている」と言います。

また、「昔物語にも、引出物を与えることを…」については、『宇津保物語』に「一つ一つ数え上げている」ところがあるようで、『評釈』がそれを挙げながら「一々そんなことをしていたら、とてもきりがありませんね、高貴な御身分の方々のおつきあいは、数えられるものではありませんよ、と作者はみえをきる」のだと言います。こちらの方が禄が多かったのだと誇っているということのようですが、かえって「昔物語」らしいと思ってしまいます。いや、そうではなくて、それを承知で、ギャグとしてみんなで笑って読んだところなのかも知れません。

ここは引用ばかりになってしまいました。》

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第一段 紫の上、薬師仏供養~その2

【現代語訳】2

 午後二時ごろに楽人が参る。「万歳楽」、「皇麞」などを舞って、日が暮れるころ、高麗楽の乱声をして、「落蹲」が舞い出たところは、やはり常には見ない舞の様子なので、舞い終わるころに権中納言や衛門督が庭に下りて「入綾」を少し舞って、紅葉の蔭に入ったその後の名残惜しさに、いつまでも面白いと人々はお思いである。
 昔の朱雀院の行幸に、「青海波」が見事であった夕べをお思い出しになる方々は、権中納言と衛門督とが、また負けず跡をお継ぎになっていらっしゃるのが、代々の世評や様子、器量、態度なども少しも負けず、官位は少し昇進さえしていらっしゃるなどと、年齢まで数えて、

「やはり、前世の因縁で、昔からこのように代々並び合うご両家の間柄なのだ」と、素晴らしく思う。主人の院も、しみじみと涙ぐんで、自然とお思い出しになる事柄が多い。

 夜に入って楽人たちが退出する。北の政所の別当連中は、下役どもを引き連れて禄の唐櫃の側に立って、一つずつ取り出して順々に与えなさる。白い衣類をそれぞれが肩に懸けて、築山の側から池の堤を通り過ぎて行くのを横から眺めると、千歳の寿をもって遊ぶ鶴の白い毛衣に見間違えるほどである。
 管弦の御遊びが始まって、これもまた素晴らしい。御琴類は、東宮から御準備あそばしたものであった。朱雀院からお譲りのあった琵琶、琴、帝から頂戴なさった箏の御琴など、すべて昔を思い出させる音色で、久しぶりに合奏なさると、どの演奏の時にも、昔のご様子や宮中あたりのことなどが自然とお思い出しになられる。
「亡き入道の宮が生きていらっしゃったら、このような御賀など、自分が進んでお仕え申したであろうに。何をすることによって、私の気持ちを分かって戴けただろうか」と、ただただ恨めしく残念にばかりお思い申し上げなさる。
 帝におかせられても、亡き母宮のおいであそばさないことを、何かにつけ張り合いがなく物足りなくお思いなされるので、せめてこの院のことだけでも、きまったとおりの礼儀を十分に尽くしてさし上げることができないのを、何かと物足りないお気持ちでいらっしゃるにつけても、今年はこの四十の御賀にかこつけて、行幸などもなさるようにお考えでいらっしゃったが、
「世の中の迷惑になるようなことは、決してなさらぬように」とご辞退申し上げなさることが再々になったので、残念ながらお思い止まりになったのだった。


《紫の上の「精進落とし」の本番、音楽と舞の宴です。それにしても、もう幾度こういう大小の宴が描かれてきたことでしょうか。人々の集まるところ、管絃と舞の遊び、といった趣です。

 こうした催しが行われる度に、あの昔の「紅葉の賀」が、登場人物たちによって、また作者によって思い出されます。あのときの源氏と頭中将の舞は、もう完全にレジェンドとなっています。

そして、ここでは、舞人たちの由緒ある演目に花を添えるように、最後にその二人の息子たちによって、あの時にまさるとも劣らない舞が披露されたのでした。

全ては紫の上の力と言っていいでしょう。そんな中で、源氏は藤壺を思い出しています。あのころ、彼はかの人との間の大きな問題を抱えて煩悶の中にありました。藤壺が亡くなったのは三十七歳、あの方の四十の賀が行えたなら、きっと自分が主催して、再び舞を御覧に入れて変わらぬ思いを示し、いくらかの罪滅ぼしができただろうに、とこの年になってなお、悔いを思います。

しかしこういう涙は、いささか苦くはあっても、つまりは幸福の涙です。『評釈』は「彼をして思い出にふけらせておこうではないか。いつまでも続くものでもなかろうし」と、冷たく言います。

こうした宴の話を聞かれたのでしょう、帝も重ねて祝賀の行幸を思われるのですが、源氏はそれを固辞します。何とか子として父に仕える礼を尽くそうとされる帝の気持を察して、帝と源氏のけじめを越えさせてはならないという、おもんばかりなのでしょう。

しかし考えてみると、今回の出席者は「上達部、左右の大臣、式部卿宮をおはじめ申して、それ以下の人々はまして、参上なさらない人はいない」(前節)とあって、帝と朱雀院だけが蚊帳の外といった趣ですから、子として落ち着かないのも無理ないようにも思われます。》

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第一段 紫の上、薬師仏供養~その1

【現代語訳】1

 十月に、対の上は院の四十の御賀のために、嵯峨野の御堂で薬師仏をご供養申し上げなさる。盛大になることはかたくお止め申しておられたので、目立たないようにとお考えになっている。仏像、経箱、帙簀の整っていることは、真の極楽のように思われる。最勝王経、金剛般若経、寿命経など、たいそう盛大なお祈りである。上達部がたいへん大勢参上なさった。

 御堂の様子は、素晴らしく何とも言いようがなく、紅葉の蔭を分けて行く野辺の辺りから始まって、見頃の景色なので、半ばはそれで競ってお集まりになったのであろう。
 一面に霜枯れしている野原のまにまに、馬や牛車が行き違う音がしきりに響いていた。御誦経を、我も我もと御方々がご立派におさせになる。

 二十三日を御精進落しの日として、こちらの院はこのようにどこにもご婦人が住んでいらっしゃるので、ご自分の邸宅とお思いの二条院で、そのご用意をおさせになる。ご装束をはじめとして、一般の事柄もすべてこちらでばかりなさる。他の御方々も適当な事を分担し合って、進んでお仕えなさる。
 東西の対は、女房たちの局にしていたのを片付けて、殿上人、諸大夫、院司、下人までの饗応の席を、盛大に設けさせなさった。寝殿の放出を例のように飾って、螺鈿の椅子を立ててある。
 寝殿の西の間にご衣装の机十二脚を立てて、夏冬のご衣装、御夜具など、しきたりによって、紫の綾の覆いの数々が整然と掛けられていて、中の様子ははっきりしない。
 御前に置物の机を二脚、唐の地の裾濃の覆いがしてある。挿頭の台は沈の花足、黄金の鳥が銀の枝に止まっている趣向など、淑景舎のご担当で、明石の御方がお作らせになったものだが、趣味深くて格別である。
 背後の御屏風の四帖は、式部卿宮がお作らせになった。たいそう善美を尽くして、おきまりの四季の絵であるが、目新しい泉水、潭など、見なれず興味深い。北の壁に沿って、置物の御厨子を二揃い立てて、御調度類はしきたりどおりである。
 南の廂の間に、上達部、左右の大臣、式部卿宮をおはじめ申して、それ以下の人々はまして参上なさらない人はいない。舞台の左右に、楽人の平張りを作り、東西に屯食を八十具、禄の唐櫃を四十ずつ続けて立ててある。


《世を挙げて準備していたと言われた(藤裏葉の巻第三章第一段)源氏の四十の賀は、ここまででは玉鬘が抜き打ちに若菜を届けたということで終わっていましたが、女三の宮の降嫁も終わったことで、やおら紫の上と中宮がそれぞれに催すことになります。

初めに紫の上が、「嵯峨野の御堂で薬師仏をご供養申し上げなさる」という形でのお祝いしました。十年ほど前、明石の御方が大井の山荘にいたころに源氏が改修していた、あの御堂です。

その儀式も賑々しいものでしたが、またその法要の精進落としの方も、儀式に劣らず、というよりここの語り方で言えば、それ以上に大変なものでした。

六条院では「このようにどこにもご婦人が住んでいらっしゃる」ので、何かと遠慮される面があるということで、紫の上は「ご自分の邸宅とお思いの二条院で、そのご用意をおさせに」なります。

何かと、とは言いますが、遠慮の対象は、もちろん女三の宮ただ一人でしょう。こういうところは、ゆかしい配慮と考えるべきところではあるのですが、紫の上ファンとしては、世が世であれば、といった感慨を持たざるを得ません。

「他の御方々も適当な事を分担し合って、進んでお仕えなさる」と言いますから、六条院の婦人方は皆、この催しに参加したのでしょうが、その女三の宮はどうだったのでしょうか。名前が出てくるのは明石の御方だけで、その他の様子は分かりませんが、降嫁したばかりとは言え、本来正室である彼女が主催してもおかしくはない催しですから、参加はしにくいのではないでしょうか。

人々は、その女三の宮と紫の上の関係がうまくいっているらしいと分かった挙げ句のことですから、源氏自身は「盛大になることは、かたくお止め申しておられた」というものの、安心して我も我もとやって来て、「御調度類はしきたりどおり」といったことからも推し量られるように、自然と賑々しいものになっていきます。

なお、『評釈』はここの「嵯峨野の御堂」について、当時の人は、京都嵯峨に実在する清涼寺という寺をそれとして思い描いていただろうと言います。》

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