源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第八章 紫の上の物語

第三段 紫の上、女三の宮と対面

【現代語訳】

 東宮の御方は、実の母君よりもこの御方を親しい方としてお頼り申し上げていらっしゃる。たいそうかわいらしい感じで一段と大人びてこられたのを、心の隔てなくいとしいとお思い申し上げなさる。お話などをとてもうちとけてお互いに話し合われてから、中の戸を開けて宮にもお会いになった。
 ただもうたいへんに子供っぽくお見えになるので気が張らず、年上らしく母親のように、親たちのお血筋をお話し申し上げなさる。中納言の乳母という人を召し出して、
「同じ血筋の繋がりをお尋ね申し上げてゆくと、恐れ多いことですが、切っても切れない御縁と申しますのに、機会もなく過ごしておりましたが、今からはお心おきなく、あちらの方にもおいで下さって、行き届かない点がありましたら、ご注意くださるなどしていただけましたら、嬉しゅうございましょう」などとおっしゃると、
「頼みとなさっていた方々にそれぞれお別れ申されなさいまして、心細そうでいらっしゃいますので、このようなお言葉を戴きますと、これ以上のことはないと存じられます。御出家あそばされた院の上の御意向も、ただこのように他人扱いをし申し上げなさらずに、まだ子供っぽいご様子をお育て申し上げて下さるようにということのようでございました。内々の話にも、そのようにお頼り申していらっしゃいました」などと申し上げる。
「まことに恐れ多いお手紙を頂戴してから後は、何とかぜひお力になりたいと存じておりましたが、何事につけても、人数に入らない我が身が残念に思われます」と、穏やかに年長者らしい様子で、宮にもお気に入るように、絵などのこと、お人形遊びの楽しいことを、若々しく申し上げなさるので、

「なるほど、ほんとうに若々しく気立てのよい方だわ」と、無邪気なお人柄でおうちとけになる。

 それから後は、いつもお手紙のやりとりなどをなさって、おもしろい遊び事がある折につけても、親しくお便りをお交わしになる。

世の中の人も、おせっかいなことに、これほどの地位になった方々のことは噂したがるものなので、初めのうちは、
「対の上はどのようにお思いだろう。ご寵愛はとても今までのようにはおありであるまい。少しは薄れるだろう」などと言っていたが、以前よりも深い愛情が、こうなってかえって勝った様子なので、それにつけてもまた事ありげに言う人々もいたが、このように仲睦まじいまでに交際なさっているので、噂も消えて丸くおさまっていたようである。

 

《東宮の御方は明石の姫君です。実母よりも紫の上を、「お頼り」はともかく、「親しい方(むつまじきもの)」と思っているというのは、普段明石の御方が傍に付いていることを思えばあり得ないことと思われますが、作者は、ここは紫の上を持ち上げるべき所と考えているわけです。前段末の源氏が朧月夜の所に行った話といい、「ためにする」不自然な話だと感じられます。読者(聞き手)へのサービスが過ぎたというところでしょうか。

東面での対面を済ませて、上は、今日の本題、隣の西面、女三の宮の所に出向きます。

そして上と中納言の君との対話になりますが、こういう熟練した女性同士の対話は、ずっと昔の桐壺帝の頃の靫負の命婦が更衣の母を訪ねた時もそうでしたが、情と体面をみごとに合わせ備えていて、読んでいてほれぼれします。作者の生活経験から身についたものなのでしょう。

特に、姫宮に対する配慮も含めて、上の有様はまったく理想の姿と言っていいものです。

姫宮に会う前にはいろいろな思いがあったのですが、実際に会ってみると、「ただもう子供っぽくお見えになる」(さっきまで十二歳の東宮の御方に会って「一段と大人びてこられた」とあったのと対照的です、この方の方が二つくらい年長のはずですが)ので、そうしたもの思いも忘れて(あるいは忘れたふうに)、「年輩者らしく母親のような態度で」向き合うことになりました。何ごとも、多くそうしたもので、「疑心暗鬼」ではありませんが、一人案じている時の姫宮の顔と、目の前のその人は、上から見て別の人のように見えたということもあったかも知れません。それに、もともとこの人自身には何の遺恨があるわけでもありません。

とは言え、「人の不幸は蜜の味」ということで、そうした親しいお付き合いが、また「それにつけてもまた事ありげに言う人々」を生んだというのが、いかにもありそうな話で、なかなか鋭いところですが、しかしむつまじいお付き合いが続いていくことで、その様が噂となって拡がっていくにつれて、ゴシップ好きの世間も、そのタネを失って次第に忘れて行ったのでした。

それもこれも、紫の上の見事な対応のたまものなのです。源氏がスーパースターでなくなったこの物語の中で、この人だけは非の打ち所のないヒロインとして、まだまだ健在です。》

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第二段 紫の上の手習い歌

【現代語訳】
 対の上におかれては、このようにご挨拶にお出向きになるものの、
「自分より上の人があるはずがない。わが身の頼りない身の上を見出され申しただけのことなのだわ」などと、つい思い続けずにはおられず、物思いに沈んでいらっしゃる。手習いなどをするにも、自然と古歌も物思いの歌だけが筆先に出てくるので、

「それでは、私には思い悩むことがあったのだわ」と、自分ながら気づかされる。
 院がお渡りになって、宮、女御の君などのご様子などを「かわいらしくていらっしゃるものだ」とそれぞれを拝見なさったそのお目で御覧になると、長年連れ添っていらした人が、世間並の器量であったならとてもこうも驚くはずもないのに、

「やはり、二人といない方だ」と御覧になるのは、世間にありそうもないお美しさである。
 どこからどこまでも、気品高く立派に整っていらっしゃる上に、はなやかに現代風で、照り映えるような美しさと優雅さとを、何もかも兼ね備え、素晴らしい女盛りにお見えになる。去年より今年が素晴らしく、昨日よりは今日が目新しく、いつも新鮮なご様子でいらっしゃるのを、

「どうしてこんなにも美しく生まれつかれたのか」とお思いになる。
 気軽にお書きになった御手習いを硯の下にさし隠しておられたが、見つけなさって、繰り返して御覧になる。筆跡などの、特別に上手とも見えないが、行き届いてかわいらしい感じにお書きになっていた。
「 身に近く秋や来ぬらむ見るままに青葉の山もうつろひにけり

(私の身近に秋が来たのかしら、いつのまにか青葉の山も色が変わってきたことだ)」
とある所に、目をお止めになって、
「 水鳥の青葉は色もかはらぬも萩のしたこそけしきことなれ

(水鳥の青い羽の色は変わらないのに、萩の下葉の様子は変わっています)」
などと書き加えながら手習いに心をやりなさる。

何かにつけて、おいたわしいご様子が自然に漏れて見えるのを、何でもないふうに隠していらっしゃるのも、またと得がたい殊勝な方だという気がなさる。
 今夜はどちらの方にも行かなくてよさそうなので、あの忍び所に、実にどうしようもなくて、お出かけになるのであった。「とんでもないけしからぬ事」と、ひどく自制なさるのだが、どうすることもできないのであった。

 

《自分から女三の宮との対面を言い出したものの、紫の上の思いは複雑です。

明石の姫君入内の折には輦車を許された自分は、本当は「自分より上の人があるはずがない」ほどの者なのだから、源氏との出会いが、自分の最も不遇な時代ではなく、式部卿宮の姫としてもっときちんとした形であったならば、正室として迎えられていたはずで、今日のようなつらい思いをしなくてすんだのではなかったか、と彼女は考えるのです。今さらながら、かつてあり得ない幸運と思ったことが、今は大変な不運にも思われて、彼女は、手慰みの手習いなどしながら、「物思いに沈んでいらっしゃる」のでした。

かつて朝顔の斎院とのことで抱いた不安(朝顔の巻第三章第一段)が、今、現実のものとなって現れたのです。しかも相手が、彼女のように人としてそれなりの人物ならばともかく、相手にもならない未熟な小娘(と言っては不敬ですが、仕方がありません)らしいとあっては、なおさら心穏やかでありません。

そこに源氏がやって来ます。彼から見える紫の上は、相変わらず素晴らしい女性です。いや、相変わらずではなく、「去年より今年が素晴らしく、昨日よりは今日が目新しく、いつも新鮮なご様子でいらっしゃる」、いわゆる明石の御方に対してしばしば使われた「近まさりする」(第三章第二段3節)する女性なのです。これは人に対する最高の評語なのではないでしょうか。

その上が手慰みに書いていた歌は、季節の推移と共に、私の所にも秋が来て頼みに思っていた山の青さ(源氏の心)も「うつろひにけり」、というものでした。その筆蹟が「特別に上手とも見えないが、行き届いてかわいらしい感じ」だったというのは、以前当代屈指の名筆と源氏が認めていた(梅枝の巻第二章第三段)にしては、さすがに思いの乱れがあったせいなのでしょうか。

こうした、悲しみを表に表さずに、ただ堪え忍ぶ姿は、何とも言えない気品を感じさせます。明石の御方についても挙げたことのある芥川の『手巾』(明石の巻第四章第三段2節)が、ここでも思い出されます。明石の御方の場合は、ひたすら控えめですが、紫の上は明るく華やか人でありながら、さらにこういう一面も持っている、それこそ情調の豊かな人なのです。

しかしこれでも源氏は、今夜は二人の対面があるのだから「どちらの方にも行かなくてよさそう」と考えて、「あの忍び所」(朧月夜の所)に出かけようとするのです。

こういう妙な打算的言い訳はこれまでになかったことで、昔なら同じ紫の上の許から懸命に言い訳をしながら大井の明石の御方の所に通ったように、もっと自然に堂々と行ったでしょう。今は超越した男ではなくて、ただの上の品の一男にすぎない源氏の姿です。

『評釈』は「それが男というものであろうか」と慨嘆し、「紫の上を裏切ること、かくも甚だしい。読者は怒るべきである」と憤って見せながら、「読者は思う。紫の上は不幸である、と」と、そちらに目を向けますが、やはりそう読むべきでしょう。

ただし、それにしても大切な二人の奥方の対面の夜、こういう小ずるい態度で朧月夜の所に行かせたのはやり過ぎで、光る源氏という人の統一性が損なわれていると言われてもやむを得ないという気がします。と言うか、やはり作者にとっては、描きたいのは女性たちであって、源氏はそのために都合よく変幻する狂言回しなのではないでしょうか。》

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第一段 明石姫君、懐妊して退出

【現代語訳】

 桐壺の御方はずっと長いこと退出なさっていない。御暇が出そうにもないので、今までお気楽に過ごして来られたお若い年頃の方ゆえ、とても辛く思っていらっしゃった。
 夏のころ、ご気分が悪くていらっしゃったのを、すぐにもお許し申し上げなさらないので、とてもひどいとお思いになる。ご懐妊のためのご気分だったのだった。まだとても若すぎるお年なので、たいそう心配なこととどなたもがお思いのようである。やっとのことでご退出なさった。
 姫宮がいらっしゃる寝殿の東側にお部屋は整えた。明石の御方は、今は女御のお側に付き添って、出入りしていらっしゃるのも、申し分ないご運勢である。

 対の上が、こちらにおいでになってお会いなさるついでに、
「姫宮にも、中の戸を開けてご挨拶申し上げましょう。前々からそのように思っていましたけれども、何かの折でなくては遠慮されますが、このような機会にお近づきになれましたら、気が楽になるでしょう」と、大殿に申し上げると、ほほ笑んで、
「それは願ってもないお付き合いというものでしょう。とても子供っぽくていらっしゃるようだから、心配のないようにお教えしてください」と、お許し申し上げなさる。姫宮よりも、明石の君が気の張る様子で控えているだろうことをお思いになると、御髪を洗い身づくろいしていらっしゃる姿は、世にまたとあるまいとお見えになった。
 大殿は、宮の御方においでになって、
「夕方、あちらの対にいます人が、淑景舎の御方にお目にかかろうと出て参りますその機会に、お近づき申し上げたいように申しておりますようなので、お許しになって会って下さい。気立てなどはとてもよい方です。まだ若々しくて、お遊び相手として不似合いでなく思われます」などと、申し上げなさる。
「気が張りそうです。何をお話し申しましょう」と、おっとりとおっしゃる。
「お返事は、あちらの言うことに応じて考えつかれるのがよいでしょう。他人行儀なおあしらいはなさいますな」と、こまごまとお教え申し上げなさる。

「二人が仲好くきちんとお暮らしになって欲しい」とお思いになる。
 あまりに無邪気なご様子を見られてしまってもきまり悪く面白くないが、あのようにおっしゃるお気持ちを、「止めだてするのも感心しない」と、お思いになるのであった。


《「桐壺の御方」は、明石の姫君、今は女御になって、昔源氏がいた桐壺を頂いています。寵愛が深いらしく里下がりもできないでいるうちに、夏になって体調を崩したと思ったら、めでたく懐妊ということなのでした。もっとも彼女は今まだ十二歳です。「まだとても若すぎるお年なので、たいそう心配なことと、どなたもがお思いのようである」のは、無理もありません。

ともあれ、それでやっと里下がりのお許しが出ました。寝殿の東側、女三の宮の隣が部屋になります。

対の上(紫の上)が久々の女御に会いに来て、そのついでに女三の宮に挨拶をしたいと源氏に言うのですが、自分の悲しみを隠しての見事な挨拶です。

源氏はもちろん大喜びで女三の宮に伝えて、それを許しました。と言っても、「あまりに無邪気なご様子を見られてしまってもきまり悪く面白くない」、つまり、こんな人を迎えたのかと紫の上に笑われるのではないか、という一抹の不安があったというのが、おかしく、一方、結局自分のことへの心配だけで、紫の上の悲しみへの思いやりが無くて、いかにも地上の人ですが。

紫の上は、「姫宮よりも、明石の君(御方)が気の張る」思いだったと言います。初対面の時から「なるほど(源氏が大切にしたのも)もっともだと、目を見張る思い」(藤裏葉の巻第二章第四段)を持った人ですから無理もありません。

紫の上が人として自分と対等だと認めたのは、この人だけです。地位の上では中宮が身近にいるのですが、義娘ということもあって、風流を競うことはあっても対等と思っているとは思われない感じです。

ところがこの人については、地位的に圧倒的に優位であるにもかかわらず、そのように公平に見ることができるというのは、素晴らしいことのように思われます。

女御に離れず世話している、その人と会わずにはすまないので、紫の上は髪を洗いました。「髪を洗うのも当時はたいへんである。一年の中陰陽道の説で洗髪してはいけない日が数多くある。それ以外の日を選ぶのもむつかしいし、その手間もたいへん」(『評釈』)で、つまり彼女は大変な身支度をして、気合いを入れてそれに臨んだということのようです。

相手を認めている分、源氏の寵が衰えているという不安を内心に持つ彼女としては余計に気合いが入るわけで、なかなか微妙な関係ですが、こういう緊張感は読んでいて、切なくも気分のいいものです。御方の方も変わらぬ敬意から同じような緊張感でいるのだろう思われて、ベテラン大女優同士が顔を合わせるといったところです。

一方で女三の宮の方は、紫の上に対して相当プレッシャーを感じていて、それを源氏が自分のために一所懸命に後押ししている、といった趣です。》


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