源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

巻三十二 梅枝

第三段 夕霧と雲居の雁の仲

【現代語訳】
 このようなご教訓に従って、夕霧は冗談にも他の女に心を移すようなことは、かわいそうなことだと、自分からお思いになっている。

女君も、いつもより格別に大臣が思い嘆いていらっしゃるご様子に、顔向けのできない思いで、つらい身の上と悲観していらっしゃるが、表面はさりげなくおっとりとして、物思いに沈んでお過ごしになっている。
 お手紙は、我慢しきれない時々に、しみじみと深い思いをこめて書いて差し上げなさる。「誰がまことをか(手紙の言葉だけかもしれないとは思っても、この人の他に誰の誠実を信じたらよいのか)」と思いながら、恋の道に馴れた女ならば、むやみに男の心を疑うであろうが、しみじみと御覧になる文句が多いのであった。
「中務宮が、大殿のご内意をも伺って、そのようにもと、お約束なさっているそうです」 と女房が申し上げたので、大臣は改めてお胸がつぶれることであろう。こっそりと、
「こういうことを聞いた。薄情なお心の方であったな。大臣が口添えなさったのに、強情だというので、他へ持って行かれたのだろう。気弱になって降参しても、人に笑われることだろうし」などと、涙を浮かべておっしゃるので、姫君は、とても顔も向けられない思いでいるにつけても、何とはなしに涙がこぼれるので、体裁悪く思って後ろを向いていらっしゃる、そのかわいらしさはこの上もない。
「どうしよう。やはりこちらから申し出て、先方の意向を聞いてみようか」などと、お気持ちも迷ってお立ちになった後も、そのまま端近くに物思いに沈んでいらっしゃる。
「妙に、思いがけず流れ出てしまった涙だこと。どのようにお思いになったかしら」などと、あれこれと思案なさっているところに、お手紙がある。それでもやはり御覧になる。愛情のこもったお手紙で、
「 つれなさは憂き世の常になりゆくを忘れぬ人や人にことなる

(あなたの冷たいお心は、つらいこの世の習いでいつものこととなって行きますが、

それでもあなたを忘れない私は世間の人と違っているのでしょうか)」
とある。「噂のことをそぶりにも仄めかさない、冷たいお方だわ」と、思い続けなさるのはつらいけれども、
「 限りとて忘れがたきを忘るるもこや世になびく心なるらむ

(もうこれまでだと、忘れないとおっしゃる私のことを忘れるのは、あなたのお心も

この世の人心なのでしょう)」
とあるのを、「妙だな」と、下にも置かれず、首をかしげながらじっと座ったまま手紙を御覧になっていた。

 

《やはり夕霧はまじめな人で、「恋愛遊戯に耽った好色者」(『構想と鑑賞』)の父からの説教をまともに聞いていたようです。そして彼は、今も一途に雲居の雁を思い続けています。

そして雲居の雁の方も、純情に二つ年下の夕霧を思い続けていました。彼女はまた、父が思い悩んでいる姿を見て、自分が過ちを犯したせいだと考えて、期待に添えず申し訳ないと思うような孝行娘でもあります。

そんなところに、内大臣お付きの女房が、夕霧が他の姫と結婚するらしいという噂を持ち込んだりして、父親の心を波立てます。この人も、黙って善処すればよいものを、嘆きのあまりに姫に話したりしますから、姫はますます身の置き所のない思いです。なにやらこの内大臣の舅、源氏と朧月夜の密会を発見した時の右大臣(賢木の巻第七章第二段)のような案配です。

しかし姫は、またその恥じ入っている様子が「かわいらしさはこの上もない」と、作者は絶賛します。

大臣は、やはり自分が頭を下げるしかないかと思いながら、その踏ん切りが付かないまま、出て行き、残った姫は、心変わりしたらしい夕霧を恨んで、一人溜息をついています。

思い乱れている姫の所に、夕霧から手紙が届きました。恨めしいながら、それでも開いてみると、私のあなたへの思いは決して並々のものではないことを分かって下さい、とあって、もちろん例の中務宮の話など書かれてはいません。

姫は、まあ、しらばっくれて、と不愉快に思って、どこが並々でないのでしょうか、じゅうぶん並の浮気なお心であることです、と嫌みな返事を返しました。

なにやら、気持が行き違って、好くない雲行きです。『評釈』は、「二人の話も、片がつきそうな、予感がする」と鑑賞を結びますが、なかなか思わせぶりな夕霧の所作で巻が閉じられます。》

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第二段 源氏、夕霧に結婚の教訓

【現代語訳】

 大臣は、「妙に身の固まらないことだ」と、ご心配になって、
「あちらの姫君のことを思い切ってしまったのなら、右大臣や中務宮などが娘を縁づけたいご意向であるらしいから、どちらなりとも決めなさい」とおっしゃるが、何ともお返事申し上げず、恐縮したご様子でいらっしゃる。
「このようなことは、恐れ多い父帝の御教訓でさえ従おうという気にもならなかったのだから、口をさしはさみにくいが、今考えてみると、あの御教訓こそは今にも通じるものだった。
 独身でいると、何か考えがあるのかと世間の人も憶測するだろうが、また宿縁の導くままに、平凡な身分の女との結婚に結局落ち着くことになるのは、たいそう尻すぼまりで、みっともないことだ。
 ひどく高望みしても思うようにならず限界があるものだが、浮気心は起こされるな。

幼い時から宮中で成人して、思い通りに動けず窮屈で、ちょっとした過ちもあったら、軽率の非難を受けようかと慎重にしていたのでさえ、それでもやはり好色がましい非難を受けて、世間から冷たく見られたものだ。
 位階が低く気楽な身分だが、油断して、思いのままの行動などなさるな。気持がいつのまにか思い上がってしまうと、好色心を抑えるべき妻子がいない時、女性関係のことで、賢明な人が、昔も失敗した例があったのだ。
 けしからぬことに熱中して、相手の浮名を立て、自分も恨まれるのは、後世の妨げとなるのだ。結婚に失敗したと思いながら共に暮らしている相手が、自分の理想通りでなく、我慢することのできない点があっても、やはり思い直す気を持って、あるいは女の親の心に免じて、あるいは親がいなくなって生活が不十分であっても人柄がいじらしく思われるような人は、その人柄一つを取柄として、お暮らしなさい。自分のため、相手のために、末長く添い遂げるような思慮が深くあって欲しいものだ」などと、のんびりとした所在のない時は、このような心づかいをしきりにお教えになる。

 

《一方源氏は、夕霧がいつまでも一人でいることを気遣って、結婚について教訓を垂れます。夕霧は、雲居の雁に対する考え方について、父に話していないようです。父親と長男の間の関係というのは特別なもので、こうした大切に思われる話も、なかなか話しあうということになりにくいようです。

 源氏は、自分の若かりし頃に帝から諭されたことを思い出して「口をさしはさみにくいが」と、いかにも物わかりのよいふうに語り始めます。年長者の教訓話のパターンです。

まず、「宮中で成人して…」と語り始めるのですが、読者からすれば、到底「慎重にしていた」とは思われない話で、笑って聞き過ごすしかありません。

そして源氏が語る、「ひどく高望みしても…」は藤壺が、また、「けしからぬことに熱中して…」は朧月夜の尚侍が思い出されます(『評釈』は六条御息所だと言いますが、彼女では「けしからぬ」にならないでしょう)。「結婚に失敗したと思いながら…」は末摘花との苦い経験が思い浮かびます。

夕霧は、「何ともお返事申し上げず、恐縮したご様子で」、ただ坐っています。読者からすれば、あなたに言われたくない、という気がしますが、さすがに夕霧にはそういう気持ちではないでしょうが、なかなか微妙な態度です。

途中、「ひどく高望みしても思うようにならず限界があるものだが、ちょっとした浮気心は起こされるな(原文・いみじう思ひのぼれど、心にしもかなはず、限りあるものから、すきずきしき心つかはるな)」の繋がりが、分かりにくく思われます。高い望みが叶わなくても、他に心を移さず願い続けよ、とも聞こえますが、そうではなくて、思いが叶わないからと言って、下手に他にはけ口を求めると、間違いを起こしやすいことを注意しているのでしょう。

『構想と鑑賞』は、「そのいうことはさすがによく、深く世の中のことを考えていて、肯綮に当たっている」と言いますが、男女の愛というのは、そういう枠からはみ出てしまうものであるから、大変なのです。こういう教訓は、結局年をとってからの「のんびりとした所在のない時」の感慨にすぎないものなのではないでしょうか。》

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第一段 内大臣家の近況

第三章 内大臣家の物語 夕霧と雲居雁の物語

【現代語訳】

 内大臣は、この入内の御準備を、他人事としてお聞きになるのもたいそう気が気でなく、つまらないとお思いになる。姫君のご様子は、女盛りに成長して、もったいないほどにかわいらしい。所在なげに塞ぎ込んでいらっしゃる様子は、たいへんなお嘆きの種であるが、あの方のご様子は、またいつも変わらず平気なので、

「弱気になってこちらから歩み寄るようなのも体裁が悪いし、相手が夢中だった時に、言うことを聞いしまっていたら」などと、一人お嘆きになって、一途に悪いと責めることもおできにならない。
 このように少し弱気になられたご様子を宰相の君はお聞きになるが、ひところ冷たかったお心を酷いと思うと、平気を装い、落ち着いた態度で、そうはいっても他の女をという考えお持ちにならず、自分から求めてやるせない思いをする時は多いが、「浅緑の六位」と申して馬鹿にした御乳母どもに、中納言に昇進した姿を見せてやろうとのお気持ちが強いのであろう。


《玉鬘が、本人や源氏の思惑はともかく、内大臣から見れば立派に片付き、今度は明石の姫君入内のことも順調に進んで、源氏方の姫君は次々に好ましく収まっていくのですが、それに比べて内大臣家の方では、愛娘・雲居の雁(と言っても、ずいぶん長く母・大宮に預けっぱなしだったのですが)が、どうにも収まりのつかない格好になってしまっています。

彼女は今、ちょうど二十歳、「女盛りに成長して、もったいないほどにかわいらしい」年頃で、遅くならないうちに立派な結婚をさせなくてはなりません。本当なら明石の姫君と入内を競わせたいところなのですが、夕霧とのことが起こってしまった以上、それはならないことです。

となるとあとは、夕霧に添わせるしかないのですが、夕霧が所望してくる気配がありません。思えば、自分が腹立ち紛れに二人の間を離してしまったので、必ずしも若い二人のせいばかりとも言えないような気がして、もし添わせるなら自分の方から頭を下げなくてはならいことになっていて、それも面白くない。内大臣はこのことに関して八方塞がりです。

一方の夕霧は、内大臣が焦っているというような情報も入っていて、二人の仲を引き裂かれたことへの意趣返しよろしく、ことさらに知らぬ顔で、内大臣が折れて出てくるのを待っています。

『評釈』が、「夕霧は今、宰相中将、もう一階上がれば中納言となる。中納言は従三位、束帯の袍は紫である」言います。彼には六年前、「浅緑」を軽蔑した乳母たち(少女の巻第五章第五段)を見返したい気持もあるのです。六年も待ったのです。読者としては雲居の雁がかわいそうな気がします(彼女が実際にはどう考えているのか、まったく書かれないのがちょっと残念です)が、夕霧にとっては、あとほんの少しの辛抱で完全勝利なのです。》

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第六段 古万葉集と古今和歌集

【現代語訳】

 今日はまた、書のことなどを一日中お話しになって、いろいろな継紙をした手本を何巻かお選び出しになった機会に、御子息の侍従を宮邸に所蔵の手本類を取りにおやりになる。
 嵯峨の帝が『古万葉集』を選んでお書かせあそばした四巻、延喜の帝が『古今和歌集』を、唐の浅縹の紙を継いで同じ色の濃い紋様の綺の表紙をつけ、同じ玉の軸とだんだら染に組んだ唐風の組紐などが優美で、巻ごとに御筆跡の書風を変えながら、あらゆる書の美をお書き尽くてお書きあそばしたのを、大殿油を低い台に燈して御覧になると、
「いつまで見ていても見飽きないものだ。最近の人は、ただ部分的に趣向を凝らしているだけにすぎない」などと、お誉めになる。そのままこれらはこちらに献上なさる。
「女の子などを持っていたにしましても、たいして見る目を持たない者には伝えたくないのですが、まして姫のいない我が家では埋もれてしまいますから」などと申し上げて差し上げなさる。

源氏は侍従に、唐の手本などの特に念入りに書いてあるのを沈の箱に入れて、立派な高麗笛を添えて、差し上げなさる。
 またこの頃は、ひたすら仮名の論評をなさって、世間で能書家だと聞こえたさまざまな人々にも、ふさわしい内容のものを見計らって、探し出してお書かせになる。この御箱には身分の低い者のはお入れにならず、特別にその人の家柄や地位を区別なさっては、冊子、巻物、すべてをお書かせ申し上げなさる。
 何もかも珍しい御宝物類、外国の朝廷でさえめったにないような物の中で、この数々の本を見たいと心を動かしなさる若い人たちが、世間に多いことであった。御絵画類をご準備なさる中で、あの『須磨の日記』は、子孫代々に伝えたいとお思いになるが、「もう少し世間がお分りになったら」とお思い返しになって、まだお取り出しにならない。

 

《書の話が弾んで、ということなのでしょうか、宮から新たに大変な贈り物がされます。嵯峨天皇の書かれた『古万葉集』(いわゆる『万葉集』二十巻)の抄出本四巻、それに延喜天皇の手になる『古今和歌集』、いずれも今なら最高級の国宝間違いなしと思われる珍品です。わざわざ息子を取りに帰らせたというのですから、贈り物として予定していたわけではなくて、話をしながらふと思いついたということなのでしょう。われわれ庶民とは違う感覚です。

「姫のいない我が家では埋もれてしまいます」と言っても、息子がいるのですから、それに譲ればよさそうなものですが、どういうことなのでしょうか。

源氏はさらに多くの書家を探し出して、さまざまなものを書かせました。それらは書の手本であると同時に、「冊子、巻物」を書かせた、とあるところを見ると、写本させたということなのでしょう。

さて、延々と語られてきた仮名文字の話がこれでどうやら一段落です。ここでは、さらにそこに絵画類が加えられて、こうして姫君の入内の準備が着々と進んでいきます。

が、その前にもう一つ残された別の課題がありました。》

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第五段 兵部卿宮、草子を持参

【現代語訳】

あの御依頼の冊子を持たせてお越しになったのであった。その場で御覧になると、さほど上手でもないご筆跡だが、ただ一筋にたいそう垢抜けした感じにお書きになっている。歌も、技巧を凝らして風変わりな古歌を選んで、わずか三行ほどに、文字を少なくして好ましく書いていらっしゃった。大臣は驚いて御覧になった。
「こんなにまで上手にお書きになるとは思いませんでした。まったく筆を投げ出してしまいたいほどですね」と、悔しがりなさる。
「このような名手の中で臆面もなく書く筆跡の具合は、いくら何でもさほどまずくはないと存じます」などと、冗談をおっしゃる。
 お書きになった冊子類を、お隠しすべきものでもないので、お取り出しになってお互いに御覧になる。
 唐の紙でたいそう堅い材質に、草仮名をお書きになっているのを、まことに結構であると御覧になるのだが、高麗の紙できめが細かで柔らかく優しい感じで、色彩などは派手でなく優美な感じのする紙に、おっとりした女手で、整然と心を配ってお書きになっているのが、喩えるものがない。
 御覧になる方の涙までが、筆跡に沿って流れるような感じがして、見飽きることのなさそうなところへ、さらに、わが国の紙屋院の色紙の色合いが派手なのに、乱れ書きの草仮名の和歌を、筆にまかせて散らし書きになさったのは、見るべき点が尽きないほどである。型にとらわれず自在に愛嬌があって、ずっと見ていたい気がしたので、他の物にはまったく目もおやりにならない。

 左衛門督は、仰々しくえらそうな書風ばかりを好んで書いているが、筆法の垢抜けしない感じで、技巧を凝らした感じである。和歌などもわざとらしい選び方をして書いていた。
 女君たちのはろくにお見せにならない。斎院のなどは、言うまでもなく取り出しもなさらないのであった。

葦手の冊子類が、それぞれに何となく趣があった。宰相中将のは、水の勢いを豊かに書いて、乱れ生えている葦の様子など、難波の浦に似てあちこちに入り混じって、たいそうすっきりした所がある。また、ぐっとはなやかに趣を変えて、字体、石などの様子を洒落てお書きになった紙もあるようだ。
「目も及ばぬ素晴らしさだ。これは手間のかかったにちがいない代物ですね」と、面白がりお誉めになる。どのようなことにも趣味を持って風流がりなさる宮なので、とてもたいそうお誉め申し上げなさる。

 

《兵部卿宮は頼まれていた自分の書を冊子にして持って来たのでした。源氏は大歓迎で、さっそく今日は書の談義です。

宮の書は「さほど上手でもないご筆跡だが、ただ一筋にたいそう垢抜けした感じ」だったと言いますが、源氏が「驚いて御覧に」なり、「悔しがりなさる」し、宮自身も自讃するほど、すばらしいものでした。

しかし私たちにはよく分からない言い方で、『評釈』が縷々語っています。「思いきったやり方、一般的に認められないやり方も、生まれのよい人がやると認められ、それで通るのである」と言います。我流でも、味があるという書き方を考えればいいのかも知れません。もっとも「書いていらっしゃった」は原文「書きなしたまへり」ですから、それも宮の本来の書き方ではなくて、源氏の期待がそういうところにあると承知して、敢えてそのように書き、その点において見事に書いて見せたということのようで、そうすると、「さほど上手でもない」のに「筆を投げ出してしまいたい」とまで絶賛する理由が理解できます。

源氏も自分の書いたのを持ち出して宮に見せます。こちらは本格的で、「喩えるものがない」ほどですが、その讃え方について『評釈』が「あとほど次第に大仰になる」と面白い点に注目しています。

宮はすっかり感心して、そこにはすでに依頼した人からのものがいくつか届いていたようですが、「他の物にはまったく目もおやりにならない」のでした。

左衞門督の書も届いていましたが、あまり好いものではなかったようで、作者としては前の二人のものとの比較で、さすがお二人は、というつもりなのでしょうが、かえって彼を選んだ源氏の見識にいささか疑問符がつきます。

「宰相中将、式部卿宮の兵衛督、内の大殿の頭中将など」に注文した「葦手や歌絵」(前段)の方は、それなりの出来だったようです。

「文字を少なくして」も面白いところで、「文字」を漢字ととって、万葉仮名を少なくしているという説と、文字一般ととって、漢字を表意文字として使って、という説(『集成』)とがあるようです。ただ、「漢字を表意文字として和歌に使うことは、つねに稀であった」(『評釈』)ようですから、前者の方かも知れません。》

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