源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

巻二十八 野分

第三段 内大臣、大宮を訪う

【現代語訳】

 祖母宮のお側に参上なさると、静かにお勤めをなさっている。小綺麗にした若い女房などがこちらにもお仕えしているが、物腰や様子、衣装なども、栄華を極めている所とは比較にもならない。器量のよい尼君たちが、墨染の衣装で質素にしているのが、かえってこのような所では、またそれとしてしみじみとした感じがするのであった。
 内大臣も参上なさったので、御殿油などを灯して、のんびりとお話など申し上げなさる。

大宮が
「姫君に久しくお目にかからないのが情けないこと」とおっしゃって、ただひたすらお泣きになる。
「もうすぐこちらに参上させましょう。自分から心配事を作ってふさぎ込んでいまして、惜しいことに痩せてしまっているようです。女の子は、はっきり申せば、持つべきではございませんでした。何かにつけて心配ばかりさせられました」などと、依然として不快に思ってこだわっている様子でおっしゃるので、情けなくて、ぜひにとも申し上げなさらない。その話の折に、
「たいそう不出来な娘を持ちまして、手を焼いてしまいました」と、愚痴をおこぼしになって、にが笑いなさる。大宮が、
「まあ、変ですこと。あなたの娘という以上は、出来の悪いことがありましょうか」とおっしゃると、
「それが体裁の悪いことなのでございます。ぜひ、御覧に入れたいものです」と申し上げなさったとか。

 

《夕霧は、六条院から三条の宮の大宮のところにやってきます。そこは当然ながら六条院の女君たちの様子を見た目には、全く違った趣だったのでした。

六条院の女房たちがどれが主人かと思われるほどうつくしく、その中で主人の女君が、また抜きんでていたのに対して、こちらはせいぜい「小綺麗にした若い女房(原文・よろしき若人)」で、むしろ「墨染の衣装で質素にしている」「器量のよい尼君たち」の方が目立つような有様です。

さて夕霧はここまでで帰ったようで、「内大臣も参上なさったので」以下は、内大臣と大宮の二人の対話と考えるしかない内容です。

大宮の言う姫君は雲居の雁、内大臣は簡単に「もうすぐこちらに参上させましょう」と応えます。三人目の娘をもてあましたことで、彼の雲居の雁に対する厳しい考えも変えたのでしょうか。

「女の子は、はっきり申せば、持つべきではございませんでした」は、いかにも「少し男らしく事をはっきりさせたがるご気性」(少女の巻第三章第六段)の彼らしい愚痴です。

「心配ばかりさせられました」と言われれば、大宮は雲居の雁と夕霧のことで息子からひどく叱られたこと(少女の巻第四章第一段)を思い出さざるを得ず、それ以上は口が出せません。 

気まずく向かい合いながら、話は、内大臣の目下の悩みの種、近江の君のことになります。それを「ぜひ、御覧に入れたいものです」と結びます。「近江の君のほうを雲居の雁よりも先に送り込んでくるのではないだろうか」(『評釈』)という不安が湧きます。

こうしてこの巻は終わるのですが、『人物論』所収「雲居雁~立ち姿を見せた女」(福嶋昭治著)が、「野分の巻における夕霧の描かれ方は重要である。六条院を襲った野分は、…見舞いに訪れた夕霧の視線を通して六条院の栄華そのものにかげりの訪れることを読者に予感させる」と言います。「ここにおいて、第一世代つまり親である光源氏は、第二世代である子供の夕霧によって、…批判の対象たり得る相対化された存在にされてしまっている」(同)というわけですが、それが作者の意図とは思えないながら、少なくとも作者の複眼的視点の効果で、そういう変化が起こっているということは確かであるように思われます。》

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第二段 夕霧、明石姫君を垣間見る

【現代語訳】

 お戻りあそばすというので、女房たちがざわめき、几帳を元に直したりする。先ほど見た花のような二人の顔とも比べて見たくて、いつもは覗き見など関心のない人なのに、無理に妻戸の御簾に身体を入れて几帳の隙間を通して見ると、ちょうど物蔭からそっとお通りになるところが、ふと目に入る。女房が大勢行き来するので、細かいところは見えないので、たいそうじれったい。薄紫色のお召物に、髪はまだ背丈には届いていない末が広がったような感じで、たいそう細く小さい身体つきが可憐でいじらしい。
「一昨年ぐらいまでは、時々ちらっとお姿を拝見したが、またすっかり成長なさったようだ。まして盛りになったらどんなに美しいだろう」と思う。

「あの前に見た方々を、桜や山吹と言ったら、この方は藤の花と言うべきであろうか。木高い木から咲きかかって、風になびいている美しさは、このような感じだ」と思い比べられる。

「このような方々を、思いのままに毎日拝見していたいものだ。そうあってもよい身内の間柄なのに、事ごとに隔てを置いて厳しいのが恨めしいことだ」などと思うと、誠実な心も、何やら落ち着かない気がする。

《姫が紫の上のところから帰ってきます。

実は夕霧も、一昨年位前にはもう少し気軽に見ることができたようですが、この頃この姫を直接見る機会はなかったようで、今も「無理に妻戸の御簾に身体を入れて几帳の隙間を通して」でなくては、見ることができません。女の子の六歳と八歳はこのように違うということでしょうか。後見を期待されている妹だというのに、これほどの隔てが置かれるというのは、理解しがたい気がしますが、そういうものだったのでしょう。

「いつもは覗き見など関心のない人」という夕霧評も驚かされます。紫の上を垣間見た時も玉鬘の時も、十分関心がありそうでした。ここは一般の女性に関してのことであって、六条院の女君たちは別だということなのでしょうか。作者はこの人を生真面目な堅物というイメージで描こうとしています。

ともあれ、明石の姫君の姿が、こうして夕霧の目を通して、初めて読者の前に少し明らかになりました。それは「たいそう細く小さい身体つきが可憐でいじらしい(原文・いと細く小さき様体、らうたげに心苦し)」という具合で、いかにも少女らしい姿です。

彼は姫を、例によって花にたとえて、垂れ下がって揺れて咲いている藤の花だと見ながら、「このような方々を、思いのままに毎日拝見していたいものだ」と考えます。

しかし考えてみると、女性を、花を見るように見るというのは、ずいぶん子どもっぽい見方です。彼もまだ十五歳、当時でも思春期をちょっと越えた程度というところなのでしょうか。源氏は、と思って物語をふり返ってみると、ちょうどこの前後、十三歳から十六歳は桐壺の巻と帚木の巻の間で抜け落ちています。》

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第一段 夕霧、雲井雁に手紙を書く

【現代語訳】
 気疲れのする方々をお回りになるお供をして歩いて、中将は何となく気持ちが晴れず、書きたい手紙など、日が高くなってしまうのを心配しながら、明石の姫君のお部屋に参上なさる。
「まだあちらにおいでいらっしゃいます。風をお恐がりになって、今朝はお起きになれませんでしたこと」と、御乳母が申し上げる。
「ひどい荒れようでしたから、宿直しようと思いましたが、大宮がたいそう恐がっていらっしゃったものですから。お雛様の御殿は、いかがでいらっしゃいましたか」とお尋ねになると、女房たちは笑って、
「扇の風でさえ、吹いてくれば大変なことにお思いになっているのを、今にも壊されそうでございました。この御殿のお世話に、困りっております」などと話す。
「大げさでない紙はありませんか。お局の硯を」とお求めになると、御厨子に近寄って、紙一巻を、御硯箱の蓋に載せて差し上げたので、
「いや、これは恐れ多い」とおっしゃるが、北の御殿の世評を考えれば、そう気をつかうほどでもない気がして、手紙をお書きになる。
 紫の薄様の紙であった。墨はていねいにすって、筆先を見ながら念を入れて書いて、筆を休めていらっしゃる姿は、とても素晴らしい。けれども、妙に型にはまって、感心しない詠みぶりでいらっしゃった。
「 風騒ぎむら雲まがふ夕べにも忘るる間なく忘られぬ君

(風が騒いでむら雲が乱れる夕べにも、片時も忘れることのできないあなたです)」
 風に吹き乱れた刈萱にお付けになったので、女房たちは、
「交野の少将は、紙の色と同じ色の物に揃えましたよ」と申し上げる。
「それくらいの色も考えつかなかったな。どこの野の花を付けようか」などと、こんな女房たちにも、言葉少なに応対して気を許すふうもなく、とてもきまじめで気品がある。
 もう一通お書きになって右馬助にお渡しになると、美しい童やまたよく心得た御随身などにひそひそとささやいて渡すのを、若い女房たちは宛先をひどく知りたがっている。

 

《最後に残っていたもう一人の女性とは、八歳になった明石の姫君です。

一回りして東南の邸に源氏と一緒に帰ってきた夕霧は、感動したり、気骨が折れたり、また驚くべき光景を見たりで、思うことが色々あって、少々くたびれています。

それに、雲居の雁に手紙も書きたいのですが、それよりも先に明石の姫君の所にも顔出ししておかなければと、源氏のそばを離れて、寝殿西面の姫の部屋にやってきました。

源氏から、将来兄という立場からこの姫の後見役をするように、ということで、「南面の御簾の内側に入ることはお許しになっていた」(蛍の巻第三章第四段)のだったので、まじめな彼が、「お雛様の御殿は」などと、珍しく軽口をきくような、気楽に出入りできるところなのです(姫の人形遊びの相手をしていたことが、同じ所に書かれていました)。

しかし姫はまだ「あちら」(寝殿の東面、紫の上の所)に行って、留守でした。昨夜は風におびえて、向こうで寝たのでしょうか。

夕霧は手紙を書こうと、女房に紙と硯を求めます。彼は「お局の硯を」と頼んだのです(「局」は女房の部屋です)が、女房は「御厨子に近寄って」、つまり姫の硯と紙をもってきたのでした。相手が源氏の御曹司だからそうしたのでしょうか。夕霧は、一旦は「恐れ多い」と思ったのですが、「北の御殿の世評を考えれば、そう気をつかうほどでもない気がして」、それを使うことにします。仮に東の邸なら、取り替えさせたということでしょうか。

初めから女房のものを持って来たということにしても物語としては何の問題もなかったのですが、作者がことさらに姫のものを持って来させることにして、夕霧にそういう屈折した思いを抱かせたことで、夕霧のリアリステイックな一面が、ちらりと描かれました。

何も思わずに使えば、鷹揚か無神経か傲慢です。彼は若者らしく、源氏の嫡男である自分と父の御方である相手の位置を計っているのです。

「お局の硯を」と一応謙遜しておきながら、そういう計算をして姫のものを使う、こういうところが、この人を若く、悪くいえばちょっと小さく見せます。

彼はいろいろに思案しながら手紙を書きます。その姿は「とても素晴らしい」のですが、肝心の手紙を付ける花の小枝を選び損ねて、女房に注意されてしまいます。彼は大変まじめで、マメな人なのですが、こういう点でも、また今一歩、気持の入らないところがあるのです。まじめな若者に時々見られるタイプ、という気がします。》

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第五段 源氏、花散里を見舞う


【現代語訳】
 東の御方へここからお渡りになる。今朝の寒さのせいでの家事仕事であろうか、裁縫などをする老女房たちが御前に大勢いて、細櫃らしい物に真綿をひっかけて延ばしている若い女房たちもいる。とても美しい朽葉色の羅や、今風でみごとに艶出ししたのなどを、ひき散らかしていらっしゃった。
「中将の下襲ですか。宮中での壺前栽の宴もきっと中止になっているでしょう。このように吹き散らしたのでは、何の催し事ができようか。興ざめな秋になりそうだ」などとおっしゃって、何の着物であろうか、さまざまな衣装の色がとても美しいので、

「このような技術は南の上にも負けない」とお思いになる。御直衣は、花文綾を、近頃摘んできた花で薄く染め出しなさったのは、たいそう申し分ない色をしていた。
「中将にこそ、このようなのをお着せなさるがよい。若い人の直衣として無難でしょう」 などというようなことを申し上げなさって、お渡りになった。


《さて、東南の邸・紫の上の所から時計回りに六条院の女性たちを見舞って、一回りの終わりは花散里です。

ここでは、庭の様子などは語られず、彼女の家事の取り仕切りの見事さが中心です。秋の嵐が過ぎたとなると、もうすぐ冬へ季節が変わることを思えば、ここでは早速冬の衣類の準備のようです。

たくさんの美しい衣類が並べられていますが、どうやらその染色は花散里のしたもののようで、「このような技術は南の上(紫の上)にも負けない」と源氏が思うような、見事な出来映えでした。こういう女性がいると、男は安心です。

東南の邸でのむつまじい姿、西南の邸での公的な姿(庭の様子以外はあまり多くのことが書かれなかったのは、女性の立場で中宮という公人を描くことを遠慮させたのでしょうか)、西北の邸のひんやりとした気品の姿、それと対照的な先の西の対での戯れの姿、そしてここでの実務の姿と、実にさまざまに描き分けられて、夕霧はその案内の役目を終えました。

源氏は東南の邸に帰ります。夕霧も同行します。そして実は、もう一人女性が残っていたのでした。》にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

 

第四段 夕霧、源氏と玉鬘を垣間見る

【現代語訳】
 中将は、たいそう親しげにお話し申し上げていらっしゃるのを、「何とかこの姫君のご器量を見たいものだ」と思い続けていたので、隅の間の御簾が、几帳は立ててあったがきちんとしていなかったので、そっと引き上げて中を見ると、じゃまになる物が片づけてあったので、たいそうよく見える。このように戯れていらっしゃる様子がはっきりわかるので、「おかしなことだ。親子とは申せ、このように懐に抱かれるほど馴れ馴れしくしてよいものだろうか」と目がとまった。

「お見つけになるのではないか」と恐ろしいけれども、不思議さに驚いて、なおも見ていると、柱の陰に少し隠れていらっしゃったのを、引き寄せなさると、御髪が横になびいて、はらはらとこぼれかかったところは、女君も、とても嫌でつらいと思っていらっしゃる様子ながら、それでも穏やかな態度で、寄り掛かっていらっしゃるのは、

「すっかり親密なのであろう。いやはや、ああひどい。どうしたことだろう。抜け目なくいらっしゃるご性分だから、最初からお育てにならなかった娘には、このようなお気持ちもお添いになるのだろう。もっともなことだが。ああ、嫌だ」と思う心も気恥ずかしい。

「女君のご様子は、なるほど姉弟とはいっても少し縁遠くて、異母姉弟なのだなどと思うと、どうして、心得違いを起こさないだろうか」と思われる。
 昨日拝見した方のご様子には劣って見えるが、一目見れば自然に笑みが出るところは、肩も並べられそうに見える。八重山吹の花が咲き乱れた盛りに、露の置いた夕映えが思い浮かべられる。季節に合わないたとえだが、それでも感じたままである。花は限りがあって、乱れた蘂などが混じっていることもあるが、姫君のお姿の美しさは、たとえようもないものなのであった。
 御前には女房も出て来ず、たいそう親密に小声で話し合っていらっしゃったが、どうしたのであろうか、真面目な顔つきでお立ち上がりになる。女君は、
「 吹き乱る風のけしきに女郎花しをれしぬべきここちこそすれ

(吹き乱す風のせいで女郎花は萎れてしまいそうな気持ちがいたします)」
 はっきりとは聞こえないが、お口ずさみになるのをかすかに聞くと、憎らしい気がする一方で興味がわくので、やはり最後まで見届けたいが、「近くにいたなと悟られ申すまい」と思って、立ち去った。お返歌は、
「 した露になびかましかば女郎花荒き風にはしをれざらまし

(下葉の露になびいたならば、女郎花は荒い風には萎れないでしょうに)
 なよ竹を御覧なさい」などと、聞き間違いであろうか、あまり聞きよい歌ではない。

 

《源氏が玉鬘にどこまで本気かよく分からない口説きをしている様子を、夕霧が覗き見していました。彼は明石の御方の邸では姿を見せませんでしたが、やはり一緒について歩いていたようです。

源氏と玉鬘の様子を「戯れていらっしゃる様子」と訳しましたが、原文も「たはぶれたまふけしき」とあります。『評釈』は「ふざけていらっしゃる」、『集成』は「冗談をおっしゃる」と言います。いずれにしても、色事めいたじゃれあいの域を出ない理解でいいようです。

それにしても、夕霧が「懐に抱かれるほど馴れ馴れしくして(原文・懐離れず、もの近かべきほど)」と言っているのは、あまりのことに驚きです。諸注、これは実際にそうしていたということととっているようですが、次ぎに「柱の陰に少し隠れていらっしゃったのを、引き寄せなさる」とありますから、ここは比喩的な表現ではないでしょうか。実際は「穏やかな態度で、寄り掛かっていらっしゃる」というところではないでしょうか(それでも、この二人の父娘という間柄ではかなり「馴れ馴れし」いとは思われますが)。

夕霧はそういう様子を見ながら、玉鬘の美しさに、「八重山吹の花が咲き乱れた盛りに、露の置いた夕映えのようだ」と目を奪われました。こういう情景に喩えた美人の形容は、同じ夕霧が紫の上を覗き見た時の「春の曙の霞の間から、美しい樺桜が咲き乱れているのを見る感じがする」(第一章第二段)もそうですが、作者が彼に与えた独特の視覚と言えるでしょう。容貌のどこがどう、というのではなく、その人全体が醸し出す雰囲気、こちらが受ける印象という形での表現で、いかにも若者の感じ方と言えるのではないでしょうか。

それにしても、「女君も、とても嫌でつらいと思っていらっしゃる様子ながら、それでも穏やかな態度で、寄り掛かっていらっしゃる」という玉鬘の気持ちは、どういうものなのでしょうか。

例えば『評釈』は「源氏を恐れず、いやがらないようになっている、…源氏のすることに慣れ、騒がないようになっている」と言いますが、「とても嫌でつらい(原文・いとむつかしく苦し)」と思っているように見えるというのですから、篝火の巻の親密さから比べると、一歩離れた感じとも取れます。父親代わりの人への義務感、と言えば言い過ぎかも知れませんが…。いずれにしてもこの人の源氏への態度は、大変曖昧で微妙で、彼女自身、揺れ動いているように思われます。》

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