源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第一章 玉鬘の物語(一)

第四段 源氏、玉鬘に宮仕えを勧める

【現代語訳】

 翌日、大臣は、西の対に、
「昨日、主上は拝見なさいましたか。あの件は、その気におなりでしょうか」と申し上げなさった。白い色紙に、たいそう親しげな手紙で、こまごまと色めいたことも含まれてないのが、素晴らしいのを御覧になって、
「いやなことを」とお笑いなさるものの、「よくも人の心を見抜いていらっしゃるわ」とお思いになる。お返事には、
「昨日は、
  うちきらし朝ぐもりせしみゆきにはさやかに空の光やは見し

(雪が散らついて朝の間の行幸では、はっきりと日の光は見えませんでした)
 はっきりしない御ことばかりで」とあるのを、紫の上も御覧になる。
「しかじかのことを勧めたのですが、中宮がああしていらっしゃるし、私の娘という扱いのままでは不都合でしょう。あの内大臣に知られても、弘徽殿の女御がまたあのようにいらっしゃるのだからなどと、思い悩んでいたようなのです。若い女性で、そのように親しくお仕えするのに誰かに気兼ねする必要がない者なら、主上をちらとでも拝見して、宮仕えを考えない者はないでしょう」とおっしゃると、
「あら、嫌ですわ。いくら御立派だと拝見しても、自分から進んで宮仕えを考えるなんて、とても出過ぎた考えでしょう」と言って、お笑いになる。
「さあ、そういうあなたこそ、きっと熱心になることでしょう」などとおっしゃって、改めてお返事に、
「 あかねさす光は空にくもらぬをなどてみゆきに目をきらしけむ

(日の光は曇りなく輝いていましたのに、どうして行幸の日に雪のために目を曇らせ

たのでしょう)
 やはり、ご決心なさい」などと、ひっきりなしにお勧めになる。

 

《源氏の言う「あの件」とは、この巻の第二段にあった、玉鬘の出仕のことでしょう。そうすると、彼女の行幸見物は、源氏のその計画遂行のための準備でもあったということになります。

ところで、「あの件」について、『評釈』は、「ここの源氏のことばを見ると、入内して妃となることのようである」と言い、『集成』は「尚侍として宮仕えすること」と言います。先の第二段のところでの玉鬘の反応は、確かに入内を言われているようにも思われるものでしたが、ここで源氏も紫の上も「宮仕え(原文・「宮仕へ」)」として返事をしているところを見ると、『集成』説の方がいいのでしょう。源氏の「中宮がああしていらっしゃるし、…」以下の心配は、姉が中宮(女御)で妹が尚侍というのはどうか、という問題もあるのではないでしょうか。

彼女はその手紙を見て、「『いやなことを(原文・あいなのことや)』とお笑いなさ」ったのでした。自分があの時いくらかその気になったことを、源氏に見透かされたと思ったのです。やはり紫の上の言葉にもあるように、自分から出仕に積極的な気持を見せるというのは、彼女にとっても出過ぎたことのように思われたのです。

返事は、帝をちゃんとは見ていないし、気持も「はっきりしない」という、曖昧なものでしたが、源氏はその返事を紫の上にも見せます。どうやら、源氏の気持ちが、老いらくの恋から、出仕させる方に決まってきたようで、やっと話が前に向かって進みそうです。》

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第三段 行幸、大原野に到着

【現代語訳】
 こうして、大原野に御到着あそばして、御輿を止め、上達部の平張の中で食事を召し上がり、御衣装を直衣や狩衣の装束にお改めになったりなさる時に、六条院からお酒やお菓子類などが献上された。今日供奉なさる予定だと、前もってご沙汰があったのだが、御物忌であることを奏上なさったのであった。
 蔵人で左衛門尉を御使者として、雉をつけた一枝をご下賜なさった。仰せ言にはどのようにあったか、そのような時のことを語るのは、わずらわしいことなので。
「 雪深き小塩の山にたつ雉の古きあとをも今日はたづねよ

(雪深い小塩山に飛び立つ雉の足跡を訪ねに、今日はいらっしゃればよかったのに)」
 太政大臣がこのような野の行幸に供奉なさった先例があったのであろうか。大臣は、御使者を恐縮しておもてなしなさる。
「 小塩山みゆきつもれる松原に今日ばかりなるあとやなからむ

(小塩山に深雪が積もった松原に、今日ほどの盛儀は先例がないでしょう)」
と、その当時に伝え聞いたことで、ところどころ思い出されるのは、聞き間違いがあるかもしれない。

 

《初めの一段落のことは『吏部王記』という古書(「りほうおうき」醍醐天皇の皇子重明親王の日記)にある故事を下敷きにした内容のようです。いわゆる「延喜の治」という聖代の故事の中に源氏を置くことで、彼の偉大さを表したということでしょうか。

 その源氏は、物忌みということでこの行幸には参加せず、盛大な差し入れをし、そして帝からは「雉をつけた一枝」がご下賜になりました。これも『九条右大臣集』(藤原師輔の家集)にある故事だそうで、この人は次の聖代「天暦の治」時代の人です。

帝の歌は「雪深き小塩の山にたつ雉の」が序詞で「古きあと」は行幸の先例があったことを言うようで、次の「先例があったのであろうか」は、作者がそれを知らない態で言っているわけです。

源氏の歌「今日ばかりなるあとやなからむ」を『評釈』が「自分の政治に自信満々」と評して、自分のことを詠んだ歌のように解していますが、普通に読めば、今日の行幸を讃えたものという気がします。

その『評釈』が、ここでこういう故事を表に出した書き方をしたことについて、「女の読者といえども、これらの行事について知っていることが、いつか役に立つことがある」から書いておいたのだ、と言っているのは、さもあることであろうと思われます。

作者の、自分はこういうことを知っているのだという得意な気持と、教えておいてあげようという気持ちの両方が感じられます。そしてその二つを「聞き間違いがあるかもしれない」と言うことでぼかしたあたり、ほほえましい気がします。》

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第二段 玉鬘、行幸を見物

【現代語訳】
 西の対の姫君もお出かけになった。大勢の我こそはと綺羅を尽くしていらっしゃる方々のご器量や様子を御覧になると、帝が赤色の御衣をお召しになって、凛々しく身じろぎもなさらない御横顔に、ご比肩申し上げる人もいない。
 わが父内大臣をこっそりとお気をつけて拝見なさったが、きらびやかで美しく、男盛りでいらっしゃるが、限りがあった。たいそう人よりは優れた臣下と見えて、御輿の中の方以外の人には、目が移りそうもない。
 ましてや、美男だとか素敵な方よなどと、若い女房たちが死ぬほど慕っている中将、少将、何とかいう殿上人などの人は、何ほどのこともなく目に入らないのは、まったく群を抜いていらっしゃるからなのであった。源氏の大臣のお顔の様子は、別人とはお見えにならないが、気のせいかもう少し威厳があって、恐れ多く立派である。
 そうしてみると、このような方はなかなかいらっしゃらないものなのだ。

身分の高い人は、皆美しく感じも格別よいはずのものとばかり、大臣や、中将などのお美しさに見慣れていたが、晴の場で見劣りしている者たちがまともでないのであろうか、同じ人の目鼻とも見えず、問題にならないほど圧倒されていることだ。
 兵部卿宮もいらっしゃる。右大将で、あれほど重々しく気取っている方も、今日の衣装はたいそう優美で、やなぐいなどを背負って供奉なさっている。色黒く鬚が多い感じに見えて、とても好感がもてない。どうして、化粧した顔の色に似たりしようか。とても無理なことなのに、お若い方の考えとて、軽蔑なさったのであった。
 大臣の君がお考えになっておっしゃることを、

「どうしたものか、宮仕えは、不本意なことで見苦しいことになるのではないかしら」と躊躇していらっしゃったが、

「帝の寵愛ということを離れて、一般の宮仕えをしてお目通りするならば、きっと結構なことであろう」という、気持ちにおなりだった。

 

《「西の対の姫君」は玉鬘で、彼女もこの大変な人出の中にやって来ていて、帝や、彼女と縁のあるまわり人々を、行列の中にまじまじと見たのでした。お目当ては何と言っても、もちろん見たことのない、帝と父の内大臣だったでしょう。帝はミーハー的に、内大臣は切実な関心を持って。

 しかし、彼女の評価は全く読者の予想の範囲でした。特に内大臣については、何と言っても実の親であり、あれほど会いたいと思っていた相手であるにもかかわらず、それが、帝と比べて見劣りするのは仕方がないとしても、「きらびやかで美しく、男盛りでいらっしゃるが、限りがあった」とあっさり見過ごされて、「御輿の中の方(帝)以外の人には、目が移りそうもない」ということで終わってしまったのは、あまりに冷静というか、よそ事的見方です。

長らく会えなかった娘が実の父親を初めて見て、その外見だけにしか思いを寄せないなどということはあり得ないことのように思われ、仮にそうだったとしても、それが今の保護者の源氏に劣っているとあれば、そのこと自体になにがしかの思いがあるはずだと思うのですが、それが全くありません。彼女の関心は、ということはまた作者の関心もまた、ですが、まるで「目鼻」の具合や、髭の問題だけといった趣です。

 ここまで読んできて思うのですが、この玉鬘という女性は、こんなに長い間物語の中心にいながら、実は何を考えているのか、どうもよく分からない人です。

実の父親に会いたいと思っているということと、源氏に言い寄られていやだと思いながら、それをこの頃では例えば孫がお小遣いをくれる祖父の相手をするように馴染んでいるということは分かりますが、それ以外に彼女の基本的な考え方、生き方といったものがほとんど伝わって来ず、単に、目の前で起こっていることに反応しているだけのように思われます。

それは、これまで登場した多くの魅力的な女性、藤壺、葵の上、紫の上、明石の御方などとは全く異なった点です。似ているように思われるのは夕顔ですが、彼女には一種の娼婦的な怪しさが感じられましたが、この人の場合は、それもなく、全くの人形という感じがします。

 『光る』が、「丸谷・私は『真木柱』と『玉鬘』はとてもいいと思うのですが、その途中は失敗だと思いますね。…だいたい長編小説の真ん中へんは大変なんです。ぼくの経験で言うと、彼女(作者)は十二指腸潰瘍くらいやっています」と言い、『構想と鑑賞』が「他の期に比して、構想・情調ともに弛緩しており、読んで倦怠感を覚える」と酷評していますが、それもこれも、この玉鬘という個性が生きていないことに拠るのではないかと、私には思われます。

 右大将は、後に髭黒の大将と呼ばれて、大きな役割を持つことになる人です。「行列中の男たちは普通化粧する」(『集成』)のだそうですが、髭があってはそれが出来ず、若い娘の目で見ると、むさいだけに見えたようで、彼女の目からは外されてしまいました。

そういう彼女に、源氏は出仕すること勧めたようです。彼女は、たまたま見かけることのできた帝に対して、他の后と張り合わねばならないのなら措くとしても、そういうことがなく、単に宮仕えだけなら面白そうだと思ったようです。

やはりどうもミーハー的に思われます。》

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第一段 大原野行幸

巻二十九 行幸 光る源氏の太政大臣時代三十六歳十二月から三十七歳二月までの物語

第一章 玉鬘の物語(一) 冷泉帝の大原野行幸

第一段 大原野行幸

第二段 玉鬘、行幸を見物

第三段 行幸、大原野に到着

第四段 源氏、玉鬘に宮仕えを勧める

第五段 玉鬘、裳着の準備

第二章 光源氏の物語 大宮に玉鬘の事を語る

第一段 源氏、三条宮を訪問

第二段 源氏と大宮との対話

第三段 源氏、大宮に玉鬘を語る

第四段 大宮、内大臣を招く

第五段 内大臣、三条宮邸に参上

第六段 源氏、内大臣と対面

第七段 源氏、内大臣、三条宮邸を辞去

第三章 玉鬘の物語(二) 裳着の物語

第一段 内大臣、源氏の意向に従う

第二段 玉鬘の裳着への祝儀の品々

第三段 常陸宮の祝儀

第四段 内大臣、腰結の役を勤める

第五段 祝賀者、多数参上

第六段 近江の君、玉鬘を羨む

第七段 内大臣、近江の君を愚弄

 

【現代語訳】
 このようにお考えの行き届かないことなく、何とかよい案はないかとご思案なさるが、あの「音無の滝(人目に隠した恋心)」のことが、困った気の毒なことなので、南の上のご想像通り、身分にふさわしくないご醜聞である。あの内大臣が、何ごとにつけても、はっきりさせ、少しでも中途半端なことを我慢できずにいらっしゃるようなご気性なので、

「そうなって誰はばからず、はっきりとしたお婿扱いなどなされたりしたら、世間の物笑いになるのではないか」などと、お考え直しになる。
 その年の十二月に、大原野の行幸とあって、世の中の人は一人残らず見物に騒ぐのを、六条院からも御婦人方が引き連ねて御見物になる。帝は朝六時に御出発になって、朱雀大路から五条大路を西の方にお折れになる。桂川の所まで見物の車がびっしり続いている。
 行幸といっても、必ずしもこのようではないのだが、今日は親王たちや上達部も、皆特別に御馬や鞍を整え、随身、馬副人の器量や背丈、衣装をそれぞれにお飾りになって、見事で美しい。左右の大臣、内大臣、大納言以下、いうまでもなく一人残らず行幸に供奉申し上げなさる。麹塵の袍に、葡萄染の下襲を、殿上人から五位六位までの人々が着ていた。
 雪がほんの少し降って、道中の空までが優美に見える。親王たち、上達部なども、鷹狩に携わっていらっしゃる方は、見事な狩のご装束類を用意していらっしゃる。近衛の鷹飼どもは、なおのこと見たことのない摺衣を思い思いに着て、その様子は格別である。

人々は素晴らしく美しい見物に競って出て来ては、大した身分でもなく、お粗末な脚の弱い車など、車輪を押しつぶされて、気の毒なのもある。浮き橋の辺りなどにも優美にあちこちする立派な車が多かった。

 

《源氏は、相変わらず玉鬘の婿選びを思案する一方、自分自身の気持ちもあって、内大臣のことを気にしながら、うじうじと思い惑っています。

そんな折り、大原野への冷泉帝の行幸(天皇のお出まし)が催されました。大原野は、洛北の大原ではなく、今の京都市西京区の大原野神社のあたり、この後半を見ると鷹狩りのようです。

鷹狩りは貴族には似つかわしくないような気がしますが、その歴史は古く、埴輪にもすでに手に鷹を乗せたものがあるそうです。

この度の鷹狩りは、とりわけ賑々しいもので、読んだ印象で言えば、宮中挙って出かけているような感じさえするものでした。

色とりどりに着飾った貴公子たちがうち揃っているところに「雪がほんの少し降って」いっそう興を添えます。

またその周辺には、見物人たちが、これまた立派な車を出す者までいて、大変な賑わいになっているのでした。「朱雀大路から五条大路を西の方…、桂川の所まで」と言いますからおよそ五キロあまり、「見物の車がびっしり続いて」いるといった光景です。

ところで、『評釈』が「大原野神社への行幸は、一条天皇の正暦四年(九九三)に始まる」として、作者はそれを見て知っていて、それを下敷きにして、内容的にはその昔、醍醐天皇の延長六年(九二八)の大原野行幸の例を模している、と言います。「この物語は、このように近い世のことを写さないのを常とする」(同)ことで、あくまでも「いづれの御時にか」(桐壺の巻冒頭)の物語であろうとするわけです。》

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