【現代語訳】
内大臣は、この願いをお聞きになって、たいそう陽気にお笑いになって、女御の御方に参上なさった折に、
「どこですか、これ、近江の君。こちらに」とお呼びになると、
「はあい」と、とてもはっきりと答えて、出て来た。
「たいそうよくお仕えしているご様子は、公人として、なるほどどんなにか適任であろう。尚侍のことは、どうして私に早く言わなかったのですか」と、たいそう真面目な態度でおっしゃるので、とても嬉しく思って、
「そのようにご内意をいただきとうございましたが、こちらの女御様がいずれお伝え申し上げて下さるにちがいないと、精一杯期待しておりましたのに、なる予定の人がいらっしゃるようにお聞きしましたので、夢の中で金持になったような気がしまして、胸に手を置いたようでございます」とお答えなさる。その口ぶりはまことにはきはきしたものである。
笑ってしまいそうになるのを堪えて、
「たいそう変った、はっきりしないご気性だね。そのようにもおっしゃってくださったら、まず誰より先に奏上したでしょうに。太政大臣の姫君がどんなにご身分が高かろうとも、私が熱心にお願い申し上げることは、お聞き入れなさらぬことはありますまい。今からでも、申文をきちんと作って、立派に書き上げなさい。長歌などの趣向のあるのを御覧あそばしたら、きっとお捨て去りになることはありますまい。主上は、とりわけ風流を解する方でいらっしゃるから」などと、たいそううまくおだましになる。人の親らしくない、見苦しいことであるよ。
「和歌は下手ながら何とか作れましょう。表向きのことの方は、殿様からお申し上げ下されば、それに言葉を添えるようにして、お蔭を頂戴しましょう」と言って、両手を擦り合わせて申し上げていた。
御几帳の後ろなどにいて聞いている女房は、死にそうなほどおかしく思う。おかしさに我慢できない者は、すべり出して、ほっと息をつくのであった。女御もお顔が赤くなって、とても見苦しいと思っておいでであった。殿も、
「気分のむしゃくしゃする時は、近江の君を見ることによって、何かと気が紛れる」と言って、ただ笑い者にしていらっしゃるが、世間の人は、
「ご自分でも恥ずかしくて、ひどい目におあわせになる」などと、いろいろと言うのであった。
《内大臣は、近江の君が尚侍を希望しているという話を聞いて、重ねてからかいます。
「どうして私に早く言わなかったのですか」と言われた姫は、すっかりその気になって、自分の素朴な気持を真っ正直に、しかも「まことにはきはき」としています。
「精一杯期待しておりました(原文・頼みふくれてなむさぶらひつる)」、「夢の中で金持に…」は、ともに庶民的下賤の表現であろうとされます。
「それに対して内大臣は、あり得ない可能性を示して、気の利いた長歌などを作れば、あるいは、と「人の親らしくない、見苦しい」返事をしたのでした。
それでも姫はまったく疑うこともなく、正式の願い書は殿が書いて下されば(漢文で書くことになるからのようです)、あとは私が少し言葉を添えますから(これを『評釈』は「遠慮したのである。…へりくだって言う」と言いますが、逆に、内大臣の書いたものに言葉を添えるなど、余計なことではないかと思えるのですが)、「両手を擦り合わせて申し上げ」ます。これは、お願いの所作ではなく、もう実現したかのような喜びの所作ではないでしょうか。
世人の言葉として「ご自分でも恥ずかしくて、ひどい目におあわせになる」とあるのは、内大臣が、こういう姫を娘として引き取るはめになったことを恥じて、その気持の裏返し、いわば八つ当たり気味に嫌がらせをしている、ということのようで、内大臣を良しとしているわけではないようですが、と言って、作者が近江の君を、例えば一人の女性の生き方として好意的に描いているというのではなさそうです。
そうした内大臣と姫のやり取りは、陰で聞いている女房たちが「死にそうなほどおかしく思」っています。作者の立場は、この女房の立場であるわけで、作者は内大臣の意地悪な態度を「人の親らしくない、見苦しい」と言いながら、やはり一緒に笑っているのではないでしょうか。それは例えば、以前にも挙げましたが、『枕草子』二九四段(『集成』版)「僧都の乳母のままなど」に見られる女房の意地悪さに通じるもののように思われます。
この近江の君は、現代の私たちが読むと、確かに『構想と鑑賞』が言うように、「晴れやかで軽く、憎めない明るさ、善良さ」があり、「生新で溌剌として」いますが、だからといって『人物論』所収「落胤近江の君」(島田とよ子著)のように、「(晩年の紫の上のように)自由に自分の思いを言うことも出来ず、全く自主性を閉ざされている女の生き難さを思う時、近江の君の生き方が真面目に問い直されてくるだろう」といったふうに読むのは、あまりに現代的な読み方のように思われます。
やはりここは、とんでもない姫と手を焼く内大臣のやりとりを内大臣家のドタバタ劇として思い切り笑って、源氏の栄華を讃える形にして、この巻をめでたく終わらせようとしたのではないでしょうか。
そうした中で、作者の筆力が、たまたま現代にマッチした女性を造形したのでしょう。現代という時代は、かの時代から見れば、まったく呆れた下品な物知らずの、「死にそうなほどおかしく思」われる世界に違いないのです。》