源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第五章 光る源氏の物語(二)

第四段 暁に玉鬘帰る

【現代語訳】

 唱歌の人々を御階に召して、美しい声ばかりで歌わせて、返り声に転じて行く。夜が更けて行くにつれて、楽器の調子など、親しみやすく変わって、「青柳」を演奏なさるころに、まったくねぐらの鴬が目を覚ますに違いないほど、大変に素晴らしい。私的な催しの形式になさって、禄などたいそう見事な物を用意なさっていた。

明け方に、尚侍の君はお帰りになる。御贈り物などがあるのだった。
「このように世を捨てたようにして毎日を送っていると、年月のたつのも気づかぬありさまだが、このように齢を数えて祝ってくださるにつけて、心細い気がする。
 時々は、前より年とったかどうか見比べにいらっしゃって下さいよ。このように老人の身の窮屈さから、思うままにお会いできないのも、まことに残念だ」などと申し上げなさって、しんみりとまた情趣深く、思い出しなさることがないでもないから、かえってちょっと顔を見せただけで、このように急いでお帰りになるのを、たいそう堪らなく残念だという思いにおなりなるのだった。
 尚侍の君も、実の親は親子の宿縁とお思い申し上げなさるだけで、世にも珍しく親切であったお気持ちの程を、年月とともに、このようにお身の上が落ち着きなさったにつけても、並々ならずありがたく感謝申し上げなさるのであった。

 

《「楽人などはお召しにならない」と前段にありましたが、「唱歌の人々」は集められていたようで、どういう違いがあるのだろうかと思われますが、ともあれ、楽しい集いの裡に源氏の四十の賀が終わります。

が、ここで『評釈』が「ところが、本当のところ、私たちはこの宴の模様を聞いて最初『おや』と思った」と言います。「なぜなら、前奏『藤裏葉』の巻の…『朝廷をお始め申して、大変な世を挙げてのご準備である』という予告(第三章第一段)から、さぞかし盛大な宴が催されるであろうという期待していた私たちだった」。しかし実際はそういう華やかさはまったくなく、内容は充実していたとはいえ、内輪のお祝いで終わりました。

確かに、あれだけの準備がされていたのですから、いくら「厳めしい儀式は、昔からお嫌いなご性分」(第五章第一段)であったにしても(実はこれまであまりそういう感じはしないのですが)、また「朱雀院の御病気」(同第二段)のことがあるにしても、それだけの理由で直前になって朝廷からのお祝いの話がまったく取りやめになってしまったというのは、確かに少し意外ではあります。

しかし逆にそれによって、源氏の謙虚さが現れるとも言えるでしょう。と言うよりも、作者は実はそのことを言いたかったのかもしれません。それでも、公的祝いがあったのにまさるとも劣らない祝いができたのだ、と源氏を讃えることになったわけです。

「私的な催しの形式になさって、禄など…」とは、縮小したように聞こえますが、実は「準太上天皇としては規定があって、自由にならないからである」(『集成』)と言いますから、逆に、規定を越えた禄などが与えられたという意味のようで、結局あくまでも源氏の権勢を引き立てる形で宴は終わります。

玉鬘が、源氏に感謝の意を抱きなが帰っていきます。源氏はいまだに心を残しているようでが、しかし、事態は、玉鬘の問題ではない方に展開します。彼女も、ここではまだ定かではありませんが、実は若菜上下巻の物語上の方向性を暗示するという大役(それは若菜下の巻の終わり間近でふり返って触れることにします)を務めて、舞台から下がっていきます。》

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第三段 管弦の遊び催す

【現代語訳】

 朱雀院の御病気がまだすっかり良くおなりでないことから、楽人などはお召しにならない。管楽器などは、太政大臣がそちらの方はご用意になって、
「世の中に、この御賀より他に立派で善美を尽くすような催しはまたとあるまい」とおっしゃって、優れた楽器ばかりを以前からご準備なさっていたので、内輪の方々で管弦のお遊びが催される。
 それぞれ演奏する楽器の中で、和琴は、あの太政大臣が第一にご秘蔵なさっていた御琴である。このような名人が日頃入念に弾き馴らしていらっしゃる音色は、またとないほどで、他の人は弾きにくくなさるので、衛門督が固く辞退しているのを催促なさると、さすがに実に見事に、少しも父親に負けないほどに弾く。「何事も、名人の後継と言っても、これほどにはとても継ぐことはできないものだ」と、奥ゆかしく感心なことに人々はお思いになる。それぞれの調子に従って、

楽譜の整っている弾き方や、決まった型のある中国伝来の曲目は、かえって習い方もはっきりしているが、気分にまかせて、ただ掻き合わせるすが掻きに、すべての楽器の音色が一つになっていくのは、見事に素晴らしく、不思議なまでに響き合う。
 父大臣は、琴の緒をとても緩く張って、たいそう低い調子で奏でて、余韻を多く響かせて掻き鳴らしなさる。こちらは、たいそう明るく高い調子で、親しみのある朗らかさなので、「とてもこんなにまでとは知らなかった」と、親王たちはびっくりなさる。
 琴は兵部卿宮がお弾きになる。この御琴は宜陽殿の御物で、代々に第一の評判のあった御琴を、故院の晩年に一品宮がお嗜みがおありであったので御下賜なさったのを、この御賀の善美を尽しなさろうとして、大臣が願い出て賜ったという、次々の伝来をお思いになると、実にしみじみと、昔のこと恋しくお思い出しになる。
 親王も酔い泣きを抑えることがおできにならない。ご心中をお察しになって、琴は御前にお譲り申し上げなさる。感興にじっとしていらっしゃられず、珍しい曲目を一曲だけお弾きなさると、儀式ばった仰々しさはないけれども、この上なく素晴らしい夜のお遊びである。
 

《こういう場面を、当時の読者はどういう思いで読んだのでしょうか。ここで描かれる楽曲の様子をどのくらい実感しながら読めたのでしょうか。

「またとないほど」、「見事に素晴らしく、不思議なまでに」、「琴の緒をとても緩く張って、たいそう低い調子で」、「たいそう明るく高い調子で、親しみのある朗らかさなので」と至って抽象的な感じなのですが、これだけ書き続けても読んで貰える(場面の素晴らしさを理解して貰える)という確信が作者になくては書けないだろうと思うと、当時の女房たちの趣味の平均的なレベルの高さ、またその共有度の高さが偲ばる、というべきでしょうか。

さて、四十の賀の祝宴ですが、朱雀院の病のことに遠慮して管弦の遊びも「楽人などはお召しになら」ず、集まった人々だけの内輪のものとなります。しかし、もともと何においても専門家よりも高貴な人の技が珍重された時代です(花の宴の巻第一章第一段)から、源氏の周辺ではむしろこのほうがより多くの名演奏が期待できるというものです。

太政大臣親子が和琴の名手であることはすでに語られていました(常夏の巻第一章第四段1節、篝火の巻第三段)。

兵部卿は、例の蛍兵部卿。彼が弾いたのは「きんの琴。これは絃楽器の中で一番オーソドックスなもので、中国から伝えられた」(『評釈』)と言います。彼は例の源氏の弟で、当代きっての風流人ですし、ましてここに出された琴は、代々の帝が相続されていたものだったものを桐壺帝が晩年に、「一品宮(桐壺院の皇女、母は弘徽殿の大后・『集成』)がお嗜みがおありであったので御下賜なさった」という深い由緒のある代物で、それを太政大臣が借りてきた(「大臣の北の方は、弘徽殿の大后の妹。その縁で願い出たのであろう」『集成』)というものでしたから、その演奏もまた見事なものだったにちがいありません。

卿も涙しながらの演奏で、源氏も父の思い出もあわせて感慨に胸を塞がれます。それを察して卿は、その琴を源氏の前にさし出すと、源氏もまた一曲を奏でます。

私的な催しですが、かくの如く素晴らしい管弦の遊びとなりました。》

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第二段 源氏、玉鬘と対面

【現代語訳】

 人々が参上などなさって、お座席にお出になるに当たり、尚侍の君とご対面がある。お心の中では、昔をお思い出しになることがさまざまとあったことであろう。
 実に若々しく美しくて、このように四十の御賀などということは、数え違いではないかと思われる様子が、優美で子を持つ親らしくなくいらっしゃるのを、久々に歳月を経て拝見なさるのはとても恥ずかしい思いがするが、やはり際立った隔てもなくお話をお交わしになる。
 幼い君も、とてもかわいらしくていらっしゃる。尚侍の君は、続いて二人もお目にかけたくないとおっしゃったが、大将が、せめてこのような機会に御覧に入れようと言って、二人同じように、振り分け髪の無邪気な直衣姿でいらっしゃる。
「年を取ることも、自分自身では特に気にもならず、ただ昔のままの若々しい様子で、変わることもないのだが、このような孫たちができたことで、きまりの悪いまでに年を取ったことを思い知られる時もあるのですね。
 中納言が早々と子をなしたというのに、仰々しく分け隔てして、まだ見せませんよ。誰より先に私の年を数えて祝ってくださった今日の子の日は、やはりつらく思われます。しばらくは老いを忘れてもいられたでしょうに」と申し上げなさる。

 尚侍の君もすっかり立派に年を重ねて、貫祿まで加わって、素晴らしいご様子でいらっしゃる。
「 若葉さす野辺の小松をひきつれてもとの岩根を祈る今日かな

(若葉が芽ぐむ野辺の小松を引き連れて、お育て下さった元の岩根を祝う今日の子の

日ですこと)」
と、努めて母親らしく申し上げなさる。沈の折敷を四つ用意して、御若菜を御祝儀ばかりに召し上がる。御杯をお取りになって、
「 小松原末のよはいにひかれてや野辺の若菜も年をつむべき

(小松原の将来のある齢にあやかって、野辺の若菜も長生きするでしょう)」
などと詠み交わしなさっているうちに、上達部が大勢南の廂の間にお着きになる。
 式部卿宮は参上しにくくお思いだったが、ご招待があったのに、このように親しい間柄で含みところがあるように取られるのも困るので、日が高くなってからお渡りになった。大将が、得意顔でこのようなご関係ですべて取り仕切っていらっしゃるのも、いかにも癪に障ることのようであるが、御孫の君たちはどちらからも縁続きゆえに、骨身を惜しまず雑用をなさっている。籠物四十枝、折櫃物四十、中納言をおはじめ申して、相当な方々ばかりが、次々に受け取って献上なさっていた。お杯が下されて、若菜の御羹をお召し上がりになる。御前には、沈の懸盤四つ、御坏類も好ましく現代風に作られていた。

 

《髭黒の左大将は、当然ながら一家でやって来ていました。さっそく玉鬘との対面があります。これも丸二年ぶりです(『集成』は三年ぶりの対面と注していますが、足かけで数えているのでしょうか。『集成』の年立てで玉鬘の出仕は一昨年の春となっています)。

源氏の若々しさは例の通りですが、玉鬘はすでに二児をもうけていて、二人もかわいらしい姿で義父の前に立ちました。

ところが、その時の源氏の挨拶はずいぶんひどいもののように聞こえます。

「私はまだ若いつもりでいるのだが、こうして孫を見せられると、年を自覚するしかないな。息子の夕霧は、ことさら(私を気遣ってだろう)子供を見せに来ないが、あなたにこのように年を数えての祝いをされると、ちょっといやになる。こんな事をしてくれなければ、もうしばらく若いつもりでいられたのに」と、そんな嫌みに聞こえます。

挨拶の場面ですから、大将も同席しているのではないかと思われますが、源氏としては照れ隠しの軽口というような気持なのでしょうか。当の子供もいるのですから、もうちょっと穏やかに言えそうなものだという気がします。『評釈』は玉鬘に対する間接的な慕情の表現と読んでいるようですが…。

続く、「尚侍の君もすっかり立派に年を重ねて」の「も」は、源氏と並べたのではなく、子供二人が立派だということに並べて言ったのでしょう。

その彼女の歌は、源氏の言葉をさらりとかわして、今日はあなたのお孫を見ていただきたつ、連れて来ましたと、「母親」の立場を強調したものでした。「努めて」と言った所以でしょうか。その上でのこういう話の躱し方が、この人を「女性の心の持ち方としては、この姫君を手本にすべきだ」(藤袴の巻末)とする所以なのでしょう。

そう言われると、源氏も引き下がるしかなく、「その子にあやかって私も長生きできよう」と、普通のお祖父さんになるしかないのでした。

この巻の名は、ここの源氏の歌によるとされ、また次の巻も再び若菜が小道具として使われることで、上・下巻とされていることについて『光る』が、「丸谷・男の老いをこれほど華やかに、そして皮肉に言う題は王朝風俗のなかで探してもほかに見あたらない」と言っていて、確かに、考えてみると、老人がもはやかなうはずもない若返りの願いを抱きながら若菜汁をすすっている図は、なかなかにすさまじいものがあります。

ほとんどの巻名は、この後も含めて格別な意味があるようには思われませんが、これと最後の「夢の浮き橋」は、さまざまなことを思わせる名前だという気がします。

ともあれ、源氏が「厳めしい儀式は、昔からお好みにならないご性分であるから、皆ご辞退申し上げなさ」っていた四十の賀が、こうして愛娘の嬉しいわがまま、という形でのサプライズによって強行されて、それが突破口となったのでしょう、彼は後に、紫の上、中宮、そして勅命での賀と、すべての賀を受け入れることになります。》

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第一段 玉鬘、源氏に若菜を献ず

【現代語訳】

 年も改まった。朱雀院におかれては、姫宮が六条院にお移りになる御準備をなさる。ご求婚申し上げなさっていた方々は、たいそう残念にお嘆きになる。帝におかせられてもお気持ちがあって、お申し入れしていらっしゃるうちに、このような御決定をお耳にあそばして、お諦めになったのであった。
 それはそれとして、実は今年、四十歳におなりになったので、その御賀のことを朝廷でもお聞き流しなさらず、世を挙げての行事として早くから評判になっていたが、いろいろと煩わしいことが多い厳めしい儀式は、昔からお好みにならないご性分であるから、皆ご辞退申し上げなさる。
 正月二十三日は、子の日で、左大将殿の北の方が、若菜を献上なさる。前もってその気配さえもお漏らしにならず、とてもたいそう内密にご準備なさっていたので、急な事で、ご意見してご辞退申し上げることもできない。内々にではあるが、あれほどのご威勢なので、ご訪問の作法などたいそう騷ぎが格別である。
 南の御殿の西の放出に御座席を設ける。屏風、壁代をはじめとして、新しくすっかり取り替えられている。儀式ばって椅子などは立てず、御地敷四十枚、御褥、脇息など、総じてその道具類は、たいそう美しく整えさせていらっしゃった。
 螺鈿の御厨子二揃いに御衣箱四つを置いて、夏冬の御装束、香壺、薬の箱、御硯、ゆする坏、掻上の箱などのような物を、目立たない所に贅美を尽くしていらっしゃった。御插頭の台としては、沈や紫檀を材として作り、珍しい紋様を凝らし、同じ金属製品でも、色を使いこなしているところは、趣があり現代風で、尚侍の君は風雅の心が深く才気のある方なので、目新しい形に整えなさっていたが、儀式全般のこととしては格別に仰々しくないようにしてある。

 

《年が改まり、姫宮の降嫁が決まって、それだけでもめでたい(不安はあるにしても)のに、そこに源氏の四十の賀まで加わります。

 その祝いは「世を挙げての行事として、早くから評判であった」のですが、しかし源氏はその全てを断っていました。「いつも言うように、源氏自身は派手になることを好まない。と言っても、…(そうなったのは)近来のことであろう。昇る所まで上りつめた源氏の贅沢であろう」(『評釈』)と思われます。

ところが、正月の子の日、「左大将殿の北の方」玉鬘が若菜を持ってやって来ます。「正月子の日に若菜を摘み、人に贈る風習があった。羮にして食べ、不老長生を願う」(『集成』)ということがあったのですが、これは玉鬘が娘としての四十歳の祝賀だったのです。その日まで伏せておいてのサプライズだったので、源氏も断ることができません。持ってきたのは若菜だけではありません。添えられた贈り物は、例によって大変なものです。

初め、源氏が全ての祝賀を断ったのは、彼の謙虚さを示して彼の価値を高めますが、本当に何もなかったのでは、彼の声望もそこまでということになります。それでも、と押して祝う人があることによって、初めてさすがということになります。その役目として、離れている玉鬘は格好の役回りです。娘が祝うなら、中宮も有資格者ですが、源氏が朝廷にお断りを入れていたので、動きにくかったということでしょうか。

玉鬘が宮中から髭黒邸に移ってちょうど二年、「尚侍の君は、風雅の心が深く、才気のある方なので…」と、この人もすっかり貴婦人としての振る舞いを身につけたようで、立派な品々をたくさん揃えながら、なお源氏の意向を入れて「格別に仰々しくないようにしてある」のでした。》

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